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入門・ヨーロッパの第二次世界大戦(6)大戦の終結


第6回
連合軍の攻勢~ヨーロッパにおける大戦の終結


1.ドイツ軍の撤退と連合軍の攻勢


ウクライナからのドイツ軍撤退と「焦土作戦」


1944年に入ると、ソ連軍とアメリカ・イギリスなどの連合軍による攻勢はさらに激しくなりました(以下、大木毅『独ソ戦』岩波新書、2019年、山崎雅弘『〔新版〕独ソ戦史』朝日文庫、2016年による)。

まず、独ソ戦においてはクルスクの戦い以降、ソ連軍はつぎつぎとドイツ軍に勝利していきました。1943年秋から翌冬にかけてソ連軍はウクライナの中央部を流れるドニエプル川の流域(首都キーウ含む)を制圧。さらに、1944年春には、ドイツ軍はウクライナ・クリミヤ半島からほぼ撤退しました。

そして、ドイツ軍はドニエプル川の以西に撤退する過程で、非人道的な「焦土作戦」を行っています。つまり、占領していた地域(もともとはソ連)にあったさまざまな建造物・機材・食糧・家畜などを、ソ連軍に利用させないために破壊するか強奪したうえで撤退していったのです。

さらに、その地域の数十万の住民もドイツの支配地域へ強制移送しました。ソ連側の兵士や労働力としてこれらの人びとを動員させないため、そして自分たちが労働力として利用するためです。この蛮行は、ヒトラーの指示を受けて組織的に行われました。これはまさに「絶滅戦争」(「劣等民族を皆殺しにすること」をめざした戦争、第3回で説明)的な行為といえるでしょう。

一方、1944年1月には、ソ連軍の攻勢によってレニングラードがドイツ軍による包囲から約900日ぶりに解放されています。包囲による犠牲者(多くが「兵糧攻め」による餓死・病死)は、「少なくとも100万人」とみられています。



第二次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網掛け:枢軸国(ドイツ、イタリア)
薄い網掛け:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)


1944年の連合軍の攻勢①ノルマンディー上陸作戦


そして、1944年6月6日、連合軍(アメリカ軍・イギリス軍・カナダ軍)の兵力が、フランス北部のノルマンディーに上陸を開始し、橋頭保(きょうとうほ、前進の拠点)を築きました。このとき連合軍が周到な準備をして作戦に臨んだのに対し、ドイツ軍は「連合軍がどこから上陸するか」を読みちがえるなど、失敗や混乱が目立ちました。

この「ノルマンディー上陸作戦」は、ヨーロッパ北西部からの上陸・侵攻によってドイツ打倒をめざす「オーヴァーロード(大君主)作戦」と呼ばれる大きな作戦の一部です。そして、テヘラン会談で確認した予定よりやや遅れて実施されたのでした。

ノルマンディー上陸作戦の開始以後、連合軍は3か月弱でフランス北部に200万余りの兵員とぼう大な武器・物資を陸揚げしています。これらの人やモノは、おもにアメリカから大西洋をわたってイギリスに集積されたうえで、ドーバー海峡を渡ったのです。

これほどの大量輸送は、前述(第5回)のとおり、1943年のうちに大西洋からドイツの潜水艦Uボートが駆逐され、航海の安全が確保されていたからこそ可能なことでした。

フランス北部に上陸した連合軍は、1か月ほどはドイツ軍の抵抗の前に停滞していましたが、1944年8月以降はドイツ軍を撃破して前進していきました。同年(1944年)8月下旬には、連合軍によってパリがドイツの支配から解放されました。

また、同年(1944年)8月半ばには、連合軍(アメリカ軍・自由フランス軍)はフランス南部の地中海岸からも上陸し、北へ進撃していきました。そして、この南からの集団とノルマンディーからの集団は、パリが解放された直後に合流しています。

同年(1944年)9月末までの時点で、フランスから上陸した連合軍は、フランス・ベルギー・ルクセンブルクの大半とオランダ南部を、ドイツの支配から解放したのでした(ノルマンディー上陸作戦と1944年の連合軍の進撃については、H・P・ウィルモット『大いなる聖戦  下』国書刊行会、2018年による)。


1944年の連合軍の攻勢②ソ連軍のパグラチオン作戦


一方、1944年6月22日、ノルマンディー上陸作戦に呼応して、ソ連軍は「パグラチオン作戦」と名づけられた、広い範囲での大規模なドイツ軍への攻撃を開始しました。これは、ドイツ占領下のベラルーシへの攻撃を中心とするものでした(パグラチオンは、ロシアに侵攻したナポレオン軍との戦い=祖国戦争で活躍したロシアの将軍の名前)。

この作戦でソ連軍は125万人もの兵力を投入し、物量だけでなく高度の戦術も駆使してドイツ軍に大勝しています。そして、同年(1944年)7月にはベラルーシ(当時はソ連の一部)の首都ミンスクをソ連軍が奪還。同年(1944年)8月の時点でドイツ軍はソ連のおもな領域から撤退しました(大木前掲書)。

これに続いて、ソ連はバルト三国(1940年にソ連に編入、1941年にドイツが占領)を奪還していきました。この地域からドイツ軍が撤退したのは、リトアニアは1944年8月、エストニアは同年9月、ラトヴィアは同年10月のことです。ただし、ラトヴィアの一部地域には、それ以後もドイツの残存兵力が、包囲されて身動きがとれない状態でとどまり続けました(山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』朝日文庫、2022年)。

このようにドイツが追い詰められるなか、1944年7月には、ドイツ国防軍の一部の将校を首謀者とする、ヒトラー暗殺未遂の事件も起きています。この一派は「暗殺後にクーデタで新政権をつくり、連合国と和平すること」をめざしました。

しかし、時限爆弾をヒトラーのいる会議室で爆発させたものの、ヒトラーは軽傷を負っただけでした。クーデタについても、軍のなかで反乱の呼びかけは行われましたが、将官たちの支持は得られず、すぐに失敗に終わりました(柴健介『ヒトラー』岩波新書、2021年)。


ソ連軍の東欧への侵攻


(ポーランド)

パグラチオン作戦以後は、ソ連がドイツの領域に攻め込んでいきます(以下、前掲『第二次世界大戦秘史』による)。

1944年8月初めには、ソ連軍はポーランド(ドイツ占領下)のワルシャワに迫りました。しかし、このときワルシャワではポーランド人の抵抗組織(「ポーランド国内軍」)が武装蜂起してドイツ軍と戦っていたのですが、それを見殺しにするかのように、ソ連軍の前進は停止します。

なぜなのか?――「武装蜂起したのは、イギリス軍やロンドンのポーランド亡命政府と連携する自由主義(反共産主義)勢力だったので、その勢力が勝利して戦後のポーランドを主導するのをスターリンが避けようとしたから」という見方が有力です。

同年(1944年)10月には、ワルシャワのポーランド国内軍は力尽きてドイツ軍に降伏。ソ連軍と親ソ連派のポーランド軍が前進してワルシャワを占領したのは、1945年1月のことでした。そして同年(1945年)1月、ソ連の影響下にある「ポーランド共和国臨時政府」が発足しました。

(ルーマニア・ブルガリア)

一方、1944年8月下旬には、ソ連軍は東欧の枢軸国ルーマニア領内に深く入ってきました。するとルーマニアでは政変が起き、成立した新政権はすぐにドイツに宣戦布告しました。

続いて同年(1944年)9月上旬には、ソ連軍は別の東欧の枢軸国ブルガリアに侵攻し、ブルガリアは無抵抗で降伏しました。じつはブルガリアは1944年6月以降、連合国に対し和平を申し入れていたのですが、連合国は拒否しました。そして降伏の直後、ブルガリアでも政変が起き、新政権がドイツに宣戦布告しています。

(ハンガリー)

一方、東欧の枢軸国のなかで、ハンガリーだけはドイツが降伏する1945年5月までソ連と戦い続けました。ただし、そのハンガリーも、1944年9月には密かに連合国と休戦協定を結んでいます。

しかし、それを察知したヒトラーは、テロと謀略によって、従来の政権に代わりハンガリーのヒトラー信奉者を元首に据え、ソ連への抵抗を続けさせたのです。これに対し、ソ連軍はハンガリーの一部を占領し、その地域に親ソ連派の臨時政府をつくりました。ただし、親ソ連派がハンガリー全体を掌握するのは、ドイツ降伏後のことでした。


「東西冷戦」の起源


以上のとおり、大戦の後半においてスターリンのソ連は、ドイツを打倒するとともに、東欧諸国(「中欧」ともいわれるポーランド、チェコスロバキア含む)を自国の勢力圏とすることを目標として戦いました。

ただし、大戦末期において、スターリンは共産主義政権をすぐに東欧に植え付けることまでは考えていませんでした。「共産主義でなくても、ソ連が影響を及ぼしうる政権を東欧に成立させれば、まずはそれでよい」という方針でした。

そのようなスターリンの構想を、アメリカ・イギリスも一応は承認しました。ドイツを倒すために、この時点でソ連とはげしく対立するわけにはいかなかったからです(以上のソ連の動きや米英の対応は、山本健『ヨーロッパ冷戦史』ちくま新書、2021年による)。

そして、大戦が終わって数年以内に、東欧諸国の多数派は親ソ連の社会主義政権のもと、ソ連に従属する「東側」の陣営に組み込まれていきました。第二次世界大戦後の世界は、自由主義・資本主義の「西側」(アメリカ・西欧)と社会主義の「東側」(ソ連・東欧)の2大勢力が対立する「東西冷戦」(1940年代末~1990年頃)に突入していきます。

そのような「東西の陣営が対峙する」構図の起源は、「大戦末期のソ連による東欧への侵攻」に求められます。


2.大戦末期のヨーロッパ各地の情勢


第二次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網掛け:枢軸国(ドイツ、イタリア)
薄い網掛け:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)


独ソ戦以後のフィンランドの情勢


また、東欧の枢軸国とともにドイツに加勢したフィンランドの情勢についても、確認しておきます(以下、前掲『第二次世界大戦秘史』による)。

前述(第3回)のとおり、フィンランドは1941年6月の独ソ戦の開始とともにソ連(ロシア北部)に侵攻しました。そして、3か月ほどのうちに「自国に近い、かつて自国領だった地域(とその周辺)」を占領し、それ以上は軍をすすめませんでした。「これで戦争の目的を達成した」ということです。フィンランドは東欧の枢軸国やイタリアとくらべ、ドイツと一定の距離を取っていました。

その後、フィンランドはロシアでの占領地域を保持し続けます。しかし、1944年1月にレニングラードへの包囲が解かれるなど、ロシア北部におけるドイツ軍が大きく崩れると、ソ連による占領地域の奪還とフィンランド侵攻は時間の問題となりました。

そこでフィンランドは、「ドイツとの関係を絶ち、ソ連と講和すること」を模索し始めます。同年(1944年)6月にはソ連軍による前線のフィンランド軍への大規模な攻撃が始まり、フィンランド軍は追い込まれていきます。そして同年(1944年)9月に、ソ連の突きつけた領土割譲や賠償金の要求をのんで講和を結んだのでした。

しかし、このフィンランドの寝返りにヒトラーは激怒し、今度はフィンランド領内でドイツ軍とフィンランド軍の戦闘が始まりました。この戦いは「ラップランド戦争」と呼ばれ、ドイツが降伏する直前の1945年4月下旬まで続きました。


大戦末期以後のバルカン半島の情勢① ユーゴスラヴィア


さらに、枢軸国(ドイツ・イタリアなど)に占領されたバルカン半島の国ぐに(ユーゴスラヴィアとギリシャ)についてみておきます(以下、前掲『第二次世界大戦秘史』、柴宣弘『ユーゴスラヴィア現代史 新版』岩波新書、2021年による)。

まずユーゴスラヴィアですが、この国は非正規軍による枢軸国への抵抗が最も激しい地域でした。

抵抗活動の有力な勢力としては、①セルビア王国(セルビア人国家)の復活を掲げる「王党派」と、②チトー(1892~1980)をリーダーとする共産主義者のパルチザン(以下「チトー派」)があり、両者は対立していました。セルビア人は、多民族国家ユーゴスラヴィアで最も有力な民族です。また、前にも述べたようにユーゴスラヴィアは民族間の対立の問題を常に抱えていました。

連合国側は、イギリスが主体となって王党派を支援しました。イギリス政府には、チトー派のような共産主義勢力に対して警戒心がありました。チトー派のパルチザンは苦戦しましたが、1943年末以降には優勢になります。チトーは、「民族を問わないオープンな姿勢」を民族対立が激しいなかでも貫き、支持を広げていきました。大戦末期には、連合国もチトー派支援に転じます。

そして、チトー派はソ連軍と連携して、45年3月には枢軸国軍をユーゴスラヴィアから駆逐しました。この戦いのなかで、クロアチア(もとはユーゴスラヴィアの一部だった)の親ドイツ政権も打倒されています。

1945年11月には、チトーを指導者とする、新しいユーゴスラヴィアの国家が成立。この国はのちに社会主義体制を築きますが、ソ連に対しては従属せず、距離を保ちました。チトーは1980年の死去まで、強力な指導者として複雑な多民族国家を束ねます。しかし、彼の死後、ユーゴスラヴィアでは民族対立が再燃し、1990年代には内戦が始まったのでした。


大戦末期以後のバルカン半島の情勢② ギリシャ


1941年に枢軸軍に占領されて以来、ギリシャではイタリア軍がその占領で大きな役割を果たしていましたが、イタリアの降伏後はドイツ軍がギリシャへの兵力を追加して占領を続けました。

しかし、1944年10月にはドイツ軍はギリシャからの撤兵を開始。この時点で非常に追い詰められていたドイツ軍は、ギリシャを捨て、ほかの地域に兵力を振り向けることにしたのです。これ以降、ギリシャは連合国側に加わって終戦までドイツと戦いました。

しかし、大戦末期からギリシャでは、レジスタンス活動における「共産党系勢力と自由主義勢力の間の対立」が激しくなり、終戦後の1946年には内戦に発展しました。枢軸国という「外部からの共通の敵」がいなくなり、国内の対立が強く意識されるようになった結果です。

この「ギリシャ内戦」は、1949年にアメリカとイギリスの支援を受けた自由主義側が勝利して終わりました。ギリシャはその後、アメリカの影響をとくに強く受ける「西側」の一員となりました(以上、前掲『第二次世界大戦秘史』による)。


3.ドイツの降伏とヨーロッパにおける終戦


第二次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網掛け:枢軸国(ドイツ、イタリア)
薄い網掛け:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)


いよいよ追い詰められるドイツ


1944年秋以降、フランスから上陸した「西からの連合軍」は、ドイツ軍の抵抗の前に停滞することもありましたが、大勢としては進撃を続けました(以下、ゲアハート・L・ワインバーグ『シリーズ戦争学入門 第二次世界大戦』矢吹啓訳、創元社、2020年、大木前掲書による)。

同年(1944年)10月下旬には、ドイツ西部の都市アヘーンが、ドイツの主要都市としてははじめて連合軍によって占領されています。

これに対しドイツ軍は、1944年12月半ばから1945年1月にかけて、ベルギー・オランダ・フランスにまたがるアルデンヌ地方で、西からの連合軍に対し反撃を行いましたが、惨敗しました(「アルデンヌ攻勢」、あるいは戦いの構図・状況から、「“バルジ=突出部”の戦い」といわれる)。

ドイツによる大規模な攻撃は、これが最後でした。同年(1945年)2月には(西からの)連合軍は前進を再開し、ライン川(ドイツ北西部や、ドイツとフランスの国境地帯を流れる)を越えて、ドイツに入っていきました。

一方、ソ連軍(「東からの連合軍」)は、1945年1月半ばにドイツへの侵攻作戦を開始しました。ウクライナとベラルーシから大軍が動き出し、どちらも同年1月末までにはオーデル川(現在のドイツとポーランドの境)などを超えて、ドイツ東部にある首都ベルリンから数十キロの圏内に達しました。


大戦末期におけるソ連の蛮行


そして、ドイツに侵攻したソ連軍は、敵軍への攻撃にとどまらず民間人に対して激しい略奪や暴行、強姦などの非人道的行為を重ねました(以下、大木前掲書による)。

ソ連軍の上層部には、「ドイツへの報復は正義」だとして、そのような蛮行を煽る傾向がありました。

また、ソ連による蛮行は、ドイツ国民に対してだけではありません。多民族国家であるソ連には(おもに西部に)、独ソ戦開始時の時点で100数十万のドイツ系住民がいましたが、ドイツ軍の撤退以降、それらの人びとはシベリアなどの過酷な辺境に強制移住させられました(移住開始後数年のうちに2~3割が死亡)。

このような強制移住の対象は、のちにバルト三国やウクライナ西部の住民、ソ連内部のイスラム教徒にまで拡大していきます。以上の人びとを、スターリンは「敵に寝返った(または寝返る恐れのある)敵性国民」とみなし、迫害の対象としたのです。


ヤルタ会談などの「談合」


このように、いよいよドイツの敗北がみえてきたなか、1945年2月には、クリミヤ半島のヤルタで、ルーズヴェルト・チャーチル・スターリンがドイツ降伏後の方針を協議しています(以下、山本前掲書による)。

この「ヤルタ会談」では、「国際連合の設立・その規約」についてのほか、「連合国がドイツを共同で占領すること」や、ポーランドの領域などの「戦後の東欧諸国の扱い」がおもなテーマとして話し合われ、大枠の合意がなされました。

そして、ヤルタ会談ではドイツが降伏したあとの「ソ連の対日参戦」や、「戦後の日本の領域(植民地のすべてと北方領土を失う)」についても方針が確認されています。

これらの合意事項は、国際連合のことは別にして、基本的に「密約」でした。ヤルタ会談などのアメリカ・イギリス・ソ連による話し合いは、「アメリカ・イギリスとソ連のあいだで、大戦後の勢力関係を決める談合」といえるものでした。

なお、ポーランドの領域については、テヘラン会談で「1939年にソ連が占領したポーランドの東側はそのままソ連領とする」ことが確認されていました。

そして、ヤルタ会談ではポーランドとドイツの国境線が話し合われ、スターリンは、アメリカ・イギリスが想定していた国境よりも西側のライン(西ナイセ川)を主張しました。その国境線では、ポーランド(ソ連の勢力圏)が全体として西側に移動し、その分ドイツの領域は削減されることになります。

ヤルタ会談では、この「ポーランドの西側の国境」の問題は決着しませんでしたが、1945年7月にドイツのポツダムで行われた「ポツダム会談」(病死したルーズヴェルトの後任のトルーマン大統領・チャーチル・スターリンによる)で、スターリンの主張する国境線が受け入れられました。アメリカ・イギリスはソ連に譲歩したのです。


ドイツの降伏


大戦末期の戦いの状況に話を戻します。ソ連軍は、1945年4月中旬にベルリンへの進撃を本格的に開始します。 ルーズヴェルトが病死したのは、その頃(4月12日)です。後任の大統領には、副大統領のハリー・トルーマンが昇格しています(以下、ドイツの降伏の経緯は、千々和 泰明『戦争はいかに終結したか』中公新書、2021年、大木前掲書による)。

またこの時期(1945年3月~4月)、チャーチルなどイギリスの指導者のあいだでは「ソ連軍だけにベルリンを占領させるべきではない。戦後処理がアメリカ・イギリスに不利になる」と懸念する声もありました。しかし、アメリカの首脳部はベルリン攻略に消極的でした。「まだ日本との戦争も続いているので、ベルリンでの戦いで自軍の犠牲者が増えるのは避けたい」という考えだったのです。

同年(1945年)4月下旬、ソ連軍はベルリン市内に突入しました。市街戦ののち、5月2日にはベルリンを防衛するドイツ軍は降伏。それに先立つ4月30日、ベルリンの地下壕の指令本部にこもっていたヒトラーは銃で自殺しています。

同年(1945年)5月8日、ドイツは無条件降伏しました。詳しく述べると「5月7日にドイツ国防軍、アメリカ・イギリス側の連合軍、ソ連軍の各代表(いずれも最高司令官の代理)が、フランス北部の都市ランスで降伏文書に署名し、翌8日に文書の効力が発生した」のです。連合国は「ドイツの中央政府は崩壊し、存在しない」として「ドイツ政府」ではなく「ドイツ国防軍」と降伏文書を交わすかたちをとりました。

「ドイツ政府は存在しない」とは、「連合国は、ドイツの主権(国家としての決定権)を一切認めない」ということを意味しました。これは戦争終結のかたちとして、敗戦国にとって極度にきびしいものです。

この大戦でやはり「無条件降伏」だった日本の場合でも、降伏文書は「天皇・日本政府・大本営(軍の総司令部)」の名において調印しています。なお、イタリアの降伏では「無条件降伏」ということは曖昧にされています。ドイツや日本に対してよりも緩やかな扱いだったのです。

スターリンは、この降伏手続きがアメリカ・イギリス主導で行われたことに、強く反発しました。「降伏文書への署名は、ドイツと最も戦ったソ連が占領するベルリンで行われるべきだ!」と憤慨したのです。そこで5月9日には、ソ連の主導で降伏文書の2度目の調印がベルリンで行われています。

ドイツに勝利したその日に、このような「東側」と「西側」の対立があったわけです。

独ソ戦以降、アメリカ・イギリスとソ連は手を結んでドイツと戦いました。しかし、ドイツに対する勝利が確定すると、たとえばこの降伏文書の件のように、戦後の冷戦につながる「東西」の不信や対立があらわになっていきました。


イタリアでの戦闘終結


一方、イタリアでのドイツ軍と連合軍の戦いが終結したのも、ドイツが降伏するのとほぼ同時期でした。その時点までイタリア北部のドイツ軍は抵抗を続けていたのです。

しかし、1945年4月に入ると連合軍は攻撃の勢いを強め、4月下旬にはドイツ軍は総崩れとなります。そして同年(1945年)5月上旬には北部も含めたイタリア全体を連合軍が占領したのでした。1946年には、国民投票で王政が廃止されイタリアは共和国となり、今日に至っています。

イタリア北部に逃れていたムッソリーニは、1945年4月28日(ドイツが降伏する直前)にパルチザンによって捕らえられ処刑されています。大戦末期のイタリアではドイツと戦うパルチザンの活動が活発に行われていました。

イタリアに限らず、大戦末期には枢軸国に占領された各地域におけるパルチザン活動は活発化していきます。そして、各国の亡命政府が組織した軍隊が連合軍に加わって自国に入り、枢軸国やその傀儡政権と戦うことも行われたのです(ワインバーグ前掲書、前掲『第二次世界大戦秘史』』による)。


「自由ポーランド軍」の結末


ただし、こうした「亡命政府の軍隊」のうち、ロンドンを拠点とするポーランド亡命政府の「自由ポーランド軍」は、自分たちの手で祖国を解放することができませんでした。

大戦末期において、自由ポーランド軍は連合軍の一員として西欧の戦場で戦っていたのですが、1945年1月以降は祖国がソ連軍と「親ソ連派のポーランド人勢力」の手に落ちていくのを遠くでみているしかなかったのです。

戦争が終わると、自由ポーランド軍の将兵のほとんどは「戦前とは領域が変わり、ソ連に従属することになった祖国」に戻るのを拒否して、イギリスで暮らすことを選びました(前掲『第二次世界大戦秘史』)。


ヨーロッパ各地での戦闘終結


以上述べた以外のヨーロッパ各地における戦争終結も(すべては網羅しきれませんが)確認しておきます(以下、ワインバーグ前掲書、前掲『第二次世界大戦秘史』による)。

(デンマーク・ノルウェー)

ドイツに占領されていた北欧のデンマークとノルウェーでも、最終的にドイツ軍が連合軍に降伏したのは、1945年5月上旬のことでした。デンマークでは4日、ノルウェーでは7日のことです。

(オランダ・ベルギー)

1944年11月にはベルギーの全土がドイツの支配から解放されたのですが、オランダ北部ではドイツ軍の抵抗が大戦の最終段階まで続きました。オランダのドイツ軍が連合軍に降伏したのは、1945年5月5日のことです。 なおオランダとベルギーでは、大戦末期の戦いで、大戦の初期のドイツが侵攻したとき以上の犠牲・被害が出ています。

(チェコスロバキア)

チェコスロバキアでの戦争終結は、以上の国ぐにの数日後のことでした。1945年5月11日に、プラハで抵抗を続けていたドイツ軍の最後の部隊がソ連軍に降伏しています。こうしてヨーロッパ各地のドイツ軍は、ひととおり降伏したのでした。その後、チェコスロバキアでは亡命政府のリーダー(ナチス・ドイツに征服される以前の大統領ベネシュ)を大統領とする、共産党を含む連立政権が成立しました。 そして、1948年には政変によって共産党政権が成立し、チェコスロバキアは「東」の陣営に組み込まれたのでした。

(西欧の中立国、残った日本)

なお、最後まで中立を保ったスウェーデンは大戦の後半から徐々に「ドイツ寄りの中立」から「連合国寄り」へ方向転換していきました。その一方、「永世中立国」のスイスは、大戦において戦闘には参加しませんでしたが、大戦終結の数週間前までドイツへの経済支援を続けていました(山本前掲書)。

そして、枢軸国のおもな勢力としては、日本が最後に残ったわけです。日本が降伏するのは、ドイツの降伏から3か月余り後のことです。つまり、1945年8月14日に日本政府は無条件降伏を受諾し、翌15日に「玉音放送」でそれが国民に知らされました。同年(1945年)9月2日に降伏文書への署名が行われています。


4.戦後の2つのドイツ


ドイツの占領支配


そして、大戦後のドイツをめぐる「戦後処理」について、ごく簡単に確認しておきます。その「処理」の根幹は、大戦終盤のヤルタ会談(1945年2月)と、ドイツ降伏後のポツダム会談(1945年7月~8月)におけるアメリカ・イギリス・ソ連の協議で決まっていました。

まず、ドイツの東側の一部は、ポーランドに割譲されました。その一方でポーランドは、自国の東側をソ連に割譲させられています。これは基本的にはヤルタ会談で決まっていたことです。

ただし、ドイツがポーランドに割譲する具体的な範囲については、ポツダム会談でアメリカがソ連に妥協するかたちで決まりました。このときポーランドがドイツから得た領土(オーデル川と西ナイセ川よりも東の地域)は、現在のポーランドの国土の3分の1を占めます。これによって、ポーランドは第二次世界大戦前よりも全体として300キロメートルほど西側へ移動することになったのでした。ポーランドに割譲された地域の数百万人のドイツ人のほとんどは、難民としてドイツへ逃れました(山本前掲書)。

一方、1945年6月5日には「ベルリン協定」が調印され、ヤルタ会談での合意に沿って、ドイツの東側(エルベ川以東)はソ連が占領し、西側はアメリカ・イギリス・フランスがそれぞれの区域ごとに占領支配することになりました。この占領区域が、のちに「東ドイツ」と「西ドイツ」になっていきます。

なお、フランスは大戦の前半でドイツに占領されてしまったので、ドイツと戦った勢力の中心ではなく、ヤルタ会談やポツダム会談のメンバーでもありません。しかし、イギリス(とくにチャーチル)が「ヨーロッパがソ連の脅威に対抗するにはフランスの協力が必要」だと考えて強く主張し、フランスをドイツ占領の枠組みに引き入れたのです。

また、国際連合の中核である常任理事国に、アメリカ・イギリス・ソ連・中国という枢軸国打倒の中心であった国ぐにのほかにフランスが加わったのにも、以上のような「フランスを重視するイギリスの意向」が働いています(加藤俊作『国際連合成立史』有信堂、2000年)。

そして、ベルリンは、ソ連が占領するドイツの東側のエリアにありましたが、1945年7月以降は大きく東西に分けられ、東ベルリンはソ連が、西ベルリンはアメリカ・イギリス・フランスが占領しました。ソ連がベルリンを単独で占領しようとしたのに対し、アメリカなどが反対した結果です(山本前掲書)。

なお、「ベルリンの壁」は西ベルリンの地域を囲むもので、1961年に東ドイツが建設しています。1960年頃には、社会主義の東側に対する西側の経済的な優位は明らかで、ベルリンの壁は東ドイツ側から西ベルリンへ人びとが流入する動きを遮断するためのものでした。

このように東西に分かれたベルリンは、東西冷戦を象徴する重要な場所となりました。前述のとおり、大戦末期のアメリカはベルリンの攻略に関心を持たなかったのですが、これについては「先見の明がなかった」といえるでしょう。

一方、終戦直後には、枢軸国の戦争を指導したリーダーの1部や、とくに残虐な行為を行った枢軸国の軍人・兵士を「戦争犯罪人」として裁く「国際軍事裁判」も行われました。

「裁判」といっても、これは戦争に勝った側が、負けた側を断罪する性格のものでした。ドイツに関しては1945~46年に「ニュルンベルク裁判」、日本に関しては1946~48年に「東京裁判」(極東軍事裁判)が行われています。


2つのドイツの成立


その後、1949年5月にはアメリカ・イギリス・フランスが占領する地域が「ドイツ連邦共和国」(西ドイツ)となりました。それに対抗するかたちで同年(1949年)10月にはソ連の占領地域が、社会主義の「ドイツ民主共和国」(東ドイツ)となっています。ドイツは2つに分断されたのです(以下、2つのドイツの成立については、山本前掲書による)。

西ドイツの首都はボンという中規模の都市に置かれ、憲法として「ボン基本法」が制定されました。「基本法」というのは「ドイツが再統一されるまでの暫定憲法」という意味合いの名称です。ボンも「暫定の首都」という位置づけでした。そして、東ドイツ側も「いずれ2つのドイツは(自分たちの主導で)統一されるべき」という立場でした。

このように2つのドイツを成立させる計画は、連合国によるドイツ占領の当初にはありませんでした。 しかし、アメリカ・イギリス側とソ連がそれぞれの思惑で戦後のドイツを再構築しようとするうちに、両者のあいだの溝は深まり、分裂につながる緊張が高まっていったのです。

1948年6月には、ソ連はスターリンの指示で「西ベルリンを封鎖し、人やモノの出入りを出来ないようにする」という暴挙に出ました(ベルリン封鎖)。このときはアメリカ・イギリスが、孤立した西ベルリンに空輸で大量の物資を運び続けて対抗し、結局スターリンは1949年5月に封鎖を解除したのでした。

こうした状況のなか、アメリカ・イギリスは「ドイツの西側だけでも、早く自由主義の国家として成立させたほうが良い」と考えました。そしてフランスも、当初はアメリカに批判的な傾向がありましたが、これに同調しました。その結果、まず西ドイツという「分裂国家」が成立し、自由主義陣営(西側)の一員となったのです。

そして1955年には、西ドイツは主権を回復し、連合軍による占領も終わりました。つまり、それまでの西ドイツはおもに外交や軍事について、独立国家としての権利が国際社会のなかで認められていなかったのですが、その状態を脱したのでした。

その後、ベルリンの壁が市街を2分する状態は、1989年11月の「ベルリンの壁崩壊」まで続きました。そして1990年10月には、西ドイツが東ドイツを吸収する形で、東西ドイツは統一されたのでした。ボン基本法は、「暫定」で終わることなく統一後の全ドイツの憲法となりました。


5.第二次世界大戦の死亡者


第二次世界大戦の死者は、近年の研究では7000~8000万人


ここでまとめとして、この大戦による死者の数を確認します。第二次世界大戦による死亡者は、世界全体で軍人(戦闘員)2305万人、民間人3158万人、合計5400万人余りにのぼりました。これは、第一次世界大戦(軍人・民間合計で約1800万人)を大きく上回るものでした(ウッドラフ『概説現代世界の歴史』ミネルヴァ書房、2003年)。

ただし、大戦争の被害を正確にとらえるのは困難なことであり、死者数については諸説があります。以上の「軍人・民間合計で5400万人(5000~6000万人)」は、重要で基本的な数字です。しかし「古典的な、手堅い推計による数字」といえます。

近年の研究では、第二次世界大戦による死亡者を従来よりも大きくカウントする傾向があります。「古典的な数字」はカウントの対象を「戦闘と、虐殺などの戦争犯罪による直接的な死者」に限定する傾向が強いです(この死者には後述のホロコースト=ユダヤ人虐殺の犠牲者も含まれる)。

これに対し、近年の研究では、戦争の影響で生じた疫病や飢饉などによる「間接的」な犠牲者を、積極的に「戦争による死者」に含めるのです。

そのような「近年の新しい数字」に属する、ある推計よれば、第二次世界大戦による死者は、7500万人余り(7000~8000万人)です。そのうち軍人は2605万人、民間人は4940万人でした(ジャン・ロベズ監修、ヴァンサン・ベルナール+ニコラ・オーハン著『地図とグラフで見る第二次世界大戦』太田佐絵子訳、原書房、2020年、以下の各国の死者数も同書による)。

以下、各国の死者数や死亡率は、おもに上記の『地図とグラフで見る第二次世界大戦』に基づいて述べます。なお、1940年の世界人口(推定)は23憶人でした。7500万人は23憶人の3.3%。「3.3%」というと、2022年の世界人口80憶人に対してだと、2.6億人です。

(ソ連・中国)

第二次世界大戦において、最も多くの死者を出した国は、ソ連でした。ソ連ではこの大戦で、軍人1230万人、民間人1560万人が亡くなりました。両者を合わせると2800万人弱で、第二次世界大戦の死者の4割近くを占めます。

ソ連に次ぐぼう大な死者を出したのは中国で、軍人300万人、民間1200万人。この数字の精度は、ほかの主要国とくらべて落ちると考えられます。しかし、中国は巨大な人口を抱えアジアの主戦場であったので、多くの犠牲者が出たことはまちがいありません。

(ドイツ・ポーランド)

3番目に多くの死者を出したドイツ(オーストリア含む)は、軍人536万人、民間330万人。軍人の戦死者の7割ほど(400万人弱)は独ソ戦での死者です。

そして、ドイツに次ぐ(4番目に多い)死亡者が出たのがポーランドです。軍人24万人、民間630万人。

民間人の割合が高く、さらに民間の死亡者の約半数の320万人がユダヤ人でした(ユダヤ人の虐殺については、つぎの第7回で述べます)。1939年の国の人口に対する戦没者の割合(以下「死亡率」)は19%。太平洋戦争の激戦地となった南洋諸島を除けば、最も高い率です。なお、ソ連の「死亡率」は15%で、ポーランドに次ぐ高さでした。

ソ連とポーランドという、ナチス・ドイツが「劣等人種」との戦いと考えて荒らした地域は、第二次世界大戦のなかでもとくに恐ろしいことになったのです。そして、侵略をしかけたドイツの死亡率も、ソ連に次ぐ11.0%に達しました。

なお、日本における人口に対する戦没者の割合(死亡率)は、4%余りです。

(ユーゴスラヴィア・ギリシャ)

また、ユーゴスラヴィアでは軍人・民間合わせて103万人という、ヨーロッパではポーランドに次ぐ4番目に多い死者が出ています。「死亡率」は6.6%で、ヨーロッパでは5番目の高さです(ヨーロッパで死亡率が高かった国・ポーランド→ソ連→ドイツ→ギリシャ→ユーゴ)。

そして、同じくバルカン半島のギリシャは比較的小規模な国でありながら、軍人・民間合わせて51万人の死者(そのうち9割が民間人)を出し、死亡率は7.0%に達しました。

(フランス・イタリア・イギリスなど西欧)

以上に対しフランスの死亡者(軍人・民間計、以下同じ)は52万人、イタリアは51万人、イギリス(本国)は36万です。死亡率は、このなかで最も高いフランスでも1.3%。それはもちろん甚大な犠牲なのですが、それでも「東欧・バルカン半島での戦いは西欧よりも激しかった」ということです。

西欧(北欧含む)で死亡率が高かったのはフィンランドで、2・6%(死亡者36万人)。オランダもそれに匹敵する水準で、2.4%(死亡者21万人)でした。これらの国は「西欧の激戦地」だったのです。ただし、フィンランドの死亡者の98%が軍人であるのに対し、オランダは97%が民間人です。

(日本・アメリカ)

日本は、ポーランドに次ぐ(世界で5番目の)犠牲者数でした。厚労省の統計では、軍人・軍属230万人、民間80万人が亡くなっています(高橋正紀『データで見る太平洋戦争』毎日新聞出版、2017年)。

そして、アメリカはどうでしょうか。軍人の死者数は42万人で、民間人については本土が被害を受けていないので千数百人にとどまります。軍人・民間を合わせた死亡率は0.3%で、おもな参戦国のなかでは際立って低いです。


これは1900年代半ばの世界で現実に起こったことである


以上は、最近私たちが大災害やテロ、あるいは地域的な国際紛争・内戦などで目にする犠牲者の数を大きく超える、ケタはずれの数字です。第二次世界大戦の被害や悲惨さは、とにかく想像を絶するものでした。しかし、これは1900年代半ばの世界で現実に起こったことなのです。

しかし、最近は「日本とアメリカって、戦争したことがあるの?」という若い人もいると聞きます。

戦争を体験した世代や、その世代の身近で話を聞いた人たちもいなくなろうとしています。教科書に戦争のことが書かれていても、読まない生徒は大勢います。最近はテレビをみない人も増えている。

いずれ、無視できない数の人たちが「第二次世界大戦があったこと自体を知らない」という世の中になるのでしょう。

その先には、おぞましいことが起きるかもしれません。「世界大戦などなかった」と主張する者たちが、影響力を持つようになるのです。彼らは言うでしょう――「何千万人もの死者が出るような大戦争なんてあり得ない。あれは○○(←差別・攻撃の対象)がでっちあげたフェイクだ!」。

私はふざけているのではなく、本当に心配しています。世界大戦についての人びとの記憶や知識が劣化するほど、この世界における大戦争のリスクは高まるのです。

(第7回へ続く)
つぎの第7回で最後となります。ユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)について述べます。

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