入門・ヨーロッパの第二次世界大戦(5)独ソ戦の展開
第5回(全7回)
ソ連の反撃開始~スターリングラードの戦い、クルスクの戦いなど
1.ソ連の反撃開始
バルバロッサ作戦の挫折
ここで、独ソ戦に話を戻します。これまでみてきたように、ナチスドイツ・は、ポーランド・フランス・バルカン半島などのヨーロッパの大部分を制圧・占領したのち、1941年6月には独ソ戦を開始。そして、それから数か月のあいだ、戦争を有利にすすめました。しかし、その後風向きが変わっていきます(以下、独ソ戦の経緯はおもに大木毅『独ソ戦』岩波新書、2019年による)。
前述(第3回)のとおり、ドイツ軍は1941年11月には、ソ連の首都・モスクワ付近まで迫りました。しかし、同年(1941年)12月初旬に始まったソ連側の反撃によって、1942年1月初めまでにモスクワに迫ったドイツ軍は、大きく後退しました。部隊によっては250キロ後退しています。
これ以降、紆余曲折はあったもののソ連軍は反撃の勢いを強め、戦争は泥沼化していきます。短期でソ連を打倒することをめざしたバルバロッサ作戦は、挫折したのです。
独ソ戦の最初の数か月(1941年6月〜11月)、ドイツ軍は表面的には快進撃を続けていました。しかし、じつは進軍のペースは計画より大幅に遅れていました。計画では、「ソ連を完全に打倒して作戦を終了するのは1941年10月中旬」ということになっていたのです(H・P・ウィルモット『大いなる戦線 上』等松春夫監訳、国書刊行会、2018年)。

濃い網掛け:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網掛け:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)
「補給」を軽視したドイツ軍
ドイツ軍は、ベラルーシ・ウクライナ(いずれも当時はソ連の一部)・ロシア西部のおおむね平坦な大地を進んでいきましたが、それは当然ながら無人の荒野ではなく、各所でソ連軍と戦うことになりました。
そして、ソ連軍は劣勢だったものの、ドイツ側の想定よりもしぶとく抵抗を続け、ドイツ軍の前進を遅らせました。
また、最初の数か月の一連の戦いでドイツ軍は勝利を重ねる一方、その過程である程度の損失(死傷者や戦車などの兵器の損耗)を重ねていきました。その結果、壊滅的ではなくとも確実に弱体化していったのです。
研究者のあいだでは、「ドイツ軍は、スモレンスクの戦いで勝利した時点(独ソ戦の初期、1941年8月頃)までには、被った損失のため、ソ連を最終的に打ち破る力を失っていた」とする説もあります(大木毅氏が『独ソ戦』などで紹介する、戦史研究者デイヴィッド・ストーエルの説)。
そこで、さまざまな損失を補う「補給」がきわめて重要だったにもかかわらず、バルバロッサ作戦においてドイツ軍は補給の問題を軽視して、必要な対策を講じませんでした。 作戦の当初からドイツ軍の補給には問題がありましたが、ソ連の領内に深く進軍するにつれて補給はさらに困難になり、ドイツ軍は燃料・食料などの物資の不足に苦しみました。
たとえば、ドイツ軍は「短期決着」を前提として、冬用の装備なしで出発しましたが、冬が近づいても、戦いが続く最前線に防寒着などの追加の装備は届きませんでした。
1941年12月初旬になると、モスクワ付近のドイツ軍は、零下30~40度の寒さに冬支度もないまま苦しみ、活動能力を著しく低下させていきます。 ドイツ軍の中央の集団が出発したポーランドの都市からモスクワまでは、およそ1000キロもの遠い道のりでした。
そして、弱り切ったドイツ軍に対し、モスクワを防衛するソ連軍が力を振り絞って反撃を行った結果、前述のとおりドイツ軍は後退することになったのです。
1942年初頭以降、勢いづいたソ連軍は、さらに広い範囲の各地でドイツ軍に攻撃をしかけました。しかし、思うような成果は得られませんでした。
そのような大規模な反撃は、当時のソ連軍の体制・能力ではまだ無理だったのです。1942年の春になっても、ドイツ軍がソ連領内に深く入り込んで多くの地域を占領している状況は、基本的には変わらないままでした。
ドイツにとって無謀だったソ連との戦争
それでも、ソ連側はしだいに体制を整え、新たな兵器・物資の供給も比較的速やかに行われるようになっていきます。ロシア東部などの戦火の及ばない地域に生産設備を温存し、国内の資源も豊富だったからです。新たな兵士も、装備や訓練が不十分なことが多々あったにせよ、ドイツ軍よりも多く動員できました(ウィルモット前掲書・上)。
これは「大きな国土・人口を持つ国ならでは」のことです。
また、ソ連は「世界のトップ水準」といえる戦車をつくり出すなどの、相当な技術力も有していました。そして、戦いが長期化するなかで、ソ連軍の指導体制や戦術の立て直しも進んでいきました。さらに、あとで述べるように、アメリカから武器や物資の支援も行われました。
たしかに、ナチス・ドイツは、フランスを短期間で占領するほどの力を持っていました。しかし、ソ連との戦争では、敵を過小に、自己を過大に評価して、局所的にはともかく大局的には無謀な戦いをしたといえるでしょう。
ウィルモット(これまで何度も引用した戦史研究者)は、つぎのように述べています(筆者が多少整理した)。
「バルバロッサ作戦でドイツ軍が投入した兵力は“かけ離れた複数地点の目標を攻略する”という困難な作戦上の要請をギリギリ満たす規模だった」
「〔しかし〕その兵力の規模・活動はロジスティクス〔物資・人員を前線に補給する活動〕の限界を超えていた」
つまり、「補給のことをあまり考えず無理な目標設定をした」というわけです。
そして、ウィルモットは、《バルバロッサ作戦の失敗には、ナチズムの本性とそのイデオロギー自体が直接に関わっている》とも述べています。
つまり、「敵は劣等人種で、一方われわれは選ばれた存在である」という傲慢で歪んだ世界観が、フランス侵攻などでの成功体験と相まって、自分たちの国力と軍事力の限界を無視した非現実的でずさんな作戦のあり方につながったということです。
軍事的合理性からかけ離れた「絶滅戦争」
また、ナチズムの「敵は滅ぼすべき劣等人種」という世界観に基づいた「絶滅戦争」(第3回で前述)の戦い方は、「戦争に勝つための軍事的合理性」からはかけ離れたものでした。
独ソ戦において、ドイツ軍は各地で一般市民の殺戮・破壊・略奪・強姦といった暴虐のかぎりを尽くしています(こうした暴虐について幅広く述べた著書に、ティモシー・スナイダー『ブラッドランド 上・下』布施由紀子訳、ちくま学芸文庫、2022年がある)。
このようなドイツ軍に対し、ソ連の軍人も市民も抵抗の姿勢をとことん強固にしていきました。それによって、ドイツの勝利はより困難になりました。
また、ドイツ軍の捕虜となったソ連軍将兵に対しても、国際法を無視した虐待が行われました。多くの捕虜が、収容所の劣悪な環境や食事、過酷な強制労働のために死んでいったのです。独ソ戦で捕虜になったソ連の将兵570万人のうち、53%の300万人が死亡しています(大木前掲書)。
じつは、ドイツがソ連への侵攻を始めた当初、ドイツ軍を「スターリンの独裁体制からの解放者」とみる人びともソ連のなかには存在しました。とくに、バルト三国やウクライナでは、その動きが多くみられます。 ソ連のなかで「周辺的」といえるこれらの地域は、モスクワの中央政府による圧政・暴政にとくに苦しんでいたからです(大木前掲書)。
たとえば、前に(第4回で)「1930年代前半にスターリンによる農業政策(集団化の推進)の失敗による飢饉で数百万人の餓死者が出た」と述べましたが、その犠牲者の大部分はウクライナの人びとだったのです。
ソ連における重要な穀倉地帯であるウクライナは、集団化の失敗で農業生産が大きく落ち込んでいたにもかかわらず、モスクワの中央政府から容赦ない食糧の徴発(取り立て)を受けました。おもにロシアの主要部の人口を養うためです。その結果、ウクライナではとくに多くの餓死者が出たのでした(黒川裕次『物語 ウクライナの歴史』中公新書、2002年など)。
合理的に考えれば、ドイツは以上のような状況、つまりスターリン政権への人びとの不満や憎悪を利用してソ連内部の分断をはかるべきでした。
しかし、そもそもナチス・ドイツにとって、とくにヒトラーにとって、独ソ戦は人種的偏見に基づく「皆殺しの戦争」です。「侵攻した地域で積極的に配慮を示して人びとを味方につける」という選択肢はその前提に反することでした。ドイツ軍が残虐をきわめるのは必然だったのです。
その結果、「ソ連の一員としてドイツに徹底抗戦する」人びとは増えていきました。
ソ連の各地では、ドイツ軍が制圧・占領したはずの地域でも、ソ連軍の残存兵やパルチザン(市民による非正規軍)が必死の抵抗を行っています。 ソ連側の退却・避難の際には、施設や物資をドイツ軍に利用させないために破壊・処分しておく「焦土(しょうど)作戦」も、さかんに行われました。
ソ連側の非人道的行為
ただし、非道なドイツ軍と戦ったからといって、その戦いでソ連側が人道的だったとはいえません(以下、大木前掲書による)。
まず、ソ連による捕虜の扱いも、きわめてひどいものでした。ソ連の捕虜となったドイツ軍将兵(260万から350万まで諸説あり)のうち約30%が死亡したと推定されています。また、降伏したドイツ軍将兵を捕虜収容所に移送せずに処刑することも横行しました。
そして、ソ連の内部では秘密警察が国民をきびしく監視し、「人民の敵」とされた多くの人びとが強制収容所送りになったり処刑されたりしたのです。
またソ連軍では、「督戦(とくせん)隊」という「自軍のなかで敵前逃亡や降伏の動きをみせた兵士を、後方から攻撃する部隊」も組織的に活動しました。銃で威嚇して自軍の兵士を戦いに駆り立てることは、第二次世界大戦ではドイツなどほかの国にもありましたが、ソ連ではそれがとくにさかんでした。
ソ連では、ドイツとの戦いで愛国心や団結力が高まっていきましたが、こうした「恐怖政治」も、国民を徹底抗戦に駆り立てるうえで重要でした。
2.アメリカの参戦
アメリカの関与・武器貸与法による支援
ここで、アメリカ合衆国の動きを整理しておきます。1941年(6月に独ソ戦が始まった年)の前半には、アメリカは参戦には至らないものの、大戦に本格的に関与するようになりました(アメリカの動きは、佐藤千登勢『フランクリン・ローズヴェルト』中公新書、2021年などによる)。
1941年3月にルーズヴェルト大統領は、「武器貸与法」を成立させます。この法律によって、ドイツの陣営(枢軸国)と戦う国に対し、アメリカが大量の武器や軍事物資を「貸与」というかたちで供給することが可能になりました。「貸与」といっても、それは供給される側にきわめて有利な条件で行われました(かなりの場合、事実上無償の供与)。
同法成立後、まずイギリスへの支援が始まりました。さらに同年(1941年)4月には日本と戦っていた中国の国民政府(当時の政権)への支援が開始され、同年(1941年)秋には、独ソ戦を戦うソ連にも武器貸与法が適用されることが決まりました。
そして、ソ連への輸送ルートを確保するため、ソ連とイギリスは同年(1941年)9月にドイツ寄りの中立国だったイランを占領しています。
当時のイランは実権を持つ国王が統治していましたが、占領後は国王を交代させ連合国側の政権をつくったのです。イランはイギリスの勢力圏(パキスタンなど)とソ連南部の両方に接していました。同年(1941年)11月にはイラン経由でのソ連への物資輸送が始まりました(大木前掲書)。
以上に先立つ1940年12月、ルーズヴェルトは「イギリスを武器貸与で支援すること」について国民の理解を得るため、ラジオでこう語っています――「イギリスがドイツに征服されたら、つぎはアメリカ大陸に巨大な戦力を向けるだろう」と。そして、ドイツを勝利させないために「われわれは“民主主義の兵器廠(しょう=軍専属の工場)”になるべきだ」と訴えたのでした。この語りかけは、多くの国民の賛同を得ています。
その後1941年8月にはルーズヴェルト大統領とチャーチル首相がカナダのニューファンドランド州の沖合などで会談して、「力による領土変更の禁止」「民族自決」「自由貿易の拡大」「恐怖と暴力からの解放」等の、終戦後を見据えた平和建設のための原則をうたった共同宣言を発表しました。のちに「大西洋憲章」と呼ばれる宣言です。
アメリカ、ついに参戦
そして、同年(1941年)12月には、日本軍による真珠湾攻撃によって日本とアメリカの戦争がはじまりました。
これを受けて、ドイツはすぐに日本の同盟国としてアメリカに宣戦布告。ヒトラーは「いずれ予想されるドイツとアメリカの戦争が始まった場合には日本もこれに参戦する」という確約を得ることを望み、その見返りに「日本がアメリカと戦う場合はドイツも参戦する」ことを約束していたのです(大木前掲書)。
そして、日本は真珠湾攻撃と同時期に香港・マレー半島・アメリカの植民地フィリピンなどに侵攻し、その後インドネシア(オランダ領)も攻略しました。そこで、これらの地域に植民地を持つイギリス・オランダと日本のあいだの戦争もはじまりました。イギリスと日本は日中戦争においてすでに敵対していましたが、日米の戦争などからなる「アジア・太平洋戦争」の開始以後、本格的な戦争となったのです。
こうして、アメリカはアジア・太平洋での戦争(日本が主敵)にも、ヨーロッパでの戦争(ドイツが主敵)にも当事者として参加することになりました。前に(第2回、第3回で)述べた「アメリカの参戦」というチャーチルの念願が、ついに実現したということです。真珠湾攻撃によって、参戦に消極的だったアメリカの世論は一変したのでした。
そして、アメリカ・イギリスなどと日本の戦争がはじまったことは、それまでおもにユーラシア大陸の西(欧州)と東(中国と東南アジアなど)で基本的には別個に行われていた戦争が、まさに全地球規模の「世界大戦」として一体化したことを意味しました。
また、日米開戦からしばらくの間は「日本がソ連を攻撃するかどうか」は、ヨーロッパ情勢におけるひとつの焦点でした。日本の動きしだいで、独ソ戦に影響が出るからです。当時の日本は、占領していた満州などでソ連の極東地域と接しており、1939年には日本軍と極東のソ連軍のあいだの激しい軍事衝突(ノモンハン事件など)も起きています。
しかし、その後日本軍がソ連を攻撃する動きはありませんでした(アメリカや中国などと戦う日本にその余裕はなかった)。そこで、ソ連としてはドイツとの戦争に集中することができました。
1941年4月には、「日ソ中立条約」が締結されます。そして、終戦直前の1945年8月にこの条約をソ連が一方的に破棄して満州に侵攻するまで、日本とソ連が交戦することはありませんでした。
コンセプトにおける連合国の優位
以上のような状況下(独ソ戦の展開、日米開戦など)で、1942年1月には、ワシントンで「連合国共同宣言」が出され、前述(第4回)のとおり多くの国ぐにが参加して「連合国」の陣営を形成していきました。
この共同宣言は、これに署名した国ぐにが「大西洋憲章に賛同し、枢軸国と徹底的に戦うこと」を確認するものでした。つまり、そこには大西洋憲章の理念も盛り込まれています。
連合国は民主主義や自由主義、人権の尊重、民族自決を基調とした主張をかかげ、世界の多くの勢力を味方につけていきました。一方、枢軸国はナチズムに代表されるように「自分たちの民族の優越性や利害を主張するばかりで、世界のほかの国ぐにも受け入れられる理念を十分に示すことができなかった」といえます。
ただし、だからといって「連合国は正義や善意にあふれていた」ということではないでしょう。たとえば、これまでにも述べたように、アメリカによる無差別爆撃や原爆投下、あるいはソ連による占領地での市民虐殺、捕虜虐待、国内での恐怖政治などをみれば、それは明らかです。
しかし、少なくとも世界の多数派を味方につけるコンセプトのうち出し方において、連合国は枢軸国よりもまさっていたのです。とくに、連合国がかかげた「力による領土変更の禁止」「民族自決」の原則は、大国の支配や圧力を受けてきた中小国、各国の少数派の民族、アジア・アフリカの植民地といった多くの地域・人びとにとって賛同しやすいものでした。
ナチス・ドイツはたしかに強大でしたが、イギリス+米ソの超大国やそのほかの多くの国ぐに・勢力を一度に敵にまわして戦争を行うのは、いくらなんでも無謀でした。しだいにドイツは、不利な状況に追い込まれていきます。
3.独ソ戦の転換点

濃い網掛け:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網掛け:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)
ロシア南部の攻略・ブラウ作戦
独ソ戦の状況に話を戻します。ソ連を短期で制圧することには失敗したドイツ軍でしたが、1942年にもソ連を打倒するための積極的な攻撃を続けていきます(以下、「転換点」については、大木前掲書、ウィルモット前掲書、山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』朝日新書、2022年などによる)。
それでも、1942年の時点でドイツ軍には、バルバロッサ作戦のときのようにソ連の広い範囲で一挙に攻撃をしかけるだけの力は、もう残っていませんでした。
そこで、ドイツ軍はまず南方を重点的に攻めることにしました。つまり、すでに占領したウクライナからさらに東に進み、ロシア南部とカフカス地方(黒海とカスピ海の間、英語ではコーカサス)を占領することを重点目標としたのです。カフカスには重要な油田があります。「資源が豊富で、工業地帯でもあるこの地域を手に入れれば、ソ連は経済的基盤を大きく失い、自分たちは資源を獲得できる」というわけです。
これは、ドイツ軍の司令部がモスクワ攻略を重視したのを否定して、ヒトラーが強く打ち出した方針でした。
1942年6月下旬、以上の方針に基づく「ブラウ(青号)作戦」と名づけられた作戦が動き始めました。ドイツ軍は東に攻勢をかけ、ロシア南部のヴォルガ川沿いの工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)などの制圧をめざしています。さらに別の部隊は南東へ進み、カフカスの油田をめざしました。戦力を2つに分けてそれぞれの目標を攻めたのです。
ブラウ作戦の当初のプランでは、ひとつに戦力を集中してまずロシア南部(当時ドイツ軍とソ連軍が対峙する境界となっていた、ドン川流域)のソ連軍の主力を滅ぼして、脅威を取り除いたうえでカフカスを攻めることになっていました。しかし、作戦の序盤でソ連軍を比較的順調に撃破できたので、勢いに乗ったドイツ軍は「同時に2つの目標を攻撃して、より速やかに目標を達成する」というプランに変更しました。ここにもヒトラーの判断・意向が強く働いています。
しかし、このような「二正面作戦」にはやはり無理があったことが、のちに明らかになっていきます。つまり、「傲慢で、敵を過小評価して失敗する」という、独ソ戦におけるドイツ軍の傾向が、ここにもあらわれているのです。
なお、「スターリンの町」を意味するスターリングラードを制圧することには象徴的な意味もありました。ヒトラーはその点を重視し、スターリングラードの占領に強くこだわりました。
転換点①スターリングラードの戦い
1942年8月上旬に、ドイツ軍はカフカスのおもな油田のひとつであるマイコープ油田を占領しました。しかし、この油田はソ連側が退却時に徹底的に破壊し、使用不能になっていました(「焦土作戦」の一例です)。
その後、カフカスではソ連軍の抵抗の前にドイツ軍は思うように進むことができませんでした。そして、カフカスで戦うドイツ軍はほかのドイツ軍の最前線から数百キロも奥深く進んでいたので、補給の問題が深刻化し、勢いを失っていきました。
一方、同年(1942年)8月下旬には、予定より遅れてスターリングラードへの総攻撃が始まりました。市街への激しい空爆を行ったうえで、25個師団(20~30万人)のドイツ軍(ルーマニア軍含む)がこの都市に攻め入ります。「(ヨーロッパにおける)第二次世界大戦の転換点」といわれることもある「スターリングラードの戦い」が始まったのです。
しかし、ドイツ軍はスターリングラードの全体を一挙に制圧することはできず、徹底抗戦するソ連軍との壮絶な市街戦が始まりました。
このときのドイツ軍は、大軍ではありましたが、相当な規模のソ連軍が防衛するこの都市を一気に攻め落とすにはやや兵力不足でした。また、市街戦になると、ドイツ軍は戦車などによる本来の機動力を生かすこともできず、その分苦戦を強いられることになりました。
そして、じつは、すでに空爆によって廃墟と化したスターリングラードを占領したところで、軍事的にはさほどの意味はなかったのです。
しかし、ヒトラーは前に述べたように、この都市の占領にこだわりました。また、ヒトラーの認識では「ロシア南部のソ連軍はすでに撃破されたので、占領は容易であるはず」でした。しかし、この認識はやはり「敵の過小評価」であり、実際にはソ連軍はまだ大きな反撃力を有していたのです。
同年(1942年)11月下旬、スターリングラードで市街戦が続く中、ソ連軍は大軍(兵員20数万)を動かして、スターリングラードの周辺に展開していたルーマニア軍とドイツ軍を急襲で蹴散らし、一気にこの都市を包囲しました。これによって市街で戦うドイツ軍は孤立してしまいますが、空輸による不十分な補給を頼りに、物資の不足に苦しみながらソ連軍との戦いを続けたのでした。
独ソ戦において、ルーマニア軍のほか、ハンガリー軍やイタリア軍は、おもにソ連の南部地域でドイツ軍をサポートしていました。しかし、これらの同盟国の軍は装備も訓練もドイツ軍より大幅に劣っていたので、ドイツ側の弱点でした。 この時期(42年秋~43年初め)のスターリングラードとその周辺の戦いで、ソ連南部におけるイタリア軍とハンガリー軍は、ソ連軍の大規模な攻撃を受け、壊滅状態に追い込まれました。
そして同年(1942年)12月、ドイツ軍はスターリングラードに向けて救援部隊を送り込みますが、ソ連軍の反撃によって12月末までには押し戻されてしまいます。
なお、ソ連軍によるスターリングラード包囲には、戦場の全体で約110万人の兵力が動員されています。そして、当時スターリングラードとその周辺に展開していたドイツ軍などの枢軸国軍もこれと同等の規模でした。「スターリングラードの戦い」は、そのような巨大な兵力による激戦だったのです。
「愚行」を重ねた末のドイツ軍の敗北
1943年2月初めには、包囲されていたスターリングラードのドイツ軍は力尽きて降伏し、捕虜となりました。このときドイツ軍の将兵は、スターリングラードに攻め入ったときの20~30万から9万にまで減っていました。
それまでにこのドイツ軍部隊が包囲から脱出するチャンスもあったのですが、ヒトラーは脱出を頑として認めず、最後は日本でいう「玉砕」を現場に命じています。しかし、現場の司令官は、その命令には従わなかったのです。
一方、カフカス地方で戦っていたドイツ軍は、スターリングラードのドイツ軍が降伏する少し前、1942年12月末から1月にかけて孤立を避けるためにカフカスから撤退しました。
以上のロシア南部とカフカスにおける一連の戦いで、ドイツ軍は(同盟国の軍も含め)ぼう大な戦死者・捕虜を出した末に敗北しました(このうち20万人前後がスターリングラードで包囲された部隊ということです)。
この敗北によってドイツ軍は、ソ連の体制を打倒するのに必要な攻撃力を明らかに失ったのでした。 それは、不合理な戦い方を続けた末の敗北でした。
つまり、無理な二正面作戦(スターリングラードなどのロシア南部とカフカスを同時に攻める)を選択し、さらにスターリングラードでは自分たちの優位(戦車などによる機動力)を生かすことができない市街戦に突入するなど、軍事的合理性に反する戦いの結果ということです。
しかも、そもそもスターリングラードの占領にはそれほどの軍事的意義はなかったのです。
この記事の重要な参考文献である『独ソ戦』(中公新書)で大木毅氏は、スターリングラードの戦いにおけるドイツ軍について《作戦・戦術的には……おのれの質的優位を放棄するがごとき戦法を取った》と評しています。そして、そのことを「愚行」とも述べています。
この局面において、ドイツ軍は「愚行を重ねてとり返しのつかない敗北を喫した」といえるでしょう。そして、その「愚行」の背景には、ヒトラーあるいはナチズムの歪んだ世界観・思考があるわけです。
第3回で述べたとおり、独ソ戦は「ナチズムの“世界観=妄想”の実現」(“劣等人種”を絶滅させる)ということが動機として強く影響をあたえた戦争でした。さらに、その世界観の「害毒」が「ソ連という敵の過小評価による戦略全体のずさんさ」につながっていることも、先ほど述べました。
そして、ナチズムの「害毒」は、「特定の軍事目標(たとえばスターリングラード)の攻略」のような戦争の具体的な局面でも、合理性を見失う方向にドイツ軍を動かしたのでした。
転換点②クルスクの戦い
ソ連は、スターリングラードで勝利した頃から攻撃の勢いを強めていきました。ただし、1943年3月にはウクライナの重要な都市ハルキウをドイツ軍が再び奪取するなど、ソ連にとって困難な状況がしばらくは続きました。ハルキウは1941年にドイツが占領し、1943年2月にソ連が1度取り返していました。
しかし、同年(1943年)7月にドイツ軍がロシア中央部の都市クルスク(モスクワから南へ500キロほど、ウクライナ東部に近い)の周辺地域に大規模な攻撃を仕掛けて失敗したことで、ソ連の優位は明確なものとなりました。
この「クルスクの戦い」に、ドイツ軍は80万弱の兵力と大量の戦車・航空機を投じ、ソ連軍を撃破しようとしました。これに対し、迎え撃つ体制を徹底的に固めていたソ連軍は、甚大な損失を被ったもののドイツ軍の前進を阻みました。
そして、ドイツ軍は作戦の目標を達成できないまま、さらに深刻なダメージを受けたのです。そこから立ち直る力は、ドイツにはもう残っていませんでした。クルスクの戦いは、スターリングラードの戦いと並ぶ、重要な転換点といえます。
4.追い詰められる枢軸国・イタリア降伏
北アフリカでの枢軸国の敗退
一方、北アフリカにおける戦いも、1942年の後半から43年にかけて転換期を迎えました(北アフリカの戦いについては、太平洋戦争研究会『図説 第二次世界大戦』河出書房新社、1998年による)。
1942年の前半には、ドイツ軍を主力とする北アフリカの枢軸国軍(ドイツ軍・イタリア軍)は、イギリス軍に対し積極的に攻撃をしかけていました。
同年(1942年)6月、枢軸国軍はリビア東部(エジプトに近い場所)の重要な拠点である港湾の都市・トブルクを奪還しています。もともとリビアはイタリアの植民地で、トブルクはイギリス軍に奪われていたのです。
しかし、同年(1942年)8月には、ドイツ軍が東に進んでエジプト(イギリスの植民地)に深く攻め入ろうとしたところを、イギリス軍はエジプトの西部で食いとめました。
そして、同年(1942年)10月下旬~11月初め、イギリス軍は体制を整えたうえで積極的な反撃を行いました。このとき、イギリス軍は、エジプト西部のエル・アラメイン付近に陣地を構えていた枢軸国軍を撃破し、その後は枢軸国軍を西に押し戻していきました。
この「エル・アラメインの戦い」は、北アフリカの戦いにおける転換点となりました。
これ以後、北アフリカでは連合軍(イギリス軍・アメリカ軍)の優位が確立していきます。その意味で、この戦いの位置づけは、時期的にも近い独ソ戦のスターリングラードの戦い(42年秋~43年初頭)と似ています。ただし、エル・アラメインで戦った兵力の規模はスターリングラードよりも1桁小さいです。
同年(1942年)11月には、10万人のアメリカ軍の兵力が北アフリカの西端であるモロッコとアルジェリアに上陸しました。そして、1943年2月から、連合軍は、チュニジア(フランスの植民地、リビアとアルジェリアの間)に退却したドイツ軍を東西から攻撃。同年(1943年)5月には、枢軸国軍の25万人の将兵が降伏しました。
カサブランカ会談(および以後のカイロ会談・テヘラン会談)
以上の北アフリカでの戦いの最中、1943年1月には、モロッコのカサブランカでルーズヴェルトとチャーチルが会談しています。
この「カサブランカ会談」では、連合国の方針として、北アフリカの枢軸国軍に勝利した後は、速やかにシチリア島(イタリア半島の南端のすぐ近く)への上陸作戦を行うこと、また「枢軸国に無条件降伏を求めること」が確認されています。 「無条件降伏」は、「戦争終結の、敗者にとって最も厳しいかたち」といえます。
そして、カサブランカ会談で決めた方針に沿って、同年(1943年)7月上旬、連合軍(アメリカ軍・イギリス軍)が48万人の兵力で北アフリカから地中海を渡ってシチリア島に上陸し、8月中旬に同島を制圧。シチリアで連合軍を迎え撃った枢軸国軍(イタリア軍・ドイツ軍合わせて20数万人)の大部分は退却を重ねた末にイタリア本土へ撤退しました。
なお、カサブランカ会談以後も、連合国の首脳の会談は行われました。
同年(1943年)11月下旬には、ーエジプトのカイロでルーズヴェルト・チャーチル・中国の蒋介石による「カイロ会談」が行われ、「日本に無条件降伏を求めること」などが確認されました。
そのあとすぐに(1943年11月末~12月初め)、当時イギリスとソ連の支配下にあったイランのテヘランで行われた「テヘラン会談」では、ルーズヴェルト・チャーチル・スターリンが会談し、「1944年5月に北フランスへの上陸作戦を行う」などの重要な方針が確認されています。
ドイツの厳しい状況
北アフリカの戦いは、独ソ戦に比べれば小規模であっても、10万人単位の兵力が衝突する、一般的には「巨大」といえる戦争でした。ドイツにとって、北アフリカにも兵力を割かざるを得なかったことは、主戦場である独ソ戦をさらに苦しいものにしました(以下のドイツの状況については、ゲアハート・L・ワインバーグ『シリーズ戦争学入門 第二次世界大戦』矢野啓訳、創元社、2020年などによる)。
たとえば、ドイツ軍は、戦況が厳しい北アフリカに航空機をソ連の戦場から送っています。それによってソ連におけるドイツ空軍は手薄になり、ソ連が自国の制空権(航空優勢)を取り戻す時期は早まったのでした。
なお、航空機をソ連の戦場から送ることは、連合軍による爆撃に苦しむドイツ本国(後述)に向けても行われています。また、シチリアが連合軍に占領され、イタリアが危うくなったことは、同時期に行なわれていたクルスクでの決戦をドイツ軍が戦ううえで足かせとなりました。
一方、1942年末以降、連合軍(イギリス軍とアメリカ軍)は、ドイツ本国とその支配地域への空爆を強化しました。これはイギリス本土から行われたもので、とくにイギリス軍は都市への無差別爆撃をさかんに行っています。ドイツは、空爆に対する防御(地上からの対空砲火、戦闘機による迎撃など)にも相当なリソースを割く必要がありました。
また、海の戦いでもドイツは厳しい状況に追い込まれていきました。開戦以来、ドイツは大量の潜水艦(Uボート)によって、北大西洋で連合国側の輸送船団を沈めることをさかんに行い、かなりの戦果をあげました。
しかし、やがて連合国は護衛艦の体制強化、空母や航空機、艦載レーダーや通信の暗号解読などの手段を駆使して、船団の防衛を強化しつつ多数のドイツ潜水艦を撃沈するようになります。
そして、1943年5~6月には、連合国は「北大西洋の戦いでドイツに勝利した」といえる状況に達したのでした。これで輸送船の損失や航海の危険が減り、アメリカ大陸から西欧への輸送・補給はかなりスムースになりました。
イタリアの降伏とドイツ軍の抵抗
連合軍によるシチリア島上陸(1943年7月)は、すでに国民の支持を失っていたムッソリーニ政権にとどめを刺しました。1943年7月25日、イタリア国内の有力者たちと国王(当時のイタリアは立憲王国)は、ムッソリーニを失脚させ、逮捕しました。そして新政権をつくり、連合国との降伏交渉を開始したのでした。
連合軍は同年(1943年)9月初めにイタリア半島の南部に上陸。連合軍の上陸が始まった同日、イタリアの新政権は連合国に降伏しました。
なお、失脚したムッソリーニはまもなくドイツ側に救出され、当時はまだ連合軍の力が及んでいなかったイタリア北部に逃れています。そして、そこに「臨時政府」的なものをつくりましたが、影響力は失っていました。
ただし、この時点でイタリア半島にはドイツ軍の兵力が存在しており、イタリア(とくにドイツに近い北部)はドイツの強い影響下にありました。ドイツ軍は、イタリアの新政権が降伏すると、すぐに首都ローマ(イタリア中部に位置する)を占領してしまいます。
そして、イタリア南部では上陸した連合軍とドイツ軍の戦いが始まりました。イタリアの新政権は、イタリア南部の、連合軍が占領した地域に置かれることになりました。
その一方、ドイツ軍はバルカン半島(ユーゴスラヴィア・ギリシャ・アルバニア)、ウクライナ、フランスに占領軍として駐留するイタリア軍(総計170万人)を強制的に武装解除し、捕虜にしています。
連合軍のシチリア上陸の頃から、ドイツ軍はイタリアでの連合軍との戦いや、イタリアの弱体化・脱落により各地で生じた穴を埋めるのに兵力を割かかざるを得ませんでした。このことは、ドイツにとってソ連との戦いをより苦しいものにしました。そして、この状況は、当時現実味を帯びてきた「連合国による、フランス北部などの北西ヨーロッパからの上陸」に備えるうえでもマイナスでした。
その一方、連合国側では(とくにアメリカ軍において)、「主戦場ではないイタリアに戦力を割くと、より重要な北西ヨーロッパでの作戦の妨げになる」と懸念する声がありました。
イタリア半島のドイツ軍はしぶとく抵抗を続け、連合軍がイタリア半島全体を制圧するまでには相当な時間がかかりました。連合国の軍がローマを含むイタリア中部からドイツ軍を撃退したのは1944年6月のことです。1945年当初の時点でも、イタリア北部(ミラノ、ジェノヴァなどがある)は、ドイツ軍の勢力圏でした(以上のイタリアをめぐる情勢は、ウィルモット前掲書・下巻、ワインバーグ前掲書、前掲『図説 太平洋戦争』による)。
(第6回へ続く)
第6回は、1944年以降の大戦の終盤~終結の局面について。ドイツ軍のソ連からの撤退、ノルマンディー上陸作戦などの連合軍の攻勢、ソ連の東欧への侵攻、ドイツの降伏など。ドイツ以外の周辺国(東欧・西欧・北欧の各国)の終戦についても俯瞰します。なお、第7回はホロコーストについて。
