見出し画像

入門・ヨーロッパの第二次世界大戦(7)最終回・ホロコースト


0.はじめに


これまで、6回にわたり「ヨーロッパにおける第二次世界大戦」について概要を述べてきました(第1回~第7回全て公開中)。今回(第7回)は、最終回。

この巨大な戦争(第二次世界大戦)の過程では、ユダヤ人の大量虐殺という、戦争の「本体」とは異なる系統の殺戮も行われました。その結果、600万人(諸説あり)のユダヤ人(国籍はさまざま)が命を失うということがあったのです。

なお、第二次世界大戦による全世界での死者の合計(軍人・民間人の両方含む)は、5000~6000万人です。この死者数のなかに、虐殺されたユダヤ人600万人も含まれます。

なお、上記の「5000~6000万人」は「戦闘・虐殺などによる直接的な死者」をカウントした「古典的」なものですが、近年は「戦争の影響で生じた疫病や飢饉などによる死者も含める」という方針も有力です。その方針によれば、第二次世界大戦による死者は、7000~8000万人になります(前述、第6回)。

以上のユダヤ人虐殺を、ユダヤ教の用語で「家畜を焼き尽くして神にささげる行為」を意味する「ホロコースト」と呼ぶことが、近年では定着しています(この虐殺を扱い、1978年に放送されたアメリカのテレビドラマ『ホロコースト』以降にこの呼称が一般化したとされる)。

「入門・ヨーロッパにおける第二次世界大戦」の最終回は、ホロコーストについての基礎的な知識をめとめたものです(6000数百文字、20分くらいで読める分量)。



1.前提となる歴史


ユダヤ人とは


ユダヤ人とは、とりあえず(あくまでとりあえず)「ユダヤ教の信者と、(信仰を持たないとしても)その信者と血縁関係にある人びと」と考えればいいでしょう。ユダヤ教はキリスト教の母体となった一神教ですが、イエス・キリストを認めないので、キリスト教とは鋭く対立するところがあります。

ユダヤ人は、紀元前1000年頃にはパレスチナ地方(中東の一画)に自分たちの初期の王国を形成するなど、長い歴史を持つ民族的な集団です。しかし、西暦100年代にローマ帝国によって当時のユダヤ人の王国が徹底的に滅ぼされて以降、ユダヤ人は各地に離散し、1948年のイスラエル建国まで独自の国家を持つことはありませんでした。

そして、ヨーロッパ(西欧・東欧)を中心に、あとは西アジア(中東地域)やロシアなどでマイノリティとして暮らすようになったのです。そして、近代以降はアメリカ合衆国もユダヤ人の重要な居住地となっています。また、世界各地のユダヤ人どうしの国際的なネットワークも形成されていきました。

ヒトラーは、ユダヤ人に対し異常な偏見を抱き、その政治思想(ナチズム)のなかでユダヤ人を徹底的に排斥することを主張しています。「反ユダヤ」は、ナチズムの重要な柱のひとつでした。

ヒトラーが自著『我が闘争』(1925~1926刊、日本語版は角川文庫など)などで述べた世界観では、ドイツ人の主流派(ゲルマン民族)は「アーリア人種」というカテゴリーに含まれる、世界に君臨すべき存在です。

そして、ヒトラーは「アーリア人種」の下には、上から順に「地中海人種」→「スラブ人種」→「黒人種」→「ユダヤ人種」という階層が存在すると主張しています。ユダヤ人は、ナチズムにおける「人種」の階層の底辺に位置づけられ、文明・文化を破壊する存在とされました(ナチズムにおけるユダヤ人敵視については、R・P・シェイドリン『ユダヤ人の歴史』入江則夫訳、河出文庫、2012年、柴健介『ホロコースト』中公新書、2008年による)。


ヨーロッパにおける「反ユダヤ」の伝統


ただし「反ユダヤ」そのものはナチズムによる発明ではありません。ユダヤ人への偏見・差別意識は、ドイツだけでなくヨーロッパ全般で、伝統的に存在していました(以下、シェイドリン前掲書、柴前掲書による)。

中世(500年頃~1500年頃)のヨーロッパでは、キリスト教以外の宗教(かつてはかなり有力だった)は大幅に衰退していきましたが、ユダヤ教は例外的に活力を保ち続けました。そこでユダヤ人は、キリスト教徒からとくに敵視されたのです。

そして、西欧では十字軍が始まった頃(11世紀)以降、ユダヤ人への差別・迫害がとくに激しくなりました。十字軍はキリスト教徒によるイスラム圏への侵攻で、1300年頃まで複数回くり返されました。これはキリスト教徒の自覚や自信、そして攻撃性が高まったことを示す出来事でした。

十字軍以降の中世ヨーロッパでは、民衆によるユダヤ人の虐殺や、国王・領主によるユダヤ人の(領地からの)追放が増えていきました。一方、同時代のイスラム圏ではユダヤ人に対する扱いは比較的穏健でした。

また、中世ヨーロッパではユダヤ人は土地所有を禁じられ、さまざまな同業者組合からも排除されました。そこで、質屋・金貸しといった金融業など、当時のキリスト教社会では「卑しい」とされた仕事に活路を見出すか、貧民として生きるしかなかったのです。このことは、ユダヤ人に対する蔑視・偏見の強化につながりました。

しかし、近代ヨーロッパでは、とくに1800年代以降、ユダヤ人は各国で市民としての権利を認められるようになっていきます。

そして、近代の資本主義社会は、ユダヤ人という「金融ビジネスに長け、同胞との国際ネットワークを持つ集団」には有利な環境でした。近代以降のユダヤ人はマイノリティでありながら、実業家や専門家・知識人として活躍する人材を多く輩出し、その存在感は大きくなっていきます。しかし、多数派の側ではそれを不快に思う人びともいました。

きわめて大雑把には以上のような経緯から、ヨーロッパにおいてユダヤ人を「目障りで危険なマイノリティ」とみなす偏見・敵意が、根強く存在したのです。

そして第一次世界大戦後のドイツでは「ドイツの敗戦は、おもにユダヤ人による陰謀のせい」とする論調も力を持っており、ヒトラーもそのことを強く主張しました。


2.「追放」から「隔離」「絶滅」へ


当初はユダヤ人の「追放」をめざしていた


ナチ党政権下の「反ユダヤ」政策の基本は、当初は「ユダヤ人をドイツ国外へ追放する」というものでした。第二次世界大戦がはじまる前の段階で、ナチ党政権は、ユダヤ人のさまざまな権利や自由を徹底的に奪っていきました。公職やその他の職業からの追放、財産や経営権のはく奪、さまざまな行動の制限・禁止、不当な逮捕……そこには「ユダヤ人がドイツから出ていくのを促す」という意図があったのです(柴前掲書など)。

1938年11月には、政権の主導によって多数のユダヤ人の住宅・店舗・宗教施設などに対する激しい暴力・破壊も起きています(そのとき破壊された商店のガラスが月明かりに照らされた様子にちなみ「水晶の夜」といわれる)。

しかし、こうした弾圧によって財産や自由を奪われたドイツのユダヤ人にとって、ただでさえハードルの高い「国外移住」は、より困難になっていきました。

歴史学者のヴォルフガング・ベンツは、《ナチ国家はドイツ系ユダヤ人の国外移住を強力に推進すると同時に制限もした》と述べています(『ホロコーストを学びたい人のために』中村浩平・中村仁訳、柏書房、2012年新装版)。

また、アメリカ合衆国などの諸外国によるユダヤ人の受け入れも、十分ではありませんでした。そして、多くのユダヤ人が「文明国ドイツでこのような非道がいつまでもつづくはずはない」と期待して、外国へ脱出するのをためらったのです(シェイドリン前掲書)。

結局、「ユダヤ人の国外追放」はナチ党政権の思うようにはすすみませんでした。

そして、第二次世界大戦の開始以降は、ユダヤ人がヨーロッパから脱出することは困難となり、1941年10月にはユダヤ人の国外移住は全面禁止となりました(シェイドリン前掲書)。

第二次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網掛け:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網掛け:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)


占領地域の多数のユダヤ人を抱え込む


その一方、ヨーロッパの広い範囲を制圧・占領ドイツが占領した各地には大勢のユダヤ人がいたので、大戦期のドイツは戦前よりもはるかに多くのユダヤ人を抱え込むことになっていきました。第二次世界大戦の開始(1939年9月)以降、1941年末頃までに、ドイツはポーランド、フランス、(ポーランド以外の)東欧諸国、ソ連の一部などに侵攻し、それらの国ぐにを制圧していました。

とくに東欧はユダヤ人の多い地域で、ユダヤ人人口が330万人のポーランドや170万人のウクライナなど、総計で数百万人のユダヤ人が暮らしていました(1930年代末~1940年)。これに対し、同時期のドイツ本国におけるユダヤ人は37万人にすぎません(シェイドリン前掲書)。

ドイツは、ユダヤ人の追放をすすめていたはずでした。しかし、その一方でさまざまな国を侵略していった結果、自分たちの領域におけるユダヤ人は大量に増えてしまったのです。その意味でも、「ユダヤ人追放政策」は破綻したといえます。

なお、大戦前夜(1939年)の東欧・西欧をあわせたヨーロッパ全体では、950万人のユダヤ人がいました。しかし、このうちヨーロッパ以外の地域やイギリスなどの「迫害からの安全圏」に亡命できたユダヤ人は60万人ほどで、終戦までに600万人が殺害されたのでした(柴前掲書)。


「隔離」という「緩慢な虐殺」


このような状況――それまでの政策の破綻から、ナチス・ドイツのユダヤ人政策は「追放」から「隔離」へ、さらに「虐殺による絶滅」へと大きく舵を切っていくことになります。

その方向転換の意思決定の源泉がヒトラーの意向であることはたしかですが、「ユダヤ人絶滅」についてのヒトラーによるまとまった司令書が残っているわけではありません。

多くの専門家は「ナチス・ドイツの一部の高官・幹部たちが、ヒトラーに忖度しながら、あるいは体制内の空気を読みながら“ユダヤ人絶滅”へと突き進んでいった」とみています。そして、ヒトラーもその動きを積極的に是認したのです。

ただし、「ホロコーストにおけるヒトラーの役割」については多くの議論があります。また、大戦争という「命が極度に軽んじられる状況」が、異常な大量虐殺を後押ししたこともたしかでしょう(以上の方向転換については、柴前掲書、大木毅『独ソ戦』岩波新書、2019年による)。

特定の居住区にユダヤ人を強制的に押し込める「隔離」の政策は、「追放」と「絶滅」のあいだの過渡的な段階として位置づけられます。

1939年10月以降、ユダヤ人強制居住区(伝統的に「ゲットー」という)がポーランドで400か所ほど設けられました。そして、ナチス・ドイツはそれらの狭いエリアに大量のユダヤ人を各地から移送して押し込め、劣悪な環境で食事もろくに与えず強制労働をさせたのでした。

ホロコーストの犠牲者のうちの5分の1(100万人余り)が、ゲットーのなかでおもに飢えと病で亡くなっています。「隔離」の実態は「緩慢な虐殺」だったのです(隔離政策については柴前掲書による)。


組織的な虐殺による「絶滅」


しかし、その後「組織的な大量虐殺による速やかなユダヤ人の絶滅」が、ナチス・ドイツの規定方針になっていきます。それは1941年末から1942年初頭にかけて以降、つまり独ソ戦が泥沼化してドイツの勝利に暗雲がたちこめるようになってからのことです(独ソ戦については第3回、第5回など参照)。

ただし、銃殺などの武力によるユダヤ人の虐殺は、第二次世界大戦の開始とともにドイツの占領地域で行われていました。ユダヤ人やソ連の共産党エリートなど、ナチス・ドイツがとくに敵視する対象を殺害する専門部隊(総勢3000名)がポーランド・バルト3国・ソ連の占領地域で活動しています。

「行動部隊」と呼ばれたこの部隊は、ナチ党の軍事組織であるSS(親衛隊)によって組織され、1941年末までに少なくとも50万人のユダヤ人を殺害しました。そして、国防軍をはじめとする行動部隊以外の部隊も、ユダヤ人を大量に射殺しています。 また、占領地域において現地の政府や市民が、ユダヤ人の虐殺に積極的に関与した例も、各地でみられました(柴前掲書)。

しかし、1941年末頃からは、いわば「殺人工場」でのさらに恐るべきペースでの虐殺がはじまりました。つまり、強制労働ではなく「殺すこと」を主目的とした施設である「絶滅収容所」をつくり、その「ガス室」などでぼう大な人数を「効率的に」殺害することが行われるようになったのです(以下、絶滅収容所については柴前掲書による)。

なお、ナチス・ドイツでは、「強制収容所」が支配地域の各所につくられました。そこでは「危険分子」とみなされた者、捕虜、連行された占領地域の住民などが、おもに軍需生産の労働に従事しました。そのような施設と絶滅収容所は異なるものです。ユダヤ人が強制収容所に送られることはあったのですが、施設における多数派ではありませんでした。  
 
最初の絶滅収容所は、1941年12月にポーランドのヘウムノで稼働を開始しました。これを含め42年秋までに、アウシュビッツ収容所など、計6か所の絶滅収容所がポーランドに建設されています。そして、それらの絶滅収容所に大量のユダヤ人の老若男女(子ども含む)が、ドイツ支配下の町や村、ゲットーなどから送りこまれ、命をうばわれたのです。

第二次世界大戦で殺害された600万人のユダヤ人のうち、300万人が絶滅収容所で亡くなっています。最も多くの人が亡くなったアウシュビッツ収容所での死者は110万人にも及びました(数万人の非ユダヤ人含む)。

なお、絶滅収容所での犠牲者の圧倒的多数はユダヤ人ですが、シンティ・ロマ人(ジプシー、後述)、ソ連軍捕虜、ポーランド人などの非ユダヤ人も犠牲者の1割前後を占めているとみられます。


むずび・「大量虐殺」は第二次世界大戦の核心


1942年1月、ベルリン郊外のヴァンゼーで開かれたナチ党や行政機関の幹部などが集まった会議では「全ヨーロッパのユダヤ人絶滅」が「ユダヤ人問題の最終解決」のための方針として確認されています。ただし、この「ヴァンゼー会議」は「ユダヤ人絶滅」の基本方針を決めた場というよりも、「既定の方針を実務的に確認したもの」といえるでしょう(ベンツ前掲書)。

ユダヤ人を大量虐殺することは、ぼう大なリソースや労力を要することであり、合理的に考えれば、戦争の遂行にとってマイナスでしかありません。それでもヒトラーやその意向を受けたナチス・ドイツの高官の一部は、「ユダヤ人絶滅」の方針にこだわりました。

「ユダヤ人絶滅」は、ナチズムの「理想」においてはぜひとも実現したい、重要事項だったのです。ヒトラーは自分の敗北を意識したとき、「どうしてもこれだけは」と考え、ユダヤ人の虐殺を加速させていったのかもしれない――そのような可能性も指摘されています(シェイドリン前掲書)。

絶滅収容所は、大戦の終盤に近い時期まで稼働し続けました。独ソ戦の後半以降、ソ連軍がドイツ軍を西へと押しかえすのに伴い、1944年の秋までには絶滅収容所はほぼ終焉をむかえます。しかし、最後に残ったヘウムノ収容所は(43年春から1年ほどの中断があったものの)1945年1月まで活動を続けています。ナチス・ドイツは、敗北が確定的になってもなお「ユダヤ人絶滅」に執念を燃やし続けていたのです(柴前掲書)。

また、ナチス・ドイツはシンティ・ロマ人(ジプシー)も「劣等」とみなし、絶滅収容所などで数十万人を殺害しています(犠牲者数は20万人から50万人まで諸説ある)。 シンティ・ロマ人は「ヨーロッパにおける、国家を持たないもうひとつの代表的なマイノリティ」です(柴前掲書、ベンツ前掲書)。

そして、ポーランド侵攻や独ソ戦は、スラブ人という「劣等人種」を皆殺しにすることを意図した「絶滅戦争」でした。また、ヒトラーにとって独ソ戦には「共産主義というユダヤ人の陰謀との戦い」という面もありました。だからこそ、ナチス・ドイツによるポーランドやソ連に対する殺戮・破壊は、フランスやその他の西欧諸国に対してよりも苛烈を極めたのです(おもに第3回参照)。

つまり「“劣等人種”を駆逐し、“理想”の世界をつくる」ことをめざしたナチズムの世界観・イデオロギーと、それがもたらしたユダヤ人の大量虐殺は、第二次世界大戦において決して「副次的」なものではなかったということです。それは戦争の「本体」と深く結びついていたのです(柴前掲書など)。

参考文献

引用・典拠文献

そのほか、参照したおもな文献


いいなと思ったら応援しよう!