「書く」ってむずかしい。自分のヴォイスを持つ
昨日投稿した記事の文章がつたない。
フォントを変えた影響なのか、単純にそれが自分なのかは分からないが、ちぐはぐ感がある。
そんなときに思い出したのが『知性について』(内田樹著)の文章。長いけれども、引用する。
「書く力」というのは「自分のヴォイス(voice)」を持つことです。「自分の文体」と言ってもいいのですけれども、質感とか手ざわりとかいうことが優先するので、あえて「ヴォイス」というこなれない言葉を使います。
「自分のヴォイス」というのは、すらすらと自分の思念や感情をはっきりと表現して、相手に伝達できる文体のことではありません。そうじゃないんです。逆です。自分の思念や感情をその発生時点の、星雲状態においてとらえることのできる声です。だから、自分のヴォイスを持っている人は、つぶやいたり、立ち止まったり、言い換えたり、口ごもったり、前言撤回したりすることができる。
これが「自分のヴォイス」を持つことの最大のアドバンテージです。絶句したり、言葉が出て来なかったり、一度言ったことをあとから取り消すことができる。
僕はこういう言葉の使い手になりたいのです。
今の感情はここに書いてあることに近いのだろう。けれども、「自分の思念や感情をその発生時点の、星雲状態においてとらえること」というのがやっぱりよくわからない。モヤモヤをまるごと抱えるというような意味で考えているが、どこか腑に落ちない。
"星雲"を検索すると、「宇宙に漂うガスとチリ」とヒットする。"雲"が入ってるので、つかもうとしてもつかめないものなんだろうな、と考えている。それが立ち止まり、口ごもり、言い換えといったわからなさを表しているような気がする。
加えて、「すらすらと自分の思念や感情をはっきりと表現して、相手に伝達できる文体のことでは」ないことに憧れていると書いているのだが、やっぱりどこか言い切れるほうがカッコいいと思ってしまう。それは自分にはできないからだろうか。
内田さんは、論理的な文章は起承転結の型が決まっていて、言語活動が不自由になると言っている。それに対して、自分のヴォイスを持つことは、何度もやり直しが可能で、間違うことのできる文体と言っています。
僕は書く時に「自在を得る」ことを望んでいます。(略)僕がめざしているのは「場の気象に乗じ、場の理に従う言葉」を語ることです。(略)
「書く」行為は「書くべきときに、書くべきところにいて、書くべきことを書く」ことを理想とする。そういうものだと思います。
「場の気象に乗じ、場の理に従う言葉」とは、どんどんと書きたいことが涌いてくる状態で、言葉に詰まらない状態。その場に乗っていなければ、言葉は詰まり、言葉が継げない。そうしたら、言葉がすらすら継げたところまで戻りやり直して、また書く。
だが私は、「論理と共存できないのか?」と思ってしまった。ifルートをたどるにしても、また別の論理に乗る。そういう道もあるのではないか、と。でもそれはそれで、別の道もその道にある論理に縛られるから自在ではないのだろうか。
奇しくも、昨日投稿したタイトルにある「自分の中の合理性」というワードが、自分のヴォイスと同じ意味なんだろうな、と気づいた。「場に従う」というのは、自分の思念や感情に従うことだと思う。それはこの文章のあとにはこの文章があるのがベストだ、と感じる合理のことを指していると考えている。うーん、むずかしい。
それにしても、昨日の記事は久しぶりに自分の考えを書いた気がした。以下の記事で書いたことを実行できたと思う。
その記事もなんだかんだで聞きかじった知識がひょっこり顔を出してしまったのだけれど、自分の中のわけわからなさを久しぶりに感じて書いた。それまでは「本に書いていることはこの解釈でいいんだよね?」ということにわからなさを感じていたが、自分の感覚がこれで合っているのかに悩んだ。
『「論」じゃなくて、あなたの考えを知りたい』を書いてからは、また毎日投稿したほうがいいんじゃないのか、と思っている。結局はそこに戻ってくる。慣れてしまったことに回帰せざるを得ないのか。空白が耐えられなくてスケジュール帳を埋めるように、やることを増やすことでしか何かを満たせないのだろうか。
先月も今月も投稿してないのは3日だけ。それでも、どこかモヤモヤがある。これについてはまた考えます。
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