歴史の教科書飛び出して|百人一首のトップバッター、大化の改新の主役(百人一首1番歌)
百人一首について詳しく知らない一般人が色々調べながら、歌を詠まれた背景に少しずつ想いを馳せる気まぐれシリーズ。
どーんと登場!百人一首のトップバッター!天智天皇ってどんな人?!


飛鳥時代を激変させた、「大化の改新」の主役
百人一首の1番は「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ…」という歌です。ある日家に帰って来たら、「今日から百人一首を一つずつ覚えていくよ!」と、理由もわからず母に暗唱させられたのでよく覚えています。
この歌を詠んだのが天智天皇。百人一首の顔とも言える存在です。
天皇になる前の名前は中大兄皇子。この名前の方が聞き覚えある人も多いかも知れませんね。
そうです。中大兄皇子と言えば「大化の改新」ですね。
当時の日本は、蘇我氏というめっちゃ力を持った豪族が、やりたい放題でした。そんな中、中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)というコンビが「このままじゃダメだ」って立ち上がって、蘇我入鹿を倒したんです。
これが「乙巳の変(いっしのへん)」。現在の教科書では記述が変わっていて、645年に起こった事件を「乙巳の変」、その後に行われた政治改革のことを「大化の改新」と呼ぶようになっているからご注意ください!(歳がバレる)
大化の改新では、土地と人民を国家が直接支配する「公地公民」や、新しい税の仕組みなど、律令制の基礎となるいろんな改革を一気に進めました。
このとき、中国に習って元号も制定されます。ここで制定された「大化」という元号が日本の元号の始まりです。

「てんじ」天皇だよっ!

近江大津宮に遷都
天皇になってからは、都を飛鳥から近江大津宮に移しました。

遷都した理由には諸説あり、
・朝鮮半島情勢が緊迫していたからとか、
・九州に近い西への遷都を考えていたとか、
・新しい政治体制を築くために古い飛鳥を離れたかったとか、
いろいろ言われています。
そして、この近江大津宮があったとされる場所に現在建っているのが近江神宮。そう、百人一首、かるたの聖地です!!
ここで毎年、かるたの名人戦・クイーン戦が行われています。天智天皇にゆかりのあるところだから、ここで百人一首の大会をするんですね。
時計を発明!?時間の概念を広めた男
また、天智天皇は、日本で初めて水時計(漏刻)を作って、時間の概念を世に広めたとも言われています。近江神宮の境内には時計館宝物館があり、漏刻・日時計なども設けられています。
まとめると、天智天皇は…
・百人一首のトップランナー
・「大化の改新」を主導
・近江大津宮に遷都
・日本に時間の概念を導入した文明の先駆者
【百人一首 1番】
秋の田の かりほの庵の とまをあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ
(あきのたの かりほのいおの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ)
天智天皇(てんじてんのう)
多分こんな意味: 秋の田んぼの番をする仮に作った粗末な仮小屋(かりほの庵)は、屋根の薦(こも)の編み目が粗いので、私の着物の袖は夜露にどんどん濡れていくよ。

天智天皇の歌と「庶民目線」の真実
「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ…」の歌は、天智天皇が国民(民)の苦労や生活に心を寄せていることを示すために詠んだとされています。
日本最古の歌集「万葉集」には、この歌のもととなったと思われる「詠み人知らず」の歌があります。後に作り直され、天皇が農民の立場で詠んだとされているのがこの歌です。
当時の天皇は、自ら田畑を耕すことはありませんでしたが、豊作を祈り、民の暮らしを案じるのが重要な役割でした。
つまり、この歌は天智天皇が「庶民の生活の厳しさを理解し、その上に立つ統治者として、民に寄り添う心を持っている」ことを表現した、民を思う統治者の目線の歌と言えるでしょう。
ここからは、本当に想像の域を超えませんが、
大化の改新の基本姿勢を示すために発布されたのが「改新の詔」。
ここで打ち出された方針が、
・「公地公民」の実施
・きちんとした都をつくるとともに、地方をおさめる仕組みを整える
・戸籍を作り、国民や土地を把握し班田収授(死後その土地を返納させる)を行う
・新しい税制の実施
だとしたら、農民目線で歌を詠むのも時代に沿ったものだったかも知れない…と、妙に納得するのでした。

本格的な律令制定に向けた第一歩
天智天皇の時代に律令制の基礎が築かれたのは確かですが、律令そのものを誰か一人が作ったわけではありません。
律令(律:刑法、令:行政法・民法など)は、中国の律令制度を模範にして作られた、非常に大規模で複雑な法典です。
そのため、特定の個人が全てを作り上げたというよりは、複数の人物が長期にわたって協力し、少しずつ整備していったと考えるのが適切です。
天智天皇の時代には、律令制度の骨格となる重要な動きがありました。
「近江令」の制定:天智天皇が即位後の668年に制定したとされる「近江令」が、日本で最初の「令」の法典だと言われています。残念ながらこの近江令は現存しておらず、具体的な内容はほとんどわかっていません。
「庚午年籍」の作成:670年には、日本最古の全国的な戸籍である「庚午年籍」が作成されました。
律令制の中心である公地公民制や班田収授法(土地の支給と税制の基盤)を運用するためには、正確な戸籍が不可欠です。これもまた、律令国家の基盤を築く上で非常に重要な事業でした。
このように、天智天皇の時代には、律令国家のシステムを動かすための土台作りが行われました。
律令の完成へ向けての主要な担い手たち
しかし、私たちが歴史で学ぶような本格的な律令(「大宝律令」や「養老律令」)が完成したのは、天智天皇の死後、以下の時代と人物たちによってです。
天武天皇(天智天皇の弟)の時代:律令制定を命ずる詔を発し、国史の編纂を本格的に命じました。
持統天皇(天武天皇の皇后で、天智天皇の娘)の時代:689年に「飛鳥浄御原令」が完成し、施行されました。これは、令のみが制定、施行されたものです。
文武天皇の時代:701年に「大宝律令」が完成します。これは、刑部親王(おさかべしんのう)と藤原不比等(ふじわらのふひと)が中心となって編纂しました。大宝律令は「律」と「令」が揃った本格的な法典であり、日本の律令国家の基本法となります。
聖武天皇の時代:757年に「養老律令」が完成・施行されます。これは、藤原不比等が編纂の中心であった大宝律令を、さらに改良・修正したものです。
このように、天智天皇は律令制の基礎を固めましたが、具体的な法典の編纂は、彼の子孫や重臣たちが世代を超えて行ったと言えます。
まとめ
藤原定家はなんで天智天皇の歌からスタートしたんでしょうね。気になりますね。
1番の歌のように「あ」で始まる札は16枚あって一番多いそう。「あき」で始まる歌は、他に79番があるので、79番も併せて覚えたいと思います。
───次回予告
百人一首を調べていたら、三角関係に行きついてしまいましたぁ!!!
【1】秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
【2】春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
【3】あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
【4】田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
【5】奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の声聞く時ぞ 秋はかなしき
