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入門・ヨーロッパの第二次世界大戦(4)枢軸国と連合国


第4回(全7回)
2つの陣営(枢軸国と連合国)について


1.イタリアの動き


イタリアの動き①エチオピア侵攻など


これまで、ナチス・ドイツを中心とする第二次世界大戦の動きについて述べてきましたが、この回では、ヨーロッパにおけるドイツの最大の同盟国といえるイタリアの動きについて述べ、さらに、第二次世界大戦における2つの陣営である「枢軸国」と「連合国」に関する基礎知識を述べます。それは、この大戦の全体的な構図を知ることにもつながります(この第4回は、ほかの回にくらべてやや短いです)。



まず、第二次世界大戦におけるイタリアの動きを、これまで第1回〜3回で述べたことも再確認して、整理しましょう(太平洋戦争研究会『図説 第二次世界大戦』河出書房新社、1998年、山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』朝日新書などによる)。

1920年代後半~第二次世界大戦期のイタリアでは、ムッソリーニが独裁的な権力を握っていました。独裁者ムッソリーニは、ヒトラーに加担してイタリアを第二次世界大戦にひき込んだのです。

なお、イタリアの隣国スペインもフランコによる独裁政権であり、ナチス・ドイツに同調していました。しかし、スペインは大戦には参戦せず、最後まで中立を保ちました。ただし独ソ戦で、スペインは「義勇兵」という建前上は国家の軍隊とは別のかたちで一個師団(「師団1個」ということ、数千〜1万数千人規模の兵力)を送り込みました。

ムッソリーニのイタリアは、もともとはイギリス・フランスに対してある程度協調的なスタンスをとっていました。しかし、その一方で領土拡大の野心も抱くようになっていきました。

イタリアは、1935年10月にエチオピアへの侵攻を開始し、1936年5月には同国を占領しました。これは、ドイツによるオーストリア併合やチェコスロバキア解体(いずれも1938年)よりも前です。対外侵略ということでは、イタリアはナチス・ドイツに先駆けているのです。

エチオピアは、当時のアフリカでは数少ない独立国で、イタリアが1800年代後半から支配するイタリア領ソマリランド(現ソマリア南部)に隣接していました。そして、両者のあいだには国境をめぐる紛争も発生していました。イタリアはその紛争を口実に、ソマリランドからエチオピアへの侵攻を行ったのです。

この侵攻は、イギリス・フランス・アメリカを中心とする国際社会から非難され、イタリアに対する経済制裁も行われました。イタリアはそれに反発して、1937年12月に国際連盟を脱退しました。

なお、ドイツや日本は(直接の理由や詳しい時期は異なりますが)すでに1933年に国際連盟を脱退しています。ドイツの場合は、ヒトラーが強い権力を得て強硬な外交政策を打ち出すようになったことで、日本の場合は、満洲事変での軍事行動を国際連盟の総会などにおいて非難されたことに抗議して連盟を脱退したのでした。

その後、イタリアは、国内の左派勢力とフランコ率いる右派が争ったスペイン内戦(1937~1939)で、ドイツとともにフランコ側を支援するなど、ドイツに接近していきました。そして、1939年4月には、イタリア半島の東側の海を渡ってバルカン半島東部のアルバニアにも侵攻し、支配下においています。

第二次世界大戦時の欧州(『一気に流れがわかる世界史』より)
濃い網:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)


イタリアの動き②第二次世界大戦勃発以降


イタリアは、「第二次世界大戦の始まり」とされる1939年9月のドイツによるポーランド侵攻の時点では、中立の立場をとりました。しかし、すでにドイツに対するフランスの敗北が明白になっていた1940年6月10日に、イギリス・フランスに宣戦布告しています。そして、ドイツの勝利に乗じてフランス南部の一部を占領しました。

さらに、イタリアは、1940年10月にはアルバニアの隣国ギリシャへ侵攻します。しかし、ギリシャの徹底抗戦を受け、翌年(1941年)3月までには敗退が確定的となりました。

それでも、イタリアは、1941年5月に始まったドイツによるユーゴスラヴィアとギリシャへの侵攻に参加して、ユーゴスラヴィアとギリシャの一部を得ました。

ムッソリーニの野望は、バルカン半島の一部、東地中海の島々、そして北アフリカから西アフリカにかけての地中海を囲む地域を配下におく、かつてのローマ帝国を彷彿とさせる「帝国」を築くことでした。こうした領土拡大の野望は、イタリアにとっては大風呂敷なものでしたが、ドイツとくらべれば限定的でした。

そして、このイタリアの動きは、エジプトを重要な植民地として支配するイギリスと真っ向から対立するものでした。

また、アルジェリアなどの北アフリカの植民地を持つフランスとも対立するものでしたが、当時のフランスはドイツに敗れてアフリカへの影響力を大きく失っていました。

そこで、1940年後半の時点で、イタリアにとってはイギリスこそが自分たちの野望を阻む敵だったといえます。「打倒イギリス」という点で、イタリアとドイツの利害は一致していました。

イタリアは、ギリシャ侵攻の少し前、1940年9月に、イタリアの植民地だったアフリカ北部のリビアから、東に隣接するエジプトに侵攻しています。

リビアは、1912年以降イタリアの植民地でした。イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告した1940年6月の時点で、リビアに兵力(兵士の数)25万のイタリア軍が駐留していました。これは、エジプトに駐留するイギリス軍を上回る数です。

しかし、装備などで大幅に劣っていたイタリア軍は、大英帝国のほかの地域からの増援を受けた(それでもイタリア軍より少数の)エジプトのイギリス軍に歯が立ちませんでした。そして、イギリス軍の反撃に押されて、1941年初頭にはリビアの西端のほうにまで後退してしまったのです。

以上の経緯が示すとおり、イタリアの軍事力はその野望を実現するには程遠いレベルでした。

1941年4月(独ソ戦開始の2か月余り前)以降、イタリアは、ドイツの戦車部隊などによる支援を受けながら北アフリカでイギリス軍との戦闘を続けることになります。 

それどころか、この北アフリカでの戦いは、おおむね「ドイツ軍VSイギリス軍」ということになっていきました。そして、1942年後半以降は、後で述べるとおり、この北アフリカでの戦いにアメリカ軍がイギリス側で参戦することになります。


2.第二次世界大戦を戦った2つの陣営


枢軸国と連合国


第二次世界大戦は、つぎの2つの陣営の戦いでした。

【枢軸国】ドイツ・日本・イタリアなど
【連合国】アメリカ・イギリス・ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)・中国(当時は中華民国)など

「枢軸国」の中核は、1940年に三国同盟を結んだ3つの大国です。「枢軸(すうじく)」とは、「活動の中心となる重要な場所」ということです。「枢軸国」というのは、1930年代後半にドイツとイタリアが接近して友好関係を築いた際に使われた「ベルリン・ローマ枢軸」という表現が元になっています。この「枢軸」に、のちに日本が加わったのです。

上記3国以外の枢軸国としては、ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアといったドイツの強い影響下にあった東欧諸国、ソ連と敵対関係にあったフィンランド、そしてアジアではタイがあります。

タイは、当時の東南アジアでは唯一の独立国(王国)で、日米開戦(1941年12月)の直後に日本と同盟関係(日本・タイ同盟条約など)を結んでいます。当時のタイは日本の圧力を受けていましたが、同時に「日本の力を利用して、周辺国におけるかつての自国の領土を回復する」という野心も持っていました(桐山昇・栗山浩英・根本敬『東南アジアの歴史』有斐閣、2003年)。この構図は、前に(第1回で述べた)述べたナチス・ドイツと東欧の枢軸国の関係にもみられます。


なお、バルバロッサ作戦でソ連侵攻に加わったスロバキアは「事実上は国としての独立性を持たない、ドイツがつくった“傀儡(かいらい)国家”である」として、枢軸国にカウントしないことが多いです。日本の傀儡国家であった満州国が枢軸国にカウントされないのと同様です。

一方、「連合国」とは、一般には1942年1月にワシントンでアメリカ・イギリス主導のもと調印された「連合国共同宣言」に参加した国ぐにをさします。

この「宣言」は、1941年12月に日米の戦争が始まってまもなく出たもので、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの計26か国が署名しています。この宣言への署名は、「枢軸国への宣戦」を意味しました。そして、その後この宣言に参加する国ぐには増えていきました。


4つの大国以外の連合国①ラテンアメリカ、英連邦など


連合国共同宣言に最初に参加した26か国には、上記の4つの大国(アメリカ、イギリス、ソ連、中国)のほか、以下の国ぐにが含まれていました(以下、髙橋均『ラテンアメリカ歴史』山川出版社、1998年、山崎雅弘『太平洋戦争秘史』朝日選書、2022年などによる)。

まず、オーストラリア・カナダ・ニュージーランド・南アフリカといった、大英帝国の領域だった「英連邦」の国ぐに。

そして、コスタリカ・キューバ・ドミニカ共和国・エルサルバドル・グアテマラ・ハイチ・ホンデュラス・ニカラグア・パナマといった、中米(アメリカ合衆国の近隣)のラテンアメリカ諸国。

ラテンアメリカ諸国は、上記以外の国ぐにも、日米開戦(1941年12月)以後には枢軸国と断交し、枢軸国に宣戦していきました。ただし、アルゼンチンだけは「枢軸国寄りの中立」で、大戦末期まで連合国に加わっていません。当時のアルゼンチンは、右派で独裁的なペロン政権が統治していました。

連合国陣営におけるラテンアメリカ諸国のおもな役割は、物資や船舶をアメリカ・イギリスなどに供給する一方、枢軸国にはそれらを供給しないことでした。大戦を通じ、ラテンアメリカ諸国が比較的小規模な部隊を派遣することはありましたが、戦闘への大規模な参加はありませんでした。

これに対し、オーストラリアやカナダなどの英連邦の国ぐには、ドイツとの戦争が始まった1939年から、その国力に応じて本格的に参戦しています。

大戦を通じ、オーストラリアとカナダは、ドイツ・イタリアとの戦いと、日本との戦いの両方に軍を派遣しました。オーストラリアについては、太平洋戦争(おもに日米の戦争)が始まって以降は、日本との戦いがメインになっていきます。

また、まだ独立前のインド(現在のパキスタン・バングラデシュ含む)も、以上の26カ国の一員として宣言に参加しています。

当時のインドは、イギリスの支配のもとで一定の自治権が認められていましが、大戦の当初からイギリスの戦争に否応なく協力することになり、大戦を通じ250万人が動員されました。

インド人兵士の部隊は、北アフリカ・地中海と東南アジアや香港で戦いましたが、それらの部隊をイギリス人将校とならんで多くのインド人将校も指揮しています。大戦を通じ、インドの自立がそれだけ進んだということです。


4つの大国以外の連合国②亡命政府


そして、枢軸国に侵略・占領されたチェコスロバキア・ポーランド・ベルギー・オランダ・ルクセンブルク・ノルウェー・ギリシャ・ユーゴスラビアの亡命政府も、最初に連合国共同宣言に参加した26か国に含まれます。

枢軸国に制圧されたこれらの国については、亡命した政治家・軍人などが、おもにロンドンを拠点として亡命政府を組織し、連合国の陣営に参加していました。そして、亡命者や国外にいた戦力で組織した部隊が連合軍に加勢する一方、「レジスタンス」(フランス語で「抵抗」の意)と呼ばれる「自国内で侵略者と戦う市民・非正規軍の活動」と連携したのです。

なお、侵略者などへの抵抗活動を行う非正規軍については「パルチザン」(フランス語で「党派」の意)という呼称もあります。

また、フランスの亡命政府としては、自国がドイツに制圧されて以降、シャルル・ド・ゴール将軍(1890~70、のちフランス大統領、在任1959~69)が主導する「自由フランス」という組織が活動していましたが、最初に連合軍共同宣言に署名した26か国には含まれていません。

これは、連合国側が自由フランスをフランスの代表として公式には認めていなかったためです。ド・ゴールとアメリカ・イギリスとの間では、互いを味方と認識しつつも、一定の確執がありました。しかし、大戦の後期(1944年以降)には、連合国はド・ゴール派の勢力を、フランスを代表する臨時政府として認めるようになります(フランスの亡命政府については、加藤俊作『国際連合成立史』有信堂、2000年による)。


「連合国」と「国連」は、どちらもUnited Nations


なお「連合国」は、United Nationsの訳です。国際連合(国連)も、英語ではUnited Nationsです。ここで述べた「連合国」の集まりは、戦後の国際連合の基礎となったものです。両者は「連続性のある、同じもの」だともいえますが、日本では「連合国」と「国際連合」とに訳し分けています。たしかに、「戦時の同盟」と「戦後の継続的な国際機関」では、連続性があったとしても組織としての質は異なるので、それぞれを別の訳語であらわすことにも意味はあります(国際連合については、加藤前掲書、明石康『国際連合』岩波新書、2006年による)。

1945年4月下旬(ドイツ降伏の直前)にはサンフランシスコで国連憲章制定会議が開催され、50か国の代表が集まっています。この50か国のほとんどは「45年3月1日までに連合国共同宣言に署名した国」です。

「3月1日」の直前に、駆け込みで宣言(枢軸国への宣戦)に加わった国もありました。チリなどラテンアメリカの6カ国、エジプト・トルコなど中東イスラムの5カ国はそうです。

この会議は、6月まで2か月ほど続き、参加国が国連憲章に署名して終結しました。その後ドイツの支配から解放されたポーランドが遅れて署名し、国際連合は51の加盟国でスタートしました。


3.第二次世界大戦の(連合国側の)主な指導者


この大戦を指導した当時のイギリスの首相はウィンストン・チャーチル(1874~1965、在任1940~45、51~55)で、アメリカ大統領はフランクリン・ルーズヴェルト(1882~1945、在任1933~45)です。ソ連の指導者は、スターリン(1878~1953)でした。

イギリスのチャーチル首相


チャーチルは保守党の貴族出身・元陸軍将校の政治家で、前任のチェンバレン首相がナチス・ドイツに対し妥協的な「宥和政策」をとっていた際、それに強く反対しました。その主張は当初は非主流でしたが、宥和政策の破綻によってチャーチルの出番がまわってきます(以下、河合秀和『チャーチル 増補版』中公新書、1998年などによる)。

第二次世界大戦が始まると海軍大臣として入閣し、1940年5月(ドイツによるフランス侵攻開始の頃)には首相に就任。このとき彼は65歳で当時としてはかなり高齢でしたが、その後ドイツ降伏までの5年間、精力的に戦争を指導しました。

チャーチルは、ドイツに対する徹底抗戦を主張し続けました。しかし、イギリスだけでドイツに勝利するのは難しいことも理解していました。そこで、アメリカとソ連がドイツとの戦争に加わることを大戦の当初から切望し、またそれは必然であると考えていたのです。そしてとくに、アメリカの参戦を重視・期待していました。

たとえば、彼は1940年6月(ドイツのフランス侵攻時の、ダンケルクからの撤退直後)に行なった議会での有名な演説で「ヨーロッパの大部分がナチスの手に落ちても我々は最後まで戦い続ける」としたうえで、それは「新大陸〔アメリカ〕がその力で旧大陸の救出と解放に乗り出すときまでだ」とも述べています。

「アメリカ・ソ連の参戦」は、ソ連については独ソ戦というかたちで現実化しました。そして、アメリカに関しては、チャーチルは「孤立主義」が根強いアメリカの世論・政治を「参戦」に向けて動かそうと、スパイによる裏工作を含むさまざまな働きかけを行っています(この裏工作については、菅原出『アメリカはなぜヒトラーを必要としたのか』草思社文庫、2013年)。

アメリカのフランクリン・ルーズヴェルト大統領


フランクリン・ルーズヴェルトは、富裕な名門出身の民主党の大統領です。大恐慌に対し無策だった共和党の前大統領フーヴァーにかわって、1933年に大統領に就任。そして、積極的な公共投資による失業対策、一定の経済統制による産業の復興などをすすめました(以下、佐藤千登勢『フランクリン・ローズヴェルト』中公新書、2021年などによる)。

この経済政策――「ニューディール政策」は、それまでのアメリカの自由放任主義の経済(政府による経済への介入に否定的)からの大転換でした。そこで、多くの抵抗・あつれきもあり、政策の徹底や効果にも限界がありました。

それでもルーズヴェルトは、直面する大問題(大恐慌)に対して強いリーダーシップを発揮して立ち向かい、ある程度の成果をあげたのです。これは多くの国民からの信頼につながりました。

ルーズヴェルトは、ヒトラーやナチスに対しては強い敵意を持ち、イギリスやソ連を積極的に支援しようとしました。しかし、海外の問題から距離を置こうとする「孤立主義」の国内世論に配慮して、ドイツとの戦いに参戦することには慎重にならざるを得ませんでした。

たとえば、ルーズヴェルトは、1937年10月のシカゴでの有名な演説で、当時の大戦前夜の枢軸国による侵略について「世界に戦争という伝染病が広まっている」とつよく非難したうえで、「この伝染病からアメリカが身を守るうえで、戦争の局外に立つというやり方は、安全が崩壊した今の世界では不十分だ(つまり参戦すべき)」ということを述べています。しかし、この演説は、当時の国内世論においては多くの批判にさらされました。

ルーズヴェルトは、戦時という特別な事態のなか、多くの支持を得て「大統領は2選まで」というアメリカ政治の慣習を破って3選し、さらに4選となっています。そして4選後の任期中、大戦末期の1945年4月に脳溢血で死去しました。

ソ連の最高指導者(独裁者)スターリン


ソヴィエト連邦は、1917年のロシア革命を出発として1922年に成立した、世界初の本格的な社会主義国家です(以下、横手慎二『スターリン』中公新書、2014年、黒井裕次『物語 ウクライナの歴史』中公新書、2002年などによる)。

スターリンは、グルジア(旧ソ連の一部、現ジョージア)の庶民の出身で、ロシア革命を推進した政治組織ボルシェヴィキ(のちのソ連共産党)の幹部の1人でした。そして、ソ連建国の指導者レーニンが1924年に死去したあと、権力闘争に勝利して1920年代末までにソ連共産党内で強い権力を握りました。

ソ連という国は、今の中国のように共産党が政府のうえに立って社会のすべてを支配する体制だったので、スターリンは国家の独裁者として君臨することになりました。なお、「スターリン(“鋼鉄の人”)」は、もともとは革命家としての偽名・ペンネームです(「レーニン」もペンネーム)。

1930年代後半には、スターリンは多くの人びとを「人民の敵」として不当に逮捕・処刑する、いわゆる「大粛清(だいしゅくせい)」を行っています。

その背景には、1930年代前半にスターリン政権がすすめた農業の集団化(私有財産を否定した生産への転換)の失敗があります。この失敗によって農業生産が落ちこんだため、数百万人もの人びとが餓死しました。その死亡者数は諸説ありますが、300万~600万人と推定されています。

スターリンはその責任をごまかすことに努めましたが、自分の権力基盤に強い不安を感じました。そして猜疑心を異常に膨らませて、多くの人びとを「体制をおびやかす存在」とみなして逮捕・処刑したのです。

ソ連時代の機密資料によれば、粛清のピークだった1937~38年には150万人余りが逮捕され、そのうち68万人が銃殺されています。なお、「犠牲者はもっと多い」という説もあります。 

その際、多くの軍の幹部・将校(37~38年に2万3千人)も銃殺または行方不明になりました。そこで、「“大粛清”が軍の弱体化を招き、独ソ戦の当初にドイツの快進撃を許す一因となった」ともいわれます(大木毅『独ソ戦』岩波新書、2019年)。

(第5回へ続く)
第5回は、独ソ戦のその後の展開です。一時はモスクワに迫ったドイツ軍の後退、ドイツが大敗したスターリングラードの戦いをはじめとする1943年の転換点など、ナチス・ドイツが追い込まれていく過程について。


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