エッセイは知らない人との雑談
最近、何を書いたらいいんだろうか、と迷走している。それは反応をまた気にしているからで、そんなことは気にせずに思うがまま書けばいいのだと思う。しかし簡単には割りきれていない。
先日投稿した「自分のヴォイスを持つ」ということについて。
わからないことをわからないなりに探求するように書く。それが私にとっては心地よいことだ。「こうだろうか、いやこう?」みたいにクヨクヨとした寄り道を何度もする文章。そんな道でも歩いていれば、気づいたら目的地には近づくわけで、真っ先にバッタバッタとなぎ倒していくのは違うのかもしれない。それはそれで気持ちいいし、寄り道が最短ルートになっているゴールもある。
エッセイとは簡単に言えば、個人の思ったことを書いたものだと思う。これまでエッセイについてアレコレ書いてきたが、この瞬間は出てこない、単純に自分の思想を書いたようなもの。そういう意味では本がどうのこうのではなく、よくわからないまま脳内の声を垂れ流しにしている今書いているこの文章こそがエッセイと呼べる。そうだ。私は脳内の声をそのまま書いてきたのだった。それがいつからか、物事を上手に説明しようと書いている。それは別に悪くない。でも、自分のヴォイスとは違う。
群像2026年6月号の「本の名刺」に、くどうれいん『三十路の逆立ち』があった。「本の名刺」とは、著者本人がその本にまつわるエッセイを書いたものだ。
その中で、「エッセイはどういうことを書けばいいのか?」と尋ねられると、「たまたまバス停で目が合った隣のやさしそうな人に、バスが来るまでのあいだ自分の話をするような気持ちで(p325)」と言っている。
多くの人がエッセイを書こうと身構えて思いつくのは、挫折や成長の経験、ここぞという感傷的な思い出、自分との葛藤、人の死などの辛かった記憶らしい。(略)けれどいまはじめて会った人にいきなりそんなこと言われたらぎょっとしないだろうか。自分のことばかり説明されても困るし、その上でそんな自分が嫌いだと言われたら余計にどうしていいのかわからない。雑談にオチがあることや有意義であることを求めたりはしないはずなのに、どうしてエッセイだと思った瞬間にオチをつけなければ、なにか前進や決心を表さなければと思ってしまうのだろう。
確かに、人生の根幹に関わるような重大な一部を切り取って話しても、「それはそれは大変でしたね~」か、うんうんうなづかれて終わってしまう。
そうではなくて、もっと身近な話題を書きたいと言っている。
隣の人と話すつもりで、もっと何気なくていい。何気なければ何気ないほどいい。それでいて「へーっ、それで?」と身を乗り出してもらえるようなエッセイを書きたいものだ。
身近な話題と言えば「暑さ」だ。
例えば、「いや~、暑いですね。なんか暑さ対策されてますか? 私はくそ暑い日にこそお風呂に入って、バスルームと室内の温度差のギャップで涼んでます。」みたいな会話はどうだろうか。これもうんちくの披露だろうか。現に、お風呂に入ると体温が上がるので、体温と室温の差で涼しく感じている。お風呂上がりはちょっと素っ裸でいる方が気持ちいい。
これは「それで?それで?」とツッコミたくなる話だろうか?
そうそう昨年、まさにバス停で知らないおばあちゃんに話しかけられた。
「学生? 働いてるの? 仕事ないでしょ~、都会に行かなきゃロクな仕事ないでしょ。うちの息子なんて東京で働いているんだけど、駐車場の家賃が5万くらいするんだって。たっかいわよね~」
みたいな内容だったと記憶している。確かに、駐車場の家賃は気になる...。本当に東京は5万もするのか。ツッコミたくなるのだ。そして私はツッこんだ。でも、何を言っていたか覚えていない。そんな話をしているうちにバスが来ると、おばあちゃんが飴ちゃんをくれた。外からは手を振って見送ってくれた。
...みたいな話があるのだが、話の中に本当にそうなの? みたいなよくわからないツッコミどころを作る。それも、明らかに間違ってるだろ、と思われない程度の話を。まあ難しい。
でも、そうか。「これまで初対面の人に話すことを書いているか?」と言われれば確実にNOだ。
どれも「へぇ~、そうなんだ」、「お、おう」くらいの感想しか出てこないと思う。会話というよりは"論"だ。「私はこう考える。あなたは?」と、ツッコミを待つというよりも、「あなたの考えを聞かせて?」というスタイルに近い。私はそういう性格で、濁すこともあるが、基本的に問われれば自分の意見を話す。話せないとしたら、言うと不都合なことや慮れはない言い回ししか出てこない場合が多い。
色々と聞きたいことが出てくるのがエッセイ。そう考えるとますます難しい。
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