都市の規模から数千年の「進歩の速度」を可視化する【加速と減速の世界史4】
今回の記事は、これまで述べてきた「現代世界の減速(社会の変化はゆっくりになっている)」についての一連の記事のなかで、とくに重要なものだと思っています。なお、はじめての方でも、差し支えなく読むことができます(著者:秋田総一郎・世界史研究家)。
著者秋田による世界史の入門書『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫
「加速と減速」という、世界史を見わたす視点
これから述べるように、文明の変化・進歩という観点でみると、世界はこの5000~6000年で、数百年単位で続く加速と減速をくり返してきました。
加速とは、「社会の変化・進歩が急速な状態」のこと。減速は「変化のゆるやかな状態」です。
つまり、世界史では「……急速な変化・進歩→変化がゆるやか→急速な変化→変化がゆるやか……」といったサイクルがくり返されてきたということです。ただし、このサイクルは頻繁にくり返されるものではなく、それぞれの局面が数百年単位となるきわめて長期的な動きです。
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近代(概ね1500年頃以降の500年間)の世界は、大きな加速の局面にありました。とくに1800年代末から1900年代には、その変化・進歩はピークに達しています。
ただし、世界史的な加速の局面は、近代だけの現象ではない、ということです。
私の見解では、本格的な文明の時代に入ってからの、古代・中世を含む5000~6000年間で、人類は複数回の大きな加速と減速をくり返しているのです。
この見方には違和感がある方もいることでしょう。かなりの人は「近代以前の昔(古代・中世)はずっと変化がゆっくりで、近代以降になってはじめて変化が加速し、現在はさらに加速している」という話を聞かされています。
しかし、世界史の大きな流れは、「時代が下るにつれて加速している」といった一本調子ではなく、もう少し複雑な紆余曲折があるということを、この記事では述べていきます。
「加速と減速」という視点は、世界史の通史を扱った概説・解説では、(少なくとも真正面からは)取り上げられることは滅多にないです。しかし、「文明・社会がこの数千年のあいだに、時代ごとにどのような速さで変化・進歩してきたか」を問うのは、特殊・些末な関心ではありません。本来は重要で基本的なことであるはずです。
そして、さらに私は「現代の世界は、これまでの急速な加速の局面から減速の局面へと移行しつつある」と考えています。つまり、社会の変化はゆっくりになっているのではないか。
「加速から減速へ」ということは、近年の技術革新、政治・経済、文化など社会のさまざまな領域における現代的な事象を包括する巨大な変化だということです。
「加速から減速へ」という、現代の「激変」の正体
そして、この「現代世界の減速」ということは、現代人が抱く不安や閉塞感などの世界の動きに対するさまざまな受けとめ方の根源にあると、私は考えています。
たしかに、「社会の変化はゆっくりになっている」というのは、多くの人にとって受け入れにくい見方のはずです。前にも述べたように「社会の変化・イノベーションはますます加速している」ということが、世間ではよく言われるわけですから。
しかし、私に言わせれば、多くの人は「世界の減速」について、「見れども見えず」になっているのです。
それでも多くの人びとは、「今までと違う何かが起こっている」ことを、ばくぜんと認識しているはずです。つまり、「社会の動きが今までのパターンから別のパターンへと移行しつつある」とは感じている。だから、現代について「先の変化が読めない」「不透明で流動的」ということがよく言われるのです。「先が読めない」のは、やはり不安なことです。
しかし、「先が読めないのは、社会がますます加速しているからではない」と、私は考えています。それは、急激な加速・変化という慣れ親しんだパターンが崩れ、減速という、現代人になじみのないパターンに移行ししつつあるせいではないか。
たしかに「これまでのパターンから別のパターンへ移行しつつある」という意味で、世界は激変のなかにあるとはいえます。しかし、その「激変」とは、さらなる加速ではなく、進歩・変化の減速だというのが、ここでの主張です。
これに対し多くの人は、今の「激変」を従来からの加速局面の延長(さらなる急展開)として解釈するわけです。この数百年間に形成された常識から「社会は急速に進歩・変化する」と思い込んでいるので、そのメガネで事象を見ている。そして「加速から減速へ」という現代の「激変」の正体を見失ってしまう。
根底的で大きな動きというのは、大きすぎてみえにくいところがあるのではないでしょうか。たとえば、「地球は丸い」「自転・公転している」という実態は、大きすぎてなかなかみえないです。それでも、認識しやすい具体的な現象をいろいろと注意深く取り上げて総合すると、「大きすぎてみえない」ものもみえてくるはずです。
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なお、私は、以前のnote記事で「現代世界の減速」、つまり「現代において社会の変化はゆっくりになっている」ということを、詳しく論じています。
これは、「現代世界の減速」という、大きくてみえにくい現象を、技術革新、政治・経済、サブカルを含む文化などの多様な領域で、大小さまざまな捉えやすい事象を取り上げて浮かび上がらせようとしたものです。以下のリンクは、「社会の変化はゆっくりになっている」と題した全12回の一連の記事の最終回で、全体のまとめ・要約です。
世界史の発展は一本調子の指数関数ではない
そして、多くの人にとっておなじみの「世界は加速している」という見方は、「現代に近づくにつれて、変化・進歩が加速している」という、世界史の数千年間についての認識と深く結びついているはずです。
それは、図で描けば、つぎのような指数関数的(日常語でいうとネズミ算的)な増加を示すグラフ的なイメージです。

この記事では、このような一本調子の指数関数的グラフにかわる世界史のイメージを提示したいと思います。つまり、最初に述べたとおり「世界はこの5000~6000年で、数百年単位で続く加速と減速をくり返してきた」という世界史像です。
これをグラフ的に描くと、つぎのような階段状の発展、より詳しくいえば複数のS字型の曲線の組み合わせになります。

このような「階段状の発展」「S字曲線の組み合わせ」という世界史のイメージを持つことで、これまでみえてこなかったものがみえてくるはずです。
つまり、現代世界の減速という、従来の常識に反するために認識しにくい大きな変動も、「可能性として十分あり得ること」としてみえてくるのではないか。
これまでの世界史で加速と減速がくり返されてきたのなら、近代における加速も、いつかは減速を迎えるという予想も有力な選択肢であるはずです。そして、世界は今まさにそんな減速の局面にさしかかっている、と私は言いたいのです。
前置きはこれくらいにして、本論に入りましょう。
「文明のはじまり」「鉄器時代の革新」「近代の革新」
では、この数千年でくり返された加速と減速とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。
近代における急激な進歩と比較しうる大きな革新・変化の時代を、人類はこの6000年のあいだに、近代のほか、2回経験している――そう私は考えています。
つまり、近代も含めると、以下の3回ということになります。これらの3つの革新の時代は、世界史における「加速」の局面にあたります。
〈世界史(文明の時代)における、3つの大きな革新=加速局面〉
① 文明のはじまり 紀元前4000年頃~紀元前2500年頃
② 鉄器時代の革新 紀元前1000年頃~西暦100年頃
③ 近代の革新 西暦1500年頃~現在(1800年頃から加速)
「➀文明のはじまりの革新」は、メソポタミアなどの西アジア(現代史のアラブ地域に近い範囲)で、最も初期の大規模な都市文明が開花したことを指します(1回目の加速)。
たとえば、紀元前3000年頃(約5000年前)のメソポタミアでは、すでに数万人規模の大規模建造物を備えた都市が生まれていました。文字、金属器、暦、車輪や帆船、王のような権力者や行政組織等々の「文明の基本」といえる要素が、この革新を通して成立しました。
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「➁鉄器時代の革新」は、「➀文明のはじまり」の革新以降、長く文明が栄えていた西アジアで、鉄器の普及を大きな要素とするさまざまな技術革新や社会変革が進んだことを指します(2回目の加速)。
西アジアは、世界ではじめて鉄器が普及した地域です。なお、➀の革新では青銅器が作られるようになリましたが、普及は限られていました。つまり、鉄器の普及は、本格的な金属器の時代をもたらしたのです。ポリスの時代の古代ギリシアの文明は、この「鉄器時代の革新」に基づいています。そして、古代ギリシアは、ローマ帝国にも全面的な影響を与えました。
「➁鉄器時代の革新」は、ほかの2つの革新ほど広く認識されていません。たしかに「文明のはじまり」「近代の革新」に比べ限定的な面もあります。しかし、数千年というスケールで世界史を見渡す場合、きわめて重要な転換点です。
この革新を通して、国家や文化のあり方も大きく変化しています。たとえば、広大な領域と多様な民族を支配する大帝国(西アジアのアッシリアを先駆けとする)が成立し、一神教(ユダヤ教が先駆け)のような、現代も影響力のある高度の宗教も生まれたのです。大帝国も一神教も、「文明のはじまり」の革新からは生まれなかった、「鉄器時代の革新」ならではの産物です。
たしかに、近代以前の①②の変革は、「③近代の変革」ほど急激かつ劇的ではありませんでした。しかし、それでも当時としては急速な技術革新や社会的な変化が長期にわたって続いたといえるでしょう。
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そして、3回目の加速である「➂近代の革新」については、多くの人がそれなりの認識を持っているはずです。これは、1500年頃に西ヨーロッパが世界の中で先端的な位置を占めるようになって以降の革新です。ヨーロッパは、それまでの世界で有力だった、イスラムや中国を凌駕する科学や技術、社会体制などを生み出したのです。この動きは、1800年頃以降、産業革命などで全面的に開花しました。
先端的な地域を基準に年代を論ずる
なお、これらの「革新」の開始時期などの年代は、世界のなかでその革新が最も早く起こった先端的な地域を基準にしています。
たとえば、ご存じのように、近代科学の成立や産業革命(工業化)などの近代の革新は、ヨーロッパ(とくに西欧)で始まったもので、その動きがアジアなどの欧米以外に広く波及するまでにはタイムラグがありました。
たとえば工業化は、1800年代前半の時点では西欧限定の動きであり、世界のほかの地域ではまだなかったわけです。しかし、「③近代の革新」の開始の年代は、「世界史」の議論とはいってもヨーロッパの出来事を基準にしています。
それと同じことが「①文明のはじまり」や「②鉄器時代の革新」でも言えます。大規模な都市文明も、鉄器の普及も、先駆けは西アジアです。世界のそのほかの地域は、当時のそのほかの先進地帯であるインド(インダス川流域)や中国(黄河・長江の流域)でも、西アジアより数百年は遅れています。
しかし、そうした「後追い」の地域ではなく、西アジアの中心地域の動きを、上記の「世界史」的な年代の基準にしているのです。
このように、先端的な地域を基準に世界史的な年代(ある大きな動きの開始時期など)を論ずるというやり方は、いわば暗黙の前提としてしばしば行われてはいます。ここではそれを自覚的に行っていくということです。
そして、このやり方にはやはり意味や根拠があると、私は考えています。都市文明の成立や産業革命のような、世界全体あり方を大きく変えるだけのインパクトのある動きが世界の一部で立ち上がったときは、やはり世界史のなかの画期的なタイミングであるといえるはずです。その動きがまだ世界全体に行き渡っていないとしても、重要な転換点なのです。
「加速」と「加速」の間の減速局面
そして、①~③の「加速」局面の間には、「減速」の局面があります。以上の①②の加速局面が終わってから、つぎの加速局面が始まるまでには、1000数百年の期間があるのです。そこに注目するのが、私なりの視点です。
つまり、「①文明のはじまり」の時期の終わり(紀元前2500年頃と一応推定)から「②鉄器時代の革新」の始まり(紀元前1000年頃)まで。これは、1回目の減速。
そして、2回目の減速は「②鉄器時代の革新」の終わり(西暦100年頃と一応推定)から「③近代の革新」のはじまり(1500年頃)まで。
こうした「革新の時代(加速局面)の終わりから、つぎの革新(加速)の始まり」までの間が、減速局面であり、これまでに人類はこのような減速を2回経験しているのです。そして、ここで私は「今の世界は、3回目の減速にさしかかっているのではないか」という問題提起をしているわけです。
さきほど掲げた「階段状の発展」「S字曲線の組み合わせ」の図は、以上の3回の加速と2回の減速を、グラフ的な概念図としてあらわしたものです。そこで、急速な上昇の傾きが3回、傾きがゆるやかな平坦な部分が2回描かれています。

減速の先の「プラトー」
なお、この概念図における「傾きがゆるやかな部分」、つまり減速の先の定常状態を「プラトー」と呼ぶこともあります(もとは「高原」の意)。
ただし、プラトーの語は、社会や歴史を論ずるよりも、個人の成長・上達を論ずる場合に用いられることが多いです。
人がスポーツなどの何らかのスキルを習得するとき、初心者の段階では急速に成長・上達することがかなりあります。しかし、多くの場合やがて伸びしろが限られるようになり、上達が停滞する段階が来る……その停滞がプラトーです。
そして、そこであきらめれば成長は終わりですが、頑張って努力や試行錯誤を続けると、また新たな段階の成長が(いつもそうとは限りませんが)はじまっていく。しかし、その新たな成長も、やはりどこかで停滞する段階を迎えるのです。だがしかし、それでもさらに努力すればまた新しい成長があり得る……
このように、個人の成長を「階段状の発展」「S字曲線の組み合わせ」としてとらえる、一定の科学的知見と経験則に基づく見方があります。
そして、私はこのような「階段状の発展」「S字曲線の組み合わせ」という成長・発展のあり方は、世界史という巨大な社会事象においてもみられると考えるわけです。このことについても、今後また説明します。
具体的数値に基づく本来のグラフを描くと
ところで、上記はあくまで「グラフ」ではなく、「グラフ的な概念図」です。というのは、この図は、本来のグラフのように、特定の具体的な数値をグラフ用紙にあるような目盛りに落とし込んで描いたものではないからです。
しかし、この記事ではそんな「概念図」にとどまらず、根拠を持った特定の数値に基づく、本来の「グラフ」といえるものを示すつもりです。
結論を前倒しで示すと、それはつぎのグラフです。「最大級の都市の変遷グラフ」と名付けたものです。

©Soichiro Akita 2025
グラフについての、とりあえずの説明
以下、この「最大級の都市の変遷グラフ」については、今回の記事全体で述べていきますが、とりあえず、ごく簡単な説明を。
このグラフは、過去数千年間の世界における、各時代を代表する「最大」もしくは「最大級」といえる都市(紀元前のバビロン、ローマ帝国のローマ、1800年代のロンドンのような)を取り上げ、その人口(近代以前は幅のある推定値)を、時間軸に沿ってグラフに落とし込んだものです。グラフは、片対数グラフというやや特殊なもので、横軸は年代、縦軸は片対数目盛りによる人口を表します。
なぜ「最大級の都市」なのか。
それは、最大級の都市の規模は、その時代の技術や生産力の水準を数量的に示していると考えるからです。都市の規模が大きくなるのは、技術をはじめとする文明や社会の諸要素が高度化しているから、ということです。
そこで、最大級の都市の規模を数千年簡にわたって追いかけてグラフ化すれば、時代ごとの「変化・進歩の速度」という、本来とらえにくいものを可視化できるのではないか。
都市の規模が急速に大きくなっている時期があれば、それは進歩・変化の急速な加速局面を示しており、都市の規模が停滞している時期があれば、減速局面を示している、というわけです。
一言でいえば「都市の規模から数千年の進歩の速度を可視化する」ということです。
なお、世界の人口やGDPの変遷でも「進歩の速度」を描くことは可能でしょう。しかし、これらの数値については数千年前までさかのぼる、一定以上の信頼性のあるデータがありません。これに対し、「最大級の都市の規模」なら、数千年前まである程度の精度でさかのぼることができるのです。
そのような考えのもと、専門家によるさまざまな歴史書にあたって都市についての情報を集め、このグラフを作リました(具体的な文献は、次回以降で示します)。
そして、このグラフでは、この数千年間において、グラフの傾きの急な時期とともに、傾きが緩やかな時期がそれぞれ複数回みられるわけです。傾きが急な加速局面が3回、傾きのゆるやかな減速局面が2回ある……
こうしたことを、以下さらに説明していきます。
(前半ここで終わり、以下後半です)
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数千年間の「加速と減速」を測定できるのか
上記の「最大級の都市の規模」のグラフを描くにあたっての出発点は、つぎの問いかけでした。
そもそも「数千年間にわたる、技術革新や経済などの加速と減速の状況」ということについて、確かなことがわかるものなのか。とくに、グラフを描くうえで根拠になるような数量的なデータは得られるのか?
近現代であれば、相当な統計データや資料が残っているので、「進歩・変化の速度」を客観的・数量的に示すことはできるのかもしれません。しかし、古代や中世では、それは無理なのではないか?
たしかに、その疑問はもっともではあります。
ただし、数量的なデータにこだわらず、数千年間のさまざまな歴史的な出来事について多くの紙数を割いて説明すれば、「この時代は急速な進歩・変化があり、この時代は変化がゆっくりだった」ということを、読者にある程度伝えることはできるでしょう。「文明のはじまり」ではこのような革新があった、「鉄器時代の革新」ではこうだった……といった話をたくさん積み重ねていくのです。これは、歴史記述としては一般的なやり方といえます。
しかし、それだけでは「自説(「加速と減速」という視点)に都合の良い事実ばかりを、恣意的に取り上げているのではないか」という疑問や批判の余地が残るでしょう。
やはり、より客観性のある、数量的なデータに基づいて、世界史における「加速と減速」を語ることができれば、それに越したことはありません。
つまり、そのようなデータで「進歩・変化の速度」をあらわすグラフを描くのです。
そして、こうした「進歩・変化」についてのグラフでは、まず「技術革新」を中心的なテーマとすべきだと、私は考えます。これまでにも(前述の「社会の変化はゆっくりになっている」の一連の記事で)述べてきたように、技術革新は、社会のさまざまな進歩・変化の根底にあります。そこにまず目を向けるべき、ということです。
「技術革新・イノベーションが社会変化の根本にある」という見方は、少数の異論はあるとしても、ごく一般的なものだといえるでしょう。私もこの点に関しては、基本的に多数派の考えに賛同しているのです。
「技術革新の速度」の変化をグラフ化した先例
じつは、(超)長期にわたる「技術革新の速度」の変化をグラフ化することには、すでに先例があります。
たとえば、以前の記事(「社会の変化はゆっくりになっている」の一連の記事)で引用した、経済学者のタイラー・コーエンは、「近年における技術革新の停滞」を示す、独立研究者のヒューブナーによるグラフを自著のなかで示しています(『大停滞』NTT出版、2011年)。
このグラフは、2005年に発表されたもので、1400年代後半から2000年頃までの重要な発明をピックアップし、その件数を「人口10億人あたり」に換算してグラフにしたものです。これによれば、技術革新のペースは、1900年代に入ってから、減速傾向にあります。

曲線の着色(赤)は著者秋田による
しかし、このようなグラフに対しては「“重要なイノベーション”を、どういう基準で選ぶのか? その選択が主観的ではないか」という批判があり得るでしょう。
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さらに、ヒューブナーよりも約60年も前に、同じような発想のグラフが描かれた例もあります。これは、「過去7000年間の発明速度」についてのグラフで、技術史家のS.リリーがその著書『人類と機械の歴史』(岩波新書、1953年、原著1945年)で示したものです。

年代を示す赤線、ゴシックの年代は著者秋田による
リリーもまた、世界史上におけるおもな発明と、その年代を調べあげました。そのうえで、それぞれの発明の「重要度」に応じてポイントをつけました。ポイントの高い発明が多くなされた、進歩や変化が急速だったとされる時期には、グラフの線は高い数値を示します。ただし、このグラフでは、ヒューブナーのように「人口あたり」という換算はしていません。
このような「重要と判断した発明を選んでポイント化する」という方法の基本は、リリーとヒューブナーは共通しています。
ただし、ヒューブナーが1400年代~近現代を扱ったのに対し、リリーは紀元前5000年から1900年代前半までの約7000年という、さらに長い期間を対象としています。また、ヒューブナーのグラフでは、1900年代には技術革新は減速傾向がみられるのですが、リリーのグラフでは、1900年代前半も急速な技術革新が続き、さらに加速していることが示されています。
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そして、リリーのグラフに対し、私はヒューブナーのグラフ以上に注目しています。このグラフが示していることは、ここで主張している「加速と減速のくり返し」という世界史の大きな動きと合致しているからです。
リリーのグラフでは、「発明のペース」が高くなっている大きな「波」が、3つあります。
ひとつは、西暦1000年頃以降、とくに1500年頃以降の波。近代の技術革新です。世界史における「技術革新の大きな波」というと、まず思い浮かぶのはこれです。私も、「近代の革新」として、さきほどの「世界史における3つの大きな革新」で取り上げました。
しかし、リリーによれば、「波」はほかにもあります。
近代以外の大きな「波」のひとつは、紀元前1000年頃から紀元1年頃までのもの。これは、さきほど述べた「鉄器時代の技術革新」と重なります。
また、紀元前5000年頃から紀元前3000年頃にかけても、発明の頻度は高い水準であり、大きな「波」となっています。これは、さきほどの「文明のはじまり」と大まかには重なっています。そして、紀元前3000年(5000年前)頃以降、グラフの線は急速に低いレベルに落ち込んでいきます。
つまり、このリリーのグラフは、以上で私が述べた「世界史における3つの大きな革新」を示すものになっているのです。


しかし、ここでリリーがとった方法は、やはりグラフとしては説得性が弱いといえるでしょう。自分の尺度で、グラフの数値の元となる材料を選択したりポイントをつけたりしているのです。私のように、リリーと近い考えを持つ者には納得がいく興味深いものだとしても、ちがう立場の人にとっては、それは受け入れにくいはずです。
そして、このグラフは、やはり評判が悪かったと思われます。リリーの同書(『人類と機械の歴史』)は、初版から20年後の1965年に原著の増補改訂版(日本語版は1968年)が出ているのですが、そこではこのグラフは削除されているからです。
より多くの人を説得するために、「数千年にわたる人類の技術革新の速度」を示すグラフは、ヒューブナーやリリーとは別の方法で描かないといけないのです。
「最大級の都市の規模」という指標
では、どうしたらいいのでしょうか? これは、「数千年間にわたる進歩・変化の速度を測ることはできるのか」ということですが、やはりむずかしい問題です。しかし、一定の方法はあるのではないか?
そこで私は、技術革新を軸とする人類の進歩・変化の状況をはかる指標として、「各時代における世界最大(級)の都市の規模」を用いてはどうかと考えました。
つまり、「最大級の都市の規模」を数千年間にわたって追いかけてグラフ化する、ということです。
世界史にはそれぞれの時代に、最も繁栄した最大もしくは最大級の都市があります。
たとえば、紀元前の西アジアにおけるバビロン、ローマ帝国のローマ、イスラム帝国のバグダード、唐の長安、大英帝国のロンドン、そして1900年代アメリカのニューヨークは、それにあたります。これらはどれもその時代を代表する大国の中心で、世界のなかでとくに中心的な場所でした。
そして、こうしたまさに世界の中心といえる都市の人口規模や建物・インフラのあり方は、技術を軸とする各時代の文明の発展状況を見やすいかたちで示しています。
ニューヨークや東京のような現代世界の最大級の都市は、文明のたまものです。
つまり、それらの都市は建築や工学の技術、交通通信網、物資の生産と流通、公衆衛生のインフラ、社会制度や行政組織などの発達に支えられているのです。また、これに匹敵する高度に発達した巨大都市は、近年は中国などの新興国でも出現しているわけです。
長いあいだ都市の広さの基本は、徒歩で日常的に行ける範囲でした。しかし、鉄道やそれに続く自動車の出現によって、それが大きく変わりました。また、上下水道などのインフラ整備や医療の発達がなければ、伝染病が蔓延してしまうので、何百万人もが密集して住むのは、きわめて困難でしょう。
さらに根本的には、巨大な人口を養うだけの食糧の生産と輸送が可能になったということがあります。都市住民に供給可能な「余剰」といえる食糧生産の拡大と、おもに船舶による輸送力(港湾施設などのインフラ含む)の発達は、都市の巨大化を支えてきた大きな要素です。
産業革命以降、農業の生産性が機械化などで飛躍的に向上したことは、以前の記事(「社会の変化はゆっくりになっている」)でも述べました。また、鉄道や自動車によって、陸路での大量の食糧輸送も可能になりました。鉄道以前には、陸路で穀物などを数百キロ以上の遠くへ運ぶことは、採算に合わないことだったのです。
現代(2000年代初頭)のニューヨーク、東京、上海の都市圏の人口は、「都市圏」の定義の仕方によって多少異なりますが、概ね2000万~4000万の範囲内です。
これに対し、イギリスで産業革命が進行中だった1800年頃、ロンドンの人口は100万人ほどでした。当時のロンドンは世界で最も繁栄した中心的な都市のひとつです。その時代の技術力では、超高層ビルが立ち並ぶ1000万人単位の巨大都市など、まず想像できません。
都市の規模が大きくなるのは、さまざまな技術的・社会的制約を克服した結果です。技術革新によって、それまでの都市で可能だった規模・容量の限界を乗りこえたということです。つまり、つぎのように考えていいでしょう。
各時代を代表する最大級の都市の規模は、その時代の文明が到達した技術や生産力の総合的な水準を示している。
「文明が到達した技術や生産力の水準」とは、一言でいえば「技術水準」あるいは技術を核とする「文明の水準」です。
ということは、さまざまな時代の中心都市を追いかけると、その規模の変化などから技術を軸とした文明の発展の長期的な推移がわかるはずです。数千年間の変化を数量的にイメージできるのです。
「都市の規模」という数値の利点
「数千年間の文明の発達を数字で追いかける」なら、「都市の規模」よりもよい素材があるのでは、と思うかもしれません。たとえば、世界全体の人口やGDP(国内総生産)を過去数千年分さかのぼることができたら?
しかし、数百年以上昔の「ある国全体の人口」、ましてや「世界人口」については、ごく限られたことしかわかっていません。世界人口についての、かなり信頼できる統計は、せいぜい1800年頃以降です。それ以前の古い時代には、戸籍や統計などの資料がきわめて不十分だったからです。
世界全体ではなく一国全体の人口にかぎっても、現代の研究者がある程度以上の精度で長期にわたって推定できるのは、ヨーロッパの一部、日本などの先進的な国・地域でもせいぜい1500~1600年代以降です。こうした先進地域については、それ以前の時代の推定もいくつかなされてはいますが、信頼性は一段あるいはそれ以上に劣ります。
日本の場合、江戸時代の後半の時期(1700年代前半~1800年代前半)における全国の人口については、地域単位で行われた人口調査にもとづく「人別帳」などからかなり正確に推定されています。しかし、その精度で当時の国全体の人口をそれだけの期間について推定できるのは、世界のなかでは例外的なことです。
また、世界初の近代的な国勢調査が行われたのは、1790年のアメリカでのことでした。それ以前には、現代のような高い精度の一国レベルの人口統計は、どこにもなかったのです。
数千年にわたる「世界人口の推移」のグラフも、みかけないわけではありません。しかし、あれは推定に推定を重ねて、きわめて強引に描いたものです。そこで、グラフを描いた人の世界史についての理解やイメージをなぞっている面があることは否定できません。
それでも、一定の根拠をもとに研究者が推定したものであり、たしかに参考にはなります。しかし、世界史を考えるうえでの「基礎」にできるかというと、やはり疑問です。
そして、GDPはというと、人口よりもはるかに複雑で、第二次世界大戦後に普及した新しい統計であり、近代以前の推計は人口以上に困難です。
一方、各時代の最大(級)の都市という限られた範囲の、きわめて目立つ存在についてなら、古代・中世についてもある程度のことがわかっています。かなりの史料や遺物が残っているからです。欠落も多いですが、数千年前までさかのぼることも可能です。
古代(とくに紀元前)の都市については、直接的に人口にかかわる文書の資料はごく限られますが、遺跡の面積や、建造物の具体的な状況については一定程度のことはわかるので、そこから大まかに人口を推定することはできます。また、古代でも時代が下ると若干の文書資料が残っている場合もあります。
このように「一定の根拠や信頼性のあるデータを、数千年にわたって追跡可能」という条件を満たす素材は、ほかにはなかなかみあたりません。
なお、「“都市の人口”といっても、都市の範囲を確定するのはむずかしいのでは?」という疑問もあるかもしれません。たしかに現代の日本のように、国土のかなりの範囲で人口密集地帯が続く場合には、その疑問にはもっともなところがあります。
しかし、現代はともかく比較的近年まで都市の人口密集は、多くの場合は都市を囲む城壁などの境界や、その周辺で途切れてしまうものでした。
ところが1900年代には、鉄道と自動車の発達などで、従来の都市の周辺に都市的な環境が拡大する「郊外化」が、欧米をはじめ世界各地ですすみました。郊外化で都市の範囲は以前よりも曖昧になりましたが、1900年頃以前の時代では、都市とそれ以外の場所を区分することは十分に可能です。
「最大級の都市の変遷」グラフ
では、この6000年ほどのあいだで、最大級の都市は、どのような人口規模の変遷をたどってきたのか?
私は、世界史にかんするさまざまな本から、各時代の「最大級の都市」の人口をひろって、グラフを(手描きで)描いてみました。それが、前にも簡単に紹介した、以下の「最大級の都市(の人口)の変遷」です。

©Soichiro Akita 2025
この「最大級の都市の変遷」のグラフは、縦軸の人口を示す目盛りが特殊なものになっています。「最大級」というのは、「最大かそれに匹敵する」という意味です。
つまり、縦軸は「1万人→10万人」「10万人→100万人」「100万人→1000万人」といったかたちで、「比」が同じ場合は、目盛りの幅が同じになっているのです。このような目盛りを「対数目盛」といいます。
一方、年代(時間経過)を示す横軸は一般的な目盛りです。そして、このグラフのように縦軸が対数目盛で、横軸が一般的な目盛りになっているものを「片対数グラフ」といいます(このグラフは市販の片対数グラフ用紙に、一定の区切りでタテヨコの線を描き込むなどしています)。
こうした片対数グラフでは、成長の勢い(成長率)が同じだと、グラフの線の傾きが同じになります。ものごとの成長率の変化をみるのに便利なグラフです。
なぜ、このようなグラフを使うのか? 通常の目盛りのグラフで、6000年間にわたる「最大級の都市」の規模の推移を描くと、数千年前と現在のあいだで都市のスケールが大きく異なるため、時間経過とともに勾配が急になる指数関数的(日常語でいうとネズミ算的)なグラフとなります。
しかし、それでは、近代以降の急激な上昇ばかりが強調され、近代以前にも比較的急速な上昇期があったことがみえにくくなってしまいます。しかし、片対数グラフを用いれば、近代以前を含む、長期にわたる成長率の推移をより丁寧にとらえることができるのです。
そして、この方対数のグラフ用紙では、各年代における「最大級」の都市の規模を、グレーの「点」または「棒状の印」で書きこんでいます。棒状の印は、人口の推定に「1~2万」「15~20万」「30~70万」など、かなりの幅があることを示しています(これは、専門家によって推定値が異なる場合と、特定の専門家が幅のある推定値を打ち出している場合とがある)。なお、印の横幅は、推定年代の幅を示します。
また、黄色い線は、各都市についての幅のある推定値のなかで、各時代の最大値をざっと結んだものです。数値の変化の全体的傾向をみやすくするための線です。
そして、この「最大級の都市の変遷」のグラフからは、これまで述べた「3つの革新」や「加速と減速のくり返し」があったことが、かなり明確に伺えるはずです。以下、説明していきます。

グラフが示す6000年間のストーリー
このグラフに沿って説明すると、「最大級の都市の規模」の成長は、この6000年ほどでつぎのような経緯をたどっています。
1. 紀元前4000年頃~2700年頃に急成長(1回目の加速)
急成長の直前、紀元前5000年頃には最先端地域だった西アジアのおもな農耕集落で最大級のものは、面積が10〜10数ヘクタール(推定人口1000~3000人)の規模だった。人口千人単位の集落がいくつも存在していたということである。
その後、紀元前4000年頃からメソポタミア南部のウルクが発展し、紀元前3300~3200年頃には、人口1~2万(100ヘクタール)に。さらにウルクは紀元前2900~2700年頃には6~12万人(600ヘクタール)の規模に達した。また、メソポタミアでは、ウルクにやや遅れて、ウルクに匹敵する規模の都市がいくつかできていった。
*これらの人口は、1ヘクタールあたりの人口密度を「100~200人」として、遺跡調査からわかる、該当する時代のウルクの面積(100ヘクタール、600ヘクタールなど)を掛けたものである。かなりの考古学者がこれに類する計算をしている。
*ただし、ウルク以前に数千人~1万人規模に達していたとみられる都市もみつかっている。メソポタミア北部の紀元前4000年頃のテル・ブラクはそうであり、その後のメソポタミア南部の都市の発展に影響をあたえたとみられる。また、紀元前6800年~6300年頃のチャタル・ヒュユク(現トルコ)も数千人単位の人口に達していたとみられるが、その社会的な発達(階級分化の状況など)は、のちのメソポタミアの都市にくらべて初期的なものである。
*以上のような都市の先行事例はあるものの、人口が「数万人」の規模に達したのはウルクが初めてである。そして、1000年単位で存続し、その文明・文化が西アジアの広い範囲に大きな影響を及ぼしたという点でもウルクは画期的だった。たとえば、その後の西アジアで広く用いられた最初の文字(楔型文字)は、ウルクで生まれている。これに対し、チャタル・ヒュユクは紀元前6000年頃には消滅し、後世への影響は不明(そこでグラフからは除外)。テル・ブラクの繁栄や影響も、ウルクに比べればはさらに限定的である。
2. その後、減速・停滞。停滞が始まった時期は特定できないが、紀元前2500年頃の前後数百年のあいだのことと考えられる(最初の減速)。
ウルクやその同時代のライバルといえる都市を大きく超える規模の都市は、その後長いあいだ(2000年余り)あらわれなかった。「大きく超える」とは、「数倍以上」つまり「4~5倍以上」の規模をさすこととする。
たとえば、紀元前1500~1300年代にとくに栄えたエジプトのテーベが数百ヘクタールで人口10万程度。紀元前600年頃の最大の都市と考えられるメソポタミア北部のバビロンは1000ヘクタールの規模だったが、この時代に至っても紀元前2900~2700年頃のウルク(600ヘクタール)を「大きく超える(数倍以上)」といえるレベルではない。

3.2回目の急成長(加速)
その開始時期はやはり定かでないが、紀元前1000年頃~紀元前500年頃の数百年のあいだである。この急成長の結果、数十万人(40~50万人)~100万人規模の都市があらわれた。紀元前100年頃のアレクサンドリアは最も初期の「数十万人」規模の都市と考えられる(信頼性は高くないが同時代の記述によれば人口90万人。アレクサンドリアは、アレクサンドロス大王が築いた帝国の首都として紀元前200年代に建設された)。
なお、中国では、同様の「都市の大規模化」が、鉄器の普及がはじまった戦国時代(紀元前400年頃~)に進んでいる。やはり信頼性は高くないが、紀元前300年代には当時の大国である斉(せい)の都・臨淄(りんし)が人口30数万に達した可能性がある。
また、古代ギリシア(ポリスが繁栄した時代)のアテネの最盛期(紀元前400年代)は、画期的な技術や文化はみられるものの、人口としては10数万~20万の規模であり、それまでの都市を大きく超えたとえはいえない。
そして、西暦100年頃にはローマが、おそらく100万人程度の規模に達した。なお、同時代に栄えた漢王朝(前漢・後漢)の都市で、長安などの最大のものは数十万人規模であり、ローマを超えるものではない。
*西暦100年頃のローマの人口は、30~40万人から100万人余りまで、いくつかの説があるが、多数派の学者は、100万人前後だったとみている。なお、この時代になると、遺跡の面積以外のさまざまな情報からの人口推定が可能になる。

4. その後(西暦100年代以降)また減速・停滞
ローマ帝国が衰退したあと、イスラムの帝国や中国の王朝がおおいに繁栄したが、その最大級の都市の人口は、数十万人~100万人ほど。イスラムの帝国(アッバース朝など)の首都として有名なバグダードの最盛期(800年代)でも、唐の長安の最盛期でも、多数派の推定では数十万人規模(100万人は過大という見方)である。つまり、最盛期のローマと同程度の規模かそれ以下ということ。
中国の南宋の都として栄えた、1200年代の杭州は、近代以前の最大の都市のひとつと考えられるが、多く見積もった推定でも、人口100万~150万人である。ローマを凌ぐ規模だった可能性があるが、それでも大きく超えるものではない。
5. 1800年頃以降の3回目の急成長(加速)
1800年頃、世界最大の都市は、イギリスのロンドン、江戸、北京などで、その人口は100万前後で並んでいた。当時のロンドンは産業革命が進行中で、江戸は黒船来航の約50年前、北京は清王朝の時代である。それが1850年には、ロンドンが300数十万人になって突出。ロンドンは、近代の巨大都市のスケールにはじめて達した都市といえる。
そして、1900年代初頭には、ニューヨークがロンドンに並び、やがて抜き去って世界最大となった。ニューヨークの都市圏の人口は1900年には700万(ロンドンも同程度)、1920年には1000万に達した。1900年代の後半~1900年代末には、最大の都市(都市圏)の人口は2000万~3000数百万に達し、現在に至っている。ニューヨーク、東京、ソウル、メキシコシティ、ムンバイ、上海、北京、サンパウロなどの世界の主要都市は、その規模である。

右肩上がりの「加速」から「減速」「定常状態」へ
この「最大級の都市の(人口の)変遷」のグラフでは、最大の都市の規模が大きくなる時期が数百年~1000年程度続く「右肩上がり」の局面が3か所あります。その3か所は、「①文明のはじまり」「②鉄器時代の革新」「③近代の革新」という、この記事の前半で述べた3つの大きな革新の波と重なっています。これらの「右肩上がり」は、世界史における加速の局面といえるでしょう。
そして、この加速局面が数百年以上続いた結果、上記①~③のいずれにおいても、都市の規模は、加速がはじまる以前の数倍~10倍以上に達しています。
1回目の加速(「文明のはじまり」)で、紀元前2900~2700年頃の最大級の都市ウルクは、従前の数千人規模から数万人~10万人程度に達しました。紀元前4200~4000年頃のテル・ブラクからみれば数倍~10数倍、紀元前5000年頃の西アジアの最大級の集落(推定値の上限)からだと10数倍~30倍です。そして、この「数万人~10万人」の水準が、これ以降少なくとも2000年続きます。
2回目の加速(「鉄器時代の革新」)では、最大級の都市の規模は、おそくとも西暦100年(1900年前)頃には数十万~100万人達し、その水準が1800年頃まで1700~1800年間続きます。
そして、3回目の加速(「近代の革新」)の場合は、1800年頃の人口100万程度から、1900年代末にはその30~40倍の3000~4000万人規模になっています。やはり、「近代の革新」の波は、それ以前の2つの波よりも大きく、激しいものだったのです。
なお、現代の都市の巨大化については、近年は一定の減速の兆候があると私は考えます。このことについては、今後また検討しますが、先ほど述べた数字だけみても、ある程度は伺えます。
1800年頃、最大の都市は人口100万程度でしたが(江戸、ロンドンなど)、100年後の1900年には7倍の700万となり(ロンドン)、1920年には1800年頃の10倍の1000万となりました(ニューヨーク)。これに対し、2020年代において、最大の都市圏が3000~4000万人というのは、100年前の1920年に対して3~4倍の水準なのです(これに対し1800年から1900年の100年間では7倍に増加)。
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そして、従来の規模を大きく超える都市が成立した場合、その都市を支える技術は、従来の水準を大きく超えるものであるはずです。「最大の都市」が数倍以上の規模に変化するときは、それを支える急速な技術の進歩やそれに伴う社会の変化が起こっているのではないかということです。
つまり、このグラフで急な右肩上がりになっているのは、この時期に技術革新を基礎とする、さまざまな進歩や変化がとくにさかんだったことを示している、というわけです。
しかし、そのような急速な進歩・変化は、ずっと続くわけではありません。このグラフでは、大きな「右肩上がり」は「①文明のはじまり」でも「②鉄器時代の革新」でも、一定のところで終わりをむかえます。「加速から減速へ」という局面の変化が起こったのです。
そのような転換点は、また次回以降で説明しますが、①の場合、紀元前2500年頃(その前後数百年のうちのどこか)であり、②の場合、西暦100年頃(その前後100年くらいのうちのどこか)ではないかと、私はみています。
ただし、このような「屈折」の時期を特定するのはむずかしく、このグラフでは、とりあえずの描き方しかできません。そもそも、「加速から減速へ」という変化が、特定の時期に明確に起こったものなのか、それとも、なだらかな曲線として描かれるような変化だったのかも、今のところはっきりしません。それでも、一定の時間の幅のなかで、加速から減速への転換があったことは明らかだといえるでしょう。
そして、「①文明のはじまり」「②鉄器時代の革新」では、グラフが曲がって加速局面から減速局面に移った先には、傾きの少ない、かなり平坦な線が、つぎの加速局面まで長期にわたって続きました。これは、技術革新などの進歩・変化における「定常状態(プラトー)」をあらわしていると、私は考えます。
世界史の大きなサイクル
なお、「定常状態」は、広い意味では「減速」局面の一部あり、減速局面の後期、つまり「減速後期」であると位置づけることができるでしょう。これに対し、加速から減速への移行がはじまった当初の段階は「減速前期」ということになりますが、これは単に「減速」と呼ぶことにします。
また、「加速」局面についても、グラフが立ち上がった初期段階である「前期」と、グラフの傾きがさらに急になる「後期」という区分が可能なはずですが、その区分は省略します。ここでは、減速という現象に対し、よりくわしく分け入りたいと思います。
ここまでの主張をまとめて再確認すると、以下のとおりです。
「加速」→「減速」→「定常状態」という大きなサイクルが、この6000年の世界史において、くり返されてきたのではないか。そして、これまでの2回の完結したサイクルを経て、今の私たちは3回目のサイクルにおける「減速」の局面をむかえているのではないか。
(世界史でくり返されてきた、大きなサイクル)
加速 → 減速(減速前期)→ 定常状態(減速後期)
これから次回以降で、このような「加速と減速の世界史」について、より具体的に述べていきます。グラフが示す数字の背後にある歴史上の出来事を説明していくということです。ただし、ていねいに述べれば分厚い本数冊分にはなる話を、非常にコンパクトに要約して述べるつもりです。
このグラフのデータの信頼性・中立性
ここまで、「最大の都市の変遷」についてみたわけですが、それにしても、このグラフ(その元になるデータ)は、どの程度信用できるものなのでしょうか? そのような疑問は、当然あるかと思います。
まず、推定値について「あまりに大雑把で、いい加減ではないか」という印象を持つかもしれません。
専門家による人口の推定値は、たとえば100年頃のローマの場合、「30~40万から100万(あるいはそれ以上)」といった相当の幅があります(グラフでは、有力説といえる「100万程度」としている)。前に述べたように、最大の都市にかんしては、近代以前でもある程度は(少なくとも世界人口の推定よりは)信頼できる人口推定が可能です。しかし、それでもその推定には、このようにかなりの幅が生じます。そこに不信感を持つ人もいるはずです。
しかし、推定値に幅があるにせよ、ここでの議論では「数十万人~100万人であって、数万人でも数百万人でもなかった」だということがまず重要です。なお、前にも述べたように、ここで「人口数万」「数倍」の「数…」は「4~7」を指すことにします。ここでは、とくに1800年頃以前については、そのように数字をごく大まかにみることが重要です。
つまり、「2倍程度のちがいは誤差の範囲」であり、「数倍以上ではじめて意義のある明確な差異である」という感覚でみるのです。その精度で、必要な検討は可能なはずです。つまり、そのような精度についての考え方で、「最大級の都市の規模の推移から、6000年間にわたる技術進歩の加速・減速の状況を推定して大まかにみわたす」ということが可能ではないか、ということです。
また、「人口統計のない時代に、世界最大の都市が特定できるのか?」という疑問もあるかもしれません。しかし、厳密に「ナンバーワン」を特定する必要はありません。ここでの議論では、時代ごとの都市の規模を、大まかに比較するために、その時代の「世界最大級」がわかればいいのです。
そして、このグラフは、近代以前については、整ったグラフを描くにはデータが不足し、欠落が多いです。「無理をして描いた」という面は否定できず、その意味でも「あやしい」と感じる人もいるはずです。
しかし、数は限られるとしても、グラフに落とした個々のデータには、それなりの(大ざっぱな)信頼性があると考えています。それらは、「近代以前の世界人口」ほど無理を重ねた推定によるものではないのです。
なお、このグラフの元になっているのは、対象となる時代や地域を専門とする学者の著書から直接拾った数字です(出典については次回以降の注などで示します)。たとえば、ウルクについてはメソポタミアを専門とする考古学者の著作から、ローマはローマ史の学者の著作から、ということです。
つまり、このグラフは、特定の資料にまとめられた数字を引き写したものではありません。相互に直接はつながりがないさまざまな専門家の著作からの引用であり、それらの著作が、私がここで述べる世界史像(加速と減速の世界史)に沿った内容ということもありません。
つまり、このグラフの数値は、私や特定の著者による考えをそのまま反映したものではないのです。その意味で、恣意性は、完全ではないにせよ、かなりの程度排除されています。
このように、データの数は限られますが、以上で述べた大まかな世界史のストーリーを描くうえで最低限必要な、信頼性や中立性といった条件をみたす材料はそろっているということです。
系統発生の視点で世界史をとらえたグラフ
なお、このグラフについてのそもそもの疑問として「メソポタミア、ローマ、イスラム、中国、欧米といった、それぞれ系譜(過去からのつながり)が異なる国・地域における都市の人口を線で結ぶことに、意味があるのか?」ということもあるかもしれません。
このグラフで取り上げる、ウルク、バビロン、アレクサンドリア、ローマ、バグダード、長安、杭州、ロンドン、ニューヨークなどの都市の人口は、いわば「都市の規模における、各時代の世界記録(少なくとも世界トップクラスの記録)」です。そして、その「世界記録」を担った主体、つまりその都市を築いた民族や国家はそれぞれ異なります。
では、それらの異なる主体が達成した「世界記録」を線で結ぶことに、はたしてどれだけの意味があるのでしょうか?
やはり、おおいに意味はあるはずです。たとえば、それぞれ異なる選手が達成した、各時代の100メートル走や幅跳びの世界記録を線で結んでグラフを描けば、そのグラフからは、競技全体の発展過程がみえてくるでしょう。
「都市の規模の世界記録」でも、それは同じことです。この「最大の都市の変遷」のグラフからは、都市の規模を支える、各時代の先端的な技術水準の変遷、つまり「文明の発展過程」について、みえてくるものがたしかにあるはずです。
生物学では、「全体の発展過程」のことを「系統発生」といいます。種全体や生物界の進化・発展のことです。これに対し、個々の卵や芽が成体になるまでの成長過程が「個体発生」です。スポーツ競技でいえば、世界記録の変遷は系統発生で、個々の選手が記録を出すまでの道のりは個体発生にあたります。
この「“最大の都市”の人口の変遷」のグラフは、系統発生の視点で世界史をとらえようとするものです。一方、個々の都市やそれを生み出した国家・民族が「世界記録」に達するまでの発展過程は、ここでの主題ではありません。
(第5回に続く)
「加速と減速の世界史」のこれまでの記事(第1回~第3回)
「世界史は全くの初心者」という方には第2回と第3回がおすすめです(第2回→第3回の順序)。これらの記事にある世界史の大きな流れについての基礎知識があると、そのほかの記事がより理解しやすくなります。もちろん、いろいろな世界史の本も読みやすくなるはずです。
