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「中心」の移り変わりでみる世界史のまとめ【加速と減速の世界史3】

この記事では、世界史5000年余りの大きな流れを、一気に読める分量で述べていきます(「本編」にあたる部分は6000数百文字。10~15分で読めるはず。地図も多数あり)。

この「世界史のまとめ」の特徴は、

各時代の世界で最も繁栄した「中心」「先端」といえる地域に焦点を合わせ、その移り変わりを追いかける

という書き方にあります。

「あれもこれも」と盛り込もうとせず、多くのさまざまな国や地域については省略しています。極端に圧縮された記述で、映画の早回しのような感じかもしれません。

このような世界史の要約は、多くの人が世界史に入門するうえで役立つはずです。

そして、この一連の記事で述べる「加速と減速の世界史」に踏み込むうえでも基礎となります。つまり、「世界は急速な進歩・変化(加速)と、変化の緩やかな定常状態(減速)をくり返してきた」ということを、この一連の記事では述べているのですが、それを確認するうえでの前提となるでしょう。

ただし、「加速と減速」ということにとくに関心がなくても、「5000年余りの世界史のまとめ」として、まずはお読みいただければと思います。

なお、私そういちは、ここで述べる「世界史のまとめ・全体像」と同じ考え方に立つ世界史の概説書を商業出版しています(秋田総一郎『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫)。こちらは、本1冊分の分量で「中心の移り変わりでみる世界史」について述べています(この記事の図版は、すべて同書より)。




*前回(第2回)の記事。今回よりもさらにざっくりと世界史を俯瞰。

*前々回(第1回)の記事。「世界史における加速と減速」についての導入。


世界史における最先端=繁栄の中心の移り変わり


世界史には、各時代において大きな変革を主導した「先端的」といえる国・地域があります。それらの国・地域は、技術、経済、軍事、文化などの優位によって台頭し、世界のなかで「繁栄の中心」といえる位置を占めました。

たとえば、5000年前のメソポタミア、2000数百年前の古代ギリシア、2000年前のローマ帝国、1000年前のイスラムの帝国や中国の王朝、近代における欧米諸国は、まさにそうだったわけです。

このような、最先端あるいは繁栄の中心は、5000数百年の世界史のなかで移り変わっていきました。

メソポタミアで都市文明が成立して以降、世界の繁栄の中心は、ごく大まかにはつぎのような変遷をたどったと、私は考えています。

1. 西アジア(ただし域内で変遷あり)
2. ギリシア・ローマ
3. イスラム(および中国)
4. 西ヨーロッパ
5. アメリカ

*「西アジア」は、世界史の地域区分で、近現代史でいう「アラブ」「中東」に近い範囲

さらにもう少しくわしく繁栄した地域の変遷をみると、以下のとおりです。

① メソポタミア
② メソポタミア周辺の西アジア(エジプト・シリア・アナトリア・ペルシアなど)
③ ギリシア
→ローマ帝国(④イタリア半島周辺→⑤ギリシア周辺の東ローマ)
→イスラムの国ぐに(⑥バグダード周辺→⑦カイロ周辺)
*同時期に中国の王朝(唐・宋など)も繁栄
→西ヨーロッパ(⑧イタリア・スペイン→⑨オランダ→⑩イギリス)
⑪アメリカ

つぎの図は、以上①~⑪の「中心の移り変わり」を地図に落としたものです。それぞれの数字の場所は、中心的な都市(首都など)があった場所などを目安にしています。

世界史における繁栄の中心の移り変わり
『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫より

このような①~⑪の移り変わりについて、ごく短くまとめると、以下のようになります。

***
 
・紀元前3500年頃、①メソポタミアで最も初期の本格的な都市文明が生まれた。その後、この都市文明は周辺の②エジプト、シリア、アナトリア、ペルシアなどに広がり、これらのメソポタミア周辺の西アジアの地域に繁栄がシフトしていった。

・紀元前500年頃からは、西アジアの影響を受けて文明化した③ギリシアがおおいに繁栄するようになった。そして、ギリシア人の勢力は、紀元前300年代末には西アジアの広い範囲を支配下におく大帝国を築いた。

・その一方、ギリシアの西側のイタリア半島で④ローマがしだいに台頭し、周辺を征服して1世紀には空前の大帝国となった。

・しかし、400年代後半には、ローマ帝国の西半分(イタリア半島を中心とする西ローマ)は体制崩壊し、その後、繁栄の中心はギリシア周辺などの⑤東ローマへと移った。

・600年代には、東ローマ周辺の西アジアの一画からイスラムの勢力が台頭し、700年頃までには巨大なイスラムの帝国が成立した。その中心都市として⑥バグダードが大いに繁栄したが、のちに繁栄は⑦カイロにシフトしていった。

・また、イスラムの繁栄の時代は、唐・宋などの中国の王朝の絶頂期でもあった。中国は、イスラムが繁栄した時代の「もうひとつの中心」といえる。

・その後1300~1500年代にはイスラムや東ローマの文化を吸収し、ベネチアなどの⑧イタリアの都市国家やスペインが台頭した。

・1600年代にはスペイン領だった⑨オランダが独立して発展し、1700年代にはオランダの隣国である⑩イギリスが強大化した。イギリスでは1700年代後半に産業革命が起こり、その革新の動きは1800年代に入るとほかの西欧諸国やアメリカにも広がった。

・そして、1900年代初頭からはイギリスの植民地だった⑪アメリカが政治・経済ともに世界をリードするようになり、現在に至っている。

***

このように「中心」が移り変わるのにともなって、技術や文化の新たな展開、国家・民族間の勢力関係などにおいて、さまざまな変化も生じています。つまり、「中心」が移り変わるということは、「時代が大きく変わる」ことです。


中心の移動における「となり・となりの法則」

世界史における繁栄の中心の移り変わり(再掲)

そして、以上のような「繁栄の中心の移り変わり」には、単純な法則性があることがうかびあがってこないでしょうか? それは、つぎのようなことです。

新しい繁栄の中心は、それまでの中心の外側で、しかしそんなには遠くない周辺の場所から生まれる。それは、世界全体でみれば「となり」といえるような近い場所である。

たとえば、「文明のはじまり」の時期にメソポタミアの文明がおこって以来、2000~3000年ほどの間に文明の分布範囲は広がっていきました。そして、繁栄の中心といえる場所も、西アジアからその西側のギリシアに移動していったのです。

西アジアの一角のアナトリアはギリシアに隣接していますし、エジプトとギリシアは地中海をはさんで向きあっています。

つまり、西アジア→ギリシアというかたちで繁栄の中心が「となり」へ移動したということです。

近現代における、イギリス→アメリカというのは、一見「となり」にみえませんが、イギリスとアメリカの東海岸は、じつは大西洋をはさんで「となり」どうしなのです。鉄道や自動車以前には、長距離の移動は陸路よりも海路のほうが便利でした。

世界史をみわたすと、以上のような「となり」への繁栄の中心の移動がくりかえされています。

繁栄の中心がそれまでの場所からその周辺=となりへ移り、その後何百年か以上経つと、さらにその「となり」へ移っていく…そういうことが何度も起こってきたのです。「となり・となり」で「中心」が移っていくわけです。

これは、いわば「となり・となり」の法則です(科学的な意味での「法則」といえるかどうかは別として「法則のような一定のパータン」ということ)。

「となり・となりの法則」という視点で世界史をみわたすと、世界史はひとつのつながった物語になるでしょう。

***

では、前置きはこのくらいにして、「世界史のまとめ」の本編に入りましょう。

(1)西アジアにおける文明の始まり

メソポタミアから周辺へ

紀元前3500年頃、西アジアのメソポタミアで大規模な建造物や青銅器などを備えた、最も初期の重要な文明が生まれた。数万人規模の都市が栄えるようになり、文字の使用も紀元前3300年頃に始まった。

「文明のはじまり」におけるメソポタミアと主要な都市
*バビロン、ニネヴェは地図にあるほかの都市よりも後の時代に栄えた

メソポタミアで生まれたこの文明は、その周辺の西アジアの各地――エジプト、シリア、アナトリア(今のトルコ)、ペルシア(今のイラン)などにも広がった。

紀元前2000~1500年頃以降は、その頃の世界で鉄器を初めて実用化したヒッタイト(今のトルコにあった)など、古くからの中心であるメソポタミアにも大きな影響をあたえる強国が周辺の地域から生まれた。

メソポタミアとその周辺
濃い網掛け:紀元前3000~紀元前2000頃から文明が繁栄
薄い網掛け:紀元前2000~紀元前800頃から文明が繁栄

鉄器時代の始まり

紀元前1100~1000年頃からは、西アジアでは世界で初めて鉄器の本格的な普及が始まり、鉄器時代に突入した。鉄器は青銅器よりも高度な製造技術が必要だが、原材料の入手が比較的容易であり、鉄器時代になって初めて金属器が広く用いられるようになった。その影響でさまざまな技術革新もすすんだ。

また、鉄器時代の最初の数百間に、西アジアではユダヤ教(シリア・パレスティナ)やゾロアスター教(ペルシア)といった一神教が生まれた。一神教は、それまで一般的だった多神教(都市や地域ごとの神など)を超える普遍性や、より深い教義を持っており、その誕生は文化における大きな革新だった。

アケメネス朝ペルシア

鉄器時代が始まってから数百年を経て、紀元前500年頃には西アジアの主要部を統一する大帝国・アケメネス朝ペルシアも成立した。この国を築いたペルシア人の根拠地(今のイランにあたる)は、それまでの西アジアでは周辺的な地域だったが、そこから強大な勢力が生まれたのである。何十もの民族を束ねて支配する国家を、ここでは「大帝国」と呼ぶことにするが、アケメネス朝ペルシアはそのような大帝国の元祖である。

アケメネス朝ペルシア
最大領域(紀元前500頃)

(2)ギリシアとヘレニズム

ポリスの繁栄

一方、紀元前500年頃からはギリシアの文明がおおいに繁栄した。ギリシアはもともと周辺的な地域だったが、隣接する西アジア(今のトルコ、シリア、エジプトなど)の強い影響を受けて発展した。

台頭した時代のギリシア人は、統一国家をつくらず数多くの都市国家=ポリスを形成していた。そのなかで最大のポリス・アテネなどで、科学・哲学、民主主義、彫刻等の芸術、文学など、後世に大きな影響をあたえた文化が花ひらいた。

古代ギリシアとその周辺

ヘレニズムの時代

そして紀元前300年代には、ギリシア人の一派であるマケドニアが台頭してギリシア全体を統一した。さらにアレクサンドロス大王の時代(紀元前300年代末)には、アケメネス朝ペルシアを倒して西アジアの広い範囲を征服して大帝国を築いた(アレクサンドロスの帝国)。

この帝国はアレクサンドロス大王の死後分裂したが、その跡地にギリシア人が支配する王国が複数成立して、ギリシア文化と西アジアの文化が融合した「ヘレニズム」の文化が、地中海とその周辺の地域で栄えた。ヘレニズムの国ぐにのなかでは、エジプトを支配したプトレマイオス朝がとくに強大で、その首都アレクサンドリアは経済・文化の中心としておおいに繁栄した。

アレクサンドロスの帝国
(紀元前300年代)

(3)ローマ帝国

大帝国の形成

紀元前200年代からは、ギリシアの西となりのイタリア半島でおこったローマが台頭した。ローマは、当初は限られた範囲を支配する都市国家だったが、イタリア半島全体を統一した後、ギリシアを含む周辺の国ぐにをつぎつぎと征服していった。

そして紀元前1世紀(2000年前頃)には、地中海を囲む巨大なローマ帝国を築いた。ローマは、ヘレニズム文化が栄えた範囲(ヘレニズム世界)をすっかりのみ込んでしまったのである。なお、ローマの文化や技術は、ギリシアの文化に全面的に影響を受けたものである。

ローマ帝国は西暦100年代に最盛期をむかえ、繁栄の中心はギリシアからイタリア半島にシフトした。帝国の首都ローマ市は100万人規模の巨大都市となった。ローマ帝国の都市には、かつてない規模で水道をはじめとする公共設備が建設され、帝国全土には壮大な道路網が建設された。

ローマ帝国
(最大領域、西暦100年代初め)

キリスト教

ローマ帝国の重要な文化遺産のひとつに、キリスト教がある。これは紀元後まもなくイエス・キリストが、ローマ支配下のパレスチティナ地方で創始したものだ。イエスはユダヤ教徒で、ユダヤ教の宗教改革を行おうとするうちに、新たな教義を切りひらいたのだった。

キリスト教は当初は弾圧されたが、しだいに信者を増やしていった。そして、西暦300年代にはローマ帝国公認のものとなり、300年代末には国教(国をあげて信仰する特権的な信仰)となった。ローマは、キリスト教の帝国となった。

西ローマ帝国の崩壊

その後、繁栄をきわめたローマも100年単位の時間のなかで衰退していった。400年代後半には、帝国の西半分(西ローマ帝国)がゲルマン人の侵入や内乱によって体制崩壊してしまった。繁栄の中心は崩壊を免れたローマ帝国の東半分(東ローマ帝国、ビザンツ帝国ともいう)であるギリシア周辺に再び移った。

東西のローマ帝国

なお、西ローマ帝国が崩壊した西暦400年代~500年頃を、世界史上の大きな時代区分では「古代」の終わり(そして「中世」の始まり)とすることが一般的である。

東ローマ(ビザンツ)帝国にはかつてのローマ帝国の勢いや活気はなかったが、長いあいだ重要な国家であり続け、1400年代にイスラムの大国オスマン朝に滅ぼされるまで続いた(ただし末期の頃は衰退して小国となっていた)。

西暦1000年代末のヨーロッパ
そのなかの東ローマ(ビザンツ)帝国

(4)中国文明の成立

文明の成立から春秋戦国時代まで

ローマ帝国と同時期に、中国では漢王朝が繁栄した。中国では、紀元前2000年頃から大河の流域で本格的な文明(黄河文明、長江文明)が栄えるようになり、いくつもの国家が生まれた。

紀元前700年代からは国ぐにのあいだの勢力争いが激しくなり(春秋戦国時代)、その争いのなかで経済や文化が急速に発達した。儒学の祖・孔子などの「諸子百家」といわれる、さまざまな思想の源流となった学者が活躍した。

秦による統一と漢王朝

そして、紀元前200年代には秦の始皇帝によって、当時の中国全体が初めて統一された。秦の支配は短期間で終わったが、まもなく漢王朝がその統一を引き継いだ。漢王朝は、一時期途絶えたものの、紀元前200年頃から西暦200年代までの長期にわたって続いた。漢王朝の滅亡後、中国は数百年にわたる分裂の時代に入った(魏晋南北朝時代)。

漢(前漢)

(5)イスラムと中国の繁栄

ムハンマドの登場とイスラム帝国の成立

600年代前半には、西アジアの一画であるアラビア半島で、アラブ人のムハンマドがイスラム教を創始し、信徒による国家を建設した。その「イスラム教徒の国」は急速に勢力を拡大して、ムハンマドの死後数十年経った700年頃までには巨大なイスラム帝国を築いた。西アジアの全域、北アフリカ、イベリア半島(今のスペイン)がイスラムの勢力圏となった。イスラム帝国では隣接する東ローマの影響を受け、ギリシア・ローマの遺産に基づく学問が盛んになった。

イスラム勢力の拡大

その後数百年は、イスラムの国ぐにが世界の繁栄の中心となる。ただし、イスラム帝国は800年代には分裂し、いくつものイスラムの国ぐにが並び立つようになった。

また900~1000年代には中央アジア(イランやインドに隣接する内陸の地域)にも新たにイスラムの王朝が成立していった。そして1400年頃以降は東南アジアにもイスラム教が広がり、現代のような巨大なイスラム世界が形成された。

また、イスラムの中心的な地域では,700年代後半からバグダード(今のイラクにある)が最大の都市として繁栄したが、1100年頃からはエジプトの都市カイロに繁栄がシフトしていった。

800年頃のイスラムの帝国
アッバース朝のほか、北アフリカ、イベリア半島(スペイン)
のいくつかの王朝を含む

唐・宋の繁栄

ほぼ同じ時期、唐(とう)・宋(そう)などの中国の王朝も、おおいに繁栄した。唐の最盛期は700年頃、宋は1000年頃である。イスラムの繁栄の時代(西暦700年頃~1500年頃)は、中国の王朝の絶頂期でもあった。その頃の中国はイスラムと並ぶ「もうひとつの世界の中心」だったといえるだろう。

近代をきりひらいた「三大発明」といわれる、火薬、羅針盤、印刷術は、唐から宋にかけての中国で発明された。当時の中国がそれだけ高い技術を持っていたということだ。世界で最初の紙幣も、宋の時代の中国で発行されている。

騎馬遊牧民の活動

一方、絶頂期の中国は、強大化した騎馬遊牧民に圧迫を受けた。宋王朝は北部の地域(華北)を騎馬遊牧民の女真族に征服され、南部の地域(華南)に逃れた。そのような騎馬遊牧民の活動のピークは、1200年代のモンゴル人による大帝国だった。

モンゴル人は、東は中国、西はイスラム帝国の中心部に至るユーラシア(アジア+ヨーロッパ)の広い範囲を征服してしまった。中国の元王朝(1300年頃)はモンゴル人の政権であり、イスラム帝国の伝統の中心だったアッバース朝という王朝は、モンゴル軍によって滅ぼされたのである。しかし、1300~1400年代にはモンゴル人の勢いは衰え、その帝国は崩壊してしまった。

また、モンゴル人以外でとくに有力な騎馬遊牧民としては、トルコ人がいた。トルコ人もユーラシアの広い範囲で活動したが、その一派はアナトリア(今のトルコ)でイスラムの国家を建設した。のちにそのなかからオスマン朝の勢力が台頭して、1500~1600年代にはイスラム世界の広い範囲(今のアラブ・中東)を支配する大帝国に発展していった。

モンゴル帝国の最大領域

(6)ヨーロッパの台頭

東西ヨーロッパの誕生

ローマ帝国の西半分(西ローマ帝国)が滅びたあと、その跡地にはいくつかのゲルマン人の王国が成立した。しかし、ローマ帝国の時代にくらべ、経済や文化はふるわず、社会は不安定だった。

そのなかで800年頃にはフランク王国が強大化し、今の西ヨーロッパの大半を支配するようになった。フランク王国は800年代半ばには分裂し、その結果現在のドイツ、イギリス、イタリアのもとになる王国・領域が生まれた。

またほぼ同じ頃にイギリスでも(フランク王国の支配下ではなかった)、現在のイギリスのもとになる王国が生まれた。これらの国ぐにのもとで、経済や文化も活気を取り戻し、1000年頃からはその動きが加速していった。

西ヨーロッパでは、ローマを本拠地とする「カトリック」のキリスト教が、圧倒的に有力となった。そこには、フランク王国がカトリックを採用したことが影響している。一方、東ローマ帝国とその周辺では、カトリックとは異なる「東方正教」といわれるキリスト教が有力となった。1000年頃からはカトリックの西ヨーロッパと東方正教の東ヨーロッパという区分が明確になっていった。

1000年代末のヨーロッパ(再掲)

イタリアとスペイン・ポルトガル

1400~1500年代には、イスラムの文化を吸収してイタリアの都市国家とスペイン・ポルトガルが台頭した。これらの国ぐには、西ヨーロッパのなかではイスラムの国ぐにと距離が近く、深い関係にあった。スペインとポルトガルはもともとはイスラムの支配下にあったが、1400年代にはキリスト教徒の勢力がイスラムの支配者を追い出すことに成功した。

1300~1400年代にはイタリアを中心にギリシア・ローマ文化(イスラムの国ぐにで研究されていた)の復興をかかげるルネサンスが花ひらいた。一方、1400~1500年代になると「大航海時代」が始まり、スペインとポルトガルがアメリカ大陸などの海外に進出して多くの植民地を築いた。大洋を超えて地球規模の範囲で勢力を拡大する国家が、初めて登場したのである。

アメリカ大陸におけるスペインとポルトガルの植民地
(1500年代)

オランダの繁栄

1600年代には、スペインに支配されていたオランダが独立して台頭し、商工業でおおいに栄えた。首都アムステルダムを中心に株式会社や銀行などの近代的な金融のしくみも急速に発達した。ヨーロッパの繁栄の中心は、イタリア・スペインのある地中海沿岸から、ベルギー・オランダなどの西ヨーロッパ北部へとシフトしていった。

オランダとその周辺(1600年代)
薄い網掛けはスペイン領

(7)イギリスからアメリカへ

イギリスの台頭

一方、1600年頃以降、オランダと海峡をはさんでとなりにあるイギリスの台頭が始まった。イギリスは1500年代~1600年頃までは西ヨーロッパのなかでは周辺的な国だったが、当時のオランダ・ベルギーから多くを学んで発展した。

1600年代のイギリスではピューリタン革命、名誉革命といった市民革命の結果、国王の権力は制限され、1700年頃には議会が大きな権力を持つ体制が生まれた。そして、その体制のもとで人びとの自由が大きく拡大して社会の活力が高まった。

産業革命と欧米の世界制覇

1700年代後半にはイギリスで産業革命がおこり、蒸気機関の利用などによって生産や輸送のあり方が一変した。1800年代半ばまでにその動きは他の西ヨーロッパ諸国やアメリカにも波及した。その後の技術や産業の発展で、西ヨーロッパは世界の中で圧倒的な存在になった。

1900年ころには、アジア・アフリカの広い範囲が西ヨーロッパ諸国(欧米)に支配されてしまった。とくに1800年代のイギリスは、世界中に植民地を持つ「大英帝国」として繁栄した。

1800年代後半には、世界の広い範囲が汽船や鉄道による交通網や、電信網(海底ケーブルで大洋を超えた通信も可能になった)で結ばれるようになった。現在のグローバル化の原型といえるものが成立したのである。

1914年におけるヨーロッパ諸国の植民地
濃い網掛け:イギリスの植民地
薄い網掛け:そのほかのヨーロッパ諸国の植民地

アメリカの時代

1900年ころからは、イギリスにかわってアメリカ合衆国が台頭した。アメリカは、もともとはイギリスの植民地だったが、1700年代末にイギリスとの戦争に勝利して独立した。独立後のアメリカは、イギリス以上に自由や民主主義が発達し、当時としては最も活気に満ちた社会となっていった。

アメリカはイギリスの「となり」

そして1800年代末からは、電気の利用などの産業革命をさらに前進させる革新がつぎつぎと行なわれた。1900年ころ、アメリカの工業力は世界の中で最大となり、のちに軍事力や科学・文化でも同様となった。

第一次世界大戦(1914~1918)以降、アメリカは明らかに世界の「繁栄の中心」となった。そして、第二次世界大戦(1939~1945)後の世界では、アメリカのパワーはイギリスなどの西ヨーロッパを圧倒するようになった。ただし、第二次世界大戦後には、社会主義国家ソ連が強大化し、アメリカに対抗するという局面もあった。しかし、1990年代初頭にソ連の社会主義体制は崩壊してしまった。

2000年代(21世紀)になると、新たに中国などの新興国が台頭し、「衰退した」ともいわれるが、現在もアメリカは「世界の繁栄の中心」であり続けている。

***

各時代の「中心」「最先端」「中心」に注目する


以上の「世界史のまとめ」は、最初に述べたとおり、各時代の「中心」「最先端」に注目するという方法で書かれています。

このことは、この一連の記事「加速と減速の世界史」でも、同じく基本となっています。

前回と前々回(第2回、第1回)で、世界史上には以下の3つの大きな加速局面、つまり革新・変化がとくに進んだ時期があると述べてきました。これらの時期に人類は、技術・経済・文化などにおいて、とくに大きな変化・進歩を経験した、ということです。つまり、大きな「革新の波」がおこったのです。

また、こうした「革新の波」が後退し、変化が比較的緩やかになる局面、つまり加速のあとの減速局面もあったわけです。「波」は、いつかは引いていくものです。

(世界史上の3つの大きな加速局面=革新の波)

① 文明のはじまり(紀元前4000年頃~紀元前2500年頃)
② 鉄器時代の革新(紀元前1000年頃~西暦100年頃)
③ 近代の革新(1500年頃~、1800年頃からさらに加速)

そして、上記の①~③の時期は、世界で最初にその動きが明確化した「最先端」の地域を基準にしています。

たとえば、5000数百年前のメソポタミアで、当時において最先端といえる都市文明が成立した時期に、ほかの地域の状況にかかわらず、世界は「文明のはじまり」の革新の時期を迎えた、と考えるのです。

当時の「最先端」といえるメソポタミアで、本格的な都市文明が成立したのは、紀元前3500年頃のことです。

一方、インドや中国では、これに匹敵する都市文明の成立は、メソポタミアよりも数百年以上後のことになります。インド(北西部のインダス川流域)では紀元前2600年頃、中国(黄河流域、長江流域)では紀元前2000年頃です。

また、エジプトでの本格的な文明のはじまりといえる統一王朝の成立は紀元前3100年頃のことで、メソポタミアの都市文明よりも300~400年後のことになります。

そして、世界のかなりの地域では、本格的な文明の時代に入るのは、ここであげたいわゆる「四大文明」よりもさらに後になるわけです。日本も、そうでした。

また、エジプトの文明とインドのインダス川流域の文明は、その成立にあたりメソポタミアの文明の影響を受けたことがわかっています。つまり、最先端の「後追い」として発展したということです。一方、中国の初期の文明(黄河文明、長江文明)ついては、西アジアなどの中国の外部からの影響は、おそらくはあったはずですが、はっきりしません。

このように都市文明の成立において、最先端の地域と、その他の地域のあいだにはタイムラグがあり、しばしば影響関係もあります。

しかし、ここでは「文明の時代」のはじまりを、「中心」「最先端」の状況を基準に考えていくということです。

このことは、「鉄器時代の革新」についても同様です。鉄器の普及などの革新が最初に起こった西アジアの一部地域を基準に考えています。そして、「近代の革新」についても、最初に近代的な技術や社会が成立した西ヨーロッパの動きを、開始期の基準にしています。

以上の「文明はじまり」「鉄器時代の革新」「近代の革新」は、世界のなかの特定の場所で起こった変化が、周囲の広い範囲に影響をあたえ、さらには世界史を方向づけたケースといえます。

だからこそ、世界史における「大きな革新の波」であると位置づけています。

「文明のはじまり」において成立した都市文明は、当初はメソポタミアを中心として展開しましたが、のちにその周辺の西アジア各地や地中海地域、さらにはインドまで広がっていきました。

「鉄器時代の革新」でも、紀元前1000年頃から西アジアの一部ではじまった鉄器の普及やそれに関連する技術革新は、西アジアの広い範囲や地中海地域のほか、ヨーロッパの内陸部やユーラシア(ヨーロッパ+アジア)の各地にも伝わり、大きな影響をあたえたのです。

そして、1700年代後半にはじまったイギリスにおける産業革命は、そのような、特定の場所から始まった、世界史的な革新・変化の最大の事例といえるでしょう。

蒸気機関などの技術を用いた生産や輸送の革新は、イギリスという世界のなかの特定の場所で始まりましたが、それは1800年代前半のうちには西ヨーロッパの各国やアメリカ(米国)にも広がり、さらに世界に影響をあたえました。


「中心」重視は評判が良くないが……


なお、このように世界史をみわたすうえで「“中心”にとくに焦点を合わせる」ことは、世界史の書き方として、今の知識人のあいだでは評判が良くありません。

近年は、世界各地の歴史をできるだけ平等に取り上げるほうが「知的で正しい姿勢」だとされる傾向が強いです。

これは、「さまざまな文化の価値を認めよう」という「多文化主義」の考え方に基づいています。そして、多文化主義は「世界(あるいは世界史)のなかでヨーロッパ(欧米)は別格である」という「ヨーロッパ中心主義」と鋭く対立しています。

たしかに、「ヨーロッパ中心主義」の歴史観は、事実に反しています。これまでみてきたように「世界史をけん引してきたのは、もっぱらヨーロッパ(欧米)だった」などということはありません。

文明の始まりの時代をけん引したのは、メソポタミアなどの西アジアです。鉄器時代の革新も、西アジアが発祥です。また、イスラムや中国の王朝が世界の繁栄の中心であった時代は、1000年ほどの長期(大まかに500年頃~1500年頃)にわたったのです。

しかし、ヨーロッパ中心主義に反発するあまり、「世界史の各時代には“中心”といえる国・地域があった」という見方まで否定するとしたら、それは「多文化主義」の行き過ぎであると、私は思います。

そして、そんな「行き過ぎ」によって、世界各地の歴史について平等に「あれもこれも」と教えようとすればするほど、世界史の大きな流れはみえにくくなってしまうでしょう。

現代の世界史の教科書や授業の多くは、相当な「あれもこれも」です。そのためか「覚えることが多すぎて、世界史がいやになった」という話は、よく見聞きします。大量の事件・人名・年号などを記憶しても、世界史の大きな流れや全体像がみえてこないとすれば、たしかに辛いです。

これに対し、「先端」「中心」を重視して、いわば「枝葉」を削ぎ落とせば、世界史の大きな流れという「幹」はみえやすくなるはずです。

もちろん、削ぎ落すことでみえなくなってしまう大事なこともいろいろあるでしょう。しかし、少なくとも、ここでのテーマである「数千年間における加速と減速」という、世界史の大きな流れを論ずるうえでは、「先端」「中心」の重視は、きわめて重要です。

そもそも、私たちの多くは、ここでテーマとする社会の加速・減速のような世界の大きな動きを論じる際、ほとんど無意識の前提として、「中心」「先端」の現象を前提に語っているのではないでしょうか? 

つまり、現代であれば、アメリカをはじめとする先進国、ここでいう「繁栄の中心」でのさまざまな動きを前提にして「世界の動き」を語っているわけです。たとえば、最近のAIのことなどは、まさにそうです。

だから、「中心・最先端に注目する」というのは、あたり前のことを述べているにすぎないのかもしれません。

それでも、近年は世界史の論じ方として「中心に焦点を合わせ、枝葉をそぎ落とす」という方向性は、多くの知識人や教育者のあいだでは評判が良くないので、ここでその意義を再確認したということです。

多文化主義の考え方の基礎にある「それぞれの文化には、固有の価値体系があり、それは尊重されるべきだ」ということ自体はいいのです

しかし、「それぞれの文化の価値体系は、すべて等価である(だから世界史の記述もその方針で書かれるべきだ)」というなら、私は行き過ぎだと思います。

世界史をみわたすと、そこには優位を占め、世界の広い範囲に影響を及ぼした文化(それを生んだ国家・民族などの集団)とそうはならなかった文化が確かに存在します。それをみると「すべては等価」などと考えることは、私にはできません。かといって「勝利したもの、優位を占めたものがすべて」などということもないでしょう。

ただ、この問題は根本的で簡単ではないので、今後追々(おいおい)考えていきたいと思います。

(第4回に続く)

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