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入門・ヨーロッパの第二次世界大戦(1)ヒトラー登場

第1回(全7回)
ヒトラーによる独裁と軍事行動の開始


0.はじめに


「近現代史の最大の山場」について知ろう


第二次世界大戦(1939~1945)は、ドイツ・日本・イタリアなどの「枢軸国」と、アメリカ・イギリス・ソ連・中国などの「連合国」とのあいだの戦争です。一般には、1939年9月のドイツによるポーランド侵攻で始まり、1945年5月のドイツの降伏と同年8月の日本の降伏で終わったとされます。

第二次世界大戦は、近現代史の最大の山場です。戦争と平和、現代の国際情勢について考えるうえでは、この戦争についてぜひ知っておくべきでしょう。

また、第二次世界大戦についての知識を前提とした論説、文芸作品、映画やドラマは無数にあります。世界中のさまざまな街や地方の歴史にも、この大戦は大きな影を落としています。

これから第二次世界大戦について、初心者が比較的短時間で読み通すことのできる分量で、概要をおおまかに述べていきます。さまざまな工夫で教科書やウィキペディアよりも読みやすくまとめたつもりです。


全体像を「中編」の分量(数万文字)で


この記事(全7回)では、第二次世界大戦のなかのヨーロッパでの戦争、つまり「ドイツ・イタリアなどと、イギリス・アメリカ・ソ連などによる戦争」について述べています。

第二次世界大戦のもうひとつの戦いとしては「日本とアメリカ・中国などによるアジア・太平洋での戦争(日中戦争および太平洋戦争)」がありますが、これは別の機会に述べます。

全7回の記事は、合計で6~7万文字の分量ですが、そのくらいの紙数で第二次世界大戦について「初心者向けに」「概要・全体像を」述べた文章はじつは少ないです。

まず、第二次世界大戦についての記述は、特定の戦場についてなど、個別的なテーマを扱ったものが多いです。巨大で複雑な出来事である以上、それは当然です。

一方で、この大戦の全体像を述べたものもありますが、その場合は、「書籍1冊分(少なくとも10万文字)以上の長編」か「教科書的なごく簡略なもの」のいずれかに分かれる傾向があるようです。

しかし、「“長編”でも“ごく簡略”でもない“中編”の分量で伝える記述」が多くの人には必要だと、私は思います。長大で詳細なものは初心者には読みにくいし、簡略過ぎてもこの戦争の巨大さや深刻さのイメージはつかみにくいのです。


比重が大きい「ヨーロッパの戦争」


第二次世界大戦における「ヨーロッパでの戦争」と「アジア・太平洋での戦争」は、別個に始まったものです。しかし、1941年12月に日本とアメリカの戦争が始まって以降、この2つの戦争のあいだの関連は急速に強くなっていきます。

それでも、第二次世界大戦の概要を知るうえでは、「2つの戦争」をとりあえずは別々に扱ったほうが理解しやすいです。そうでないと、話がヨーロッパとアジアを行ったり来たりすることになり、展開を追いにくいです。

また、本書ではヨーロッパでの戦争により多くの紙数を割いていますが、それは「戦闘の規模や犠牲者の数などからみて、第二次世界大戦の主戦場がヨーロッパの戦争、とくにドイツとソ連の戦争(独ソ戦)だったから」です。

もちろん、アジア・太平洋での戦争もきわめて大きな被害・破壊をもたらしました。しかし、規模としてはそれ以上の戦争が、第二次世界大戦のヨーロッパ(とくに東欧・ソ連)では行われていたのです。

私たち日本人の第二次世界大戦についての知識は、日本が行ったアジア・太平洋での戦争(とくにアメリカとの戦争)に関するものが中心です。ヨーロッパでの戦争についての知識は限られる傾向があります。これは当然で、ある程度はやむを得ないでしょう。

しかし、第二次世界大戦という現代史の最重要事項を理解するうえで「ヨーロッパにおける第二次世界大戦」の知識が占める比重は大きいです。

以下、その知識を補強するうえで基本的なことを述べていきます(以下、地図は『一気に流れがわかる世界史』より)。

第二次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網:枢軸国の最大勢力圏(占領地・従属的な同盟国)



1.第一次世界大戦の敗戦国・ドイツ


第一次世界大戦という「前段」


第二次世界大戦(1939~1945)の前には、第一次世界大戦(1914~1918)がありました。この2つの大戦のあいだには、おおいに関連性・連続性があります。

第一次世界大戦は、ドイツを中心として、それにオーストリア・オスマン帝国(トルコ)などが加わった陣営と、イギリス・フランス・アメリカ・ロシアなどの陣営が戦ったものです。ドイツ側の陣営を「同盟国」、イギリス・フランス側を「連合国(または協商国)」といいます。この記事では、第一次世界大戦の原因や経緯にはここでは立ち入らず、話をすすめます。

第一次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網かけ:ドイツなどの「同盟国」側
太線:同盟国が最も進出した前線

なお、日本は、第一次世界大戦には全面的には参加しませんでした。しかし、連合国側として一定のかたちで参戦し、中国の青島(チンタオ、ドイツが権益を持っていた)などを占領しています。

また、大戦中に起きたロシア革命(1917年)の結果、社会主義のソヴィエト政権が成立しましたが、この政権を危険視して攻撃する欧米列強とともに、日本軍は1918年にシベリアやウラジオストクへの出兵も行いました(1922年以降1925年までに撤退)。この「シベリア出兵」は、大陸での勢力拡大を意図したものでした。

第一次世界大戦は、連合国(イギリス・フランスなど)の勝利で終わりました。

この大戦には、当初アメリカは参戦していませんでしたが、終戦の前年の1917年に連合国側で参戦し、それが戦争の流れを決定づけました。大戦で敗れたドイツ・オーストリア・オスマン帝国は、それまでの国の体制が崩壊してしまいました。

なお、第一次世界大戦のおもな戦場はヨーロッパだったので、「世界大戦」ではなく「欧州(ヨーロッパ)大戦」のほうが名称としてふさわしいかもしれません。

しかし、この大戦はまさに「世界を巻き込む」ものだったともいえます。当時(1900年代初頭)のヨーロッパ列強は世界の経済・軍事で圧倒的なシェアを占め、また世界各地に植民地を有していたからです。

そして、以下みていくように、この「欧州大戦」には第二次世界大戦(真正の世界大戦)の「序章」や「前段」といえる面がありました。そこで、「第一次世界大戦」という名称も不適切とはいえないはずです。


敗戦国ドイツ・ヴァイマル共和国の成立


第一次世界大戦に敗れた「同盟国」のうち、第二次世界大戦の「中心」といえるドイツと、その隣国のオーストリアについて簡単に述べておきます。

ドイツは、1871年以来、皇帝を国のトップとする「ドイツ帝国」という体制でしたが、大戦末期の1918年11月にそれが崩壊する革命が起きました。ドイツ皇帝は、オランダに亡命してしまいます。

その後、新政権のドイツはすぐに連合国と休戦協定を結び、1918年11月11日、第一次世界大戦は終わりました。

革命の結果、ドイツは共和国となりました。共和国とは、国のトップが国王や皇帝のような世襲の君主ではない体制のことです。この革命では共産主義的な方向をめざす動きもありましたが、社会民主党(比較的穏健な左派)や、軍人・官僚などの保守的な勢力がそれを阻止しました。

そして、1919年8月には、民主的・先進的な内容を持つ「ヴァイマル(ワイマール)憲法」が公布され、議会制民主主義の体制が成立しました。ヴァイマルは、憲法制定にかんする国会が開かれた都市の名です。大戦後に成立した共和国のドイツは、「ヴァイマル共和国」といわれます。

なおオーストリアは、第一次世界大戦までは多くの民族をハプスブルグ家という王家が支配する「帝国」でした。帝国とは、「多数の民族を支配する国」のことです。敗戦の結果、ハプスブルグ家の帝国は解体されて、オーストリアは限られた範囲を領域とする小粒な共和国になりました。


第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制


1919年6月には、連合国とドイツのあいだの講和条約(戦争を確定的に終わらせる条約)であるヴェルサイユ条約が、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿で結ばれました。

この条約によって、①ドイツは領土の一部を失い(ポーランドに割譲した地域、フランスの管理下に置かれた地域などがある)、②海外の植民地のすべても失いました。③また、軍備を大幅に制限されることになりました(「陸軍の兵員の上限は小国並みの10万人」「空軍・戦車部隊の保有は禁止」などの制限)。

④そして、戦争の被害・損害への償いとして、巨額の賠償金を連合国へ支払うことになりました(最終的な金額はのちに決定)。

ヴェルサイユ条約は、戦争に勝った連合国(イギリス・フランスなど)が、負けたドイツを罰し二度と戦争ができないように弱体化しようとするものでした。とくにドイツと国境を接するフランスにとって、ドイツの弱体化は強い希望でした。

フランスは、第一次世界大戦ではドイツと激しく戦いましたが、それ以前からフランスとドイツは緊張関係にありました。1870~1871年にはフランスと、ドイツ(当時いくつもの国に分かれていた)の中心勢力であるプロイセンが戦った「普仏戦争」があり、フランスは敗れています。

ヴェルサイユ条約で、ドイツ人はプライドを大きく傷つけられました。また、ドイツに対し厳しい要求を迫るフランスや、条約によってドイツから領土を得たポーランドに対するドイツ人の敵意も高まりました。

そして、第二次世界大戦でドイツは、これらの国への復讐を行ったといえます。あとで述べるように、1930年代後半にヒトラーのナチス政権はこの条約を反故にしてしまいました。

なお、ヴェルサイユ条約のなかには、国際連盟(今の国際連合の先駆となった機関)の規約も、第1編として含まれています。第一次世界大戦後のヨーロッパの国際秩序は、この条約を重要な柱としていたので、「ヴェルサイユ体制」ともいわれます。


ヴェルサイユ体制の弱点


そして、このような大戦後の国際秩序に、アメリカは積極的には関与しませんでした。

当時のアメリカの世論ではヨーロッパの問題とは距離を置こうとする主張(孤立主義という)が根強く、結局アメリカは国際連盟に参加していません。「孤立主義」は、第二次世界大戦以前には建国以来強固であり続けた、アメリカの政治的伝統でした。

また、革命の結果ロシアが中心となって成立したソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦、1922~1991)も、欧米を中心とする国際社会では部外者的な扱いを受けました。

アメリカとソ連という2つの重要な大国が傍観者的な立場だったことは、ヴェルサイユ体制の最大の弱点でした。そして、ドイツへの対応はおもにフランスとイギリスで行うことになりましたが、両国(英仏)の足並みは必ずしもそろわなかったのです。

ヴェルサイユ体制のこうした弱点は、のちにナチス・ドイツの暴挙を許すことにつながりました。


「ドイツは負けていなかった」という主張


第一次世界大戦に敗れたあとの数年間、ドイツではダメージを受けた社会・経済が混乱に陥り、国民はおおいに苦しみました。政府転覆をはかる反乱やテロも起き、1923年には空前のハイパーインフレが発生しています。

戦史研究者のH・P・ウィルモットは、第一次大戦後のドイツ人の心理についてこう述べています(ここまで述べたヴェルサイユ条約に関する連合国側の意図・思惑、ドイツ国民の受けとめなどは、おもに下記のウィルモットの著書による)。

《ドイツは戦間期を通じてヴェルサイユ条約に対する反感を顕わにし続けていたが、反感の源になったのは同条約の条項そのものではなく、敗戦が突きつけた現実〔だった〕》

(『大いなる聖戦 第二次世界大戦全史 上』等松春夫監訳、国書刊行会、2018年)

敗戦後の現実、つまり大きな苦しみのなかで、ドイツ人のあいだでは第一次世界大戦での敗北について、独特の見方が力を持つようになりました。

それは、「裏切り者が革命を起こし、体制を攻撃したせいで負けた」というものです。

これについて、たとえば歴史学者のマイケル・ハワードは、第一次世界大戦についての概説書でこう述べています。

多くのドイツ人が、自分たちはそもそも負けていなかったのだと思った。彼らは、……「帝国の敵」である社会主義者とユダヤ人によって「背後から刺された」がゆえに、自分たちに与えられるはずだった勝利を奪われた、と主張した》

『第一次世界大戦』馬場優訳、法政大学出版局、2014年

実際には、ドイツ軍は大戦末期には非常に追い込まれていて、敗戦は必然でした。当時の軍の指導者の1人・ルーデンドルフ参謀本部次長も、革命以前の大戦末期(1918年9月)にドイツ皇帝に対し「戦争に勝利する見込みはもはやない」と報告しています(ハワード前掲書)。

しかし、ルーデンドルフは、終戦後には「背後から刺されて負けた」と主張する1人になりました。

「本来なら負けていない」という主張は「愛国」を掲げる右翼勢力をはじめ、幅広い人びとに浸透しました。ヒトラーもこの考えに固執し、演説などで主張しています。そして、「国内の裏切りで負けた」という見方は、「独裁体制で国が一丸となれば、戦争に負けない」という考えにつながるものでした(ゲアハート・L・ワインバーグ『シリーズ戦争学入門 第二次世界大戦』矢吹啓訳、創元社、2020年)。

こうしたことから、ドイツにとって第二次世界大戦は「第一次世界大戦のリベンジ・マッチ」といえる面があります。


2.大恐慌からヒトラーによる独裁まで


大恐慌による混乱


その後、1920年代後半には、ドイツはかなりの安定を取り戻しました。首都ベルリンを中心に、おもにビジュアル・演劇・建築などの分野で「ヴァイマル文化」といわれるモダンな新しい文化も花ひらきました。

しかし、1929年10月の株価暴落から始まったアメリカ発の世界恐慌(大恐慌)の影響がヨーロッパに波及すると、ドイツはまた混乱に陥りました。

この恐慌(経済の激しい落ち込み)は、2008年に起こった「リーマン・ショック」以降の不況と似ています。しかし、経済にあたえた影響は「大恐慌」のほうがはるかに深刻でした。

大恐慌の際、その最悪期の1931年には、アメリカの失業率は25%ほどになり、ドイツではそれをやや上回る水準に達していました。なお、リーマン・ショック以降の不況では、アメリカの失業率は最悪期でも10%程度です。

大恐慌の影響は、世界におよびました。1932~1933年には世界貿易の総額は、1929年(≒恐慌前)の3~4割にまで縮小してしまいました(坂本正弘・鹿島平和研究所編『図説 20世紀の世界』日本経済新聞社、1992年など)。


ナチ党の台頭


その混乱の時代に、人びとの支持を集めて政界で台頭し、1933年1月に首相に就任したのが、ナチ党を率いるアドルフ・ヒトラー(1889~1945)です(以下、ヒトラーの権力掌握の過程は、石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年などによる)。

「ナチ党」は通称で、正式名称は「国家(国民)社会主義ドイツ労働者党」です(なお「ナチス」は「ナチ党勢力」を意味する)。この政党は国粋主義(“ドイツ至上主義”といえる)の右翼政党であり、共産主義と敵対し、議会政治の混迷や資本家の腐敗を批判しました。

なお、「国家(国民)社会主義」というのは、資本家の存在じたいは(国家に従うかぎりは)否定しないなど、ソ連などの社会主義・共産主義(資本家の存在を否定)とは異質なものです。

ヒトラーは、オーストリアの官吏の家に生まれましたが、少年時代に父母を亡くしてからは貧しい放浪生活を送ったこともあるなど、社会の底辺で青年時代を過ごしました。

20代半ばのときに第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍に志願して従軍し、終戦後も軍に残って、反体制の政治運動などについての情報収集の仕事を行いました。

その仕事の関係で、ヒトラーは1919年にまだ弱小政党だったナチ党(当時はまだ別の名称)を知り入党。熱心に活動して党のリーダーとなり、のちに政治家として頭角をあらわしたのです。また、オーストリア国籍でしたがドイツ国籍を取得してもいます。

ところで、そもそもなぜナチ党のような右翼の国粋主義者は、共産主義を敵視するのでしょうか? 

共産主義では、その国における「民族」としての結びつきよりも国を超えた「労働者階級」の連帯を重視する傾向があります。そして、第一次世界大戦後、最初の社会主義国家・ソ連は、世界中の共産主義者にとっての「総本山」になっていきました。これは、ソ連が他国に影響力を及ぼす動きといえます。こうしたことは、自分たちの民族としての結束や優越意識を根本に置く「国粋」の立場からは、とくに許せないことなのです。

ヒトラーによる独裁の成立までのプロセスは、第二次世界大戦の前提として重要です。ヒトラー率いるナチ党政権下のドイツ=ナチス・ドイツは第二次世界大戦の中心でした。


ヒトラーが首相に


ナチ党は、1932年7月の選挙で、国会において第1党(最も多くの議席をもつ党)となっていました。しかしその時点では、国会で過半数は得ていません。そして、1932年11月の選挙ではナチ党は議席数を減らして失速していました(第1党だが全議席の3分の1弱)。

それでも、ヒトラーは、当時の国家元首(選挙で選ばれた大統領)ヒンデンブルク(1847~1934)や政治的なライバルとの駆け引きの結果、ヒンデンブルクの任命によって1933年1月に首相の座についたのです。

なお、ヴァイマル共和国では、実務的な権限はおもに首相にありましたが、元首である大統領にも大きな権威や権限がありました。

このような、微妙な力のバランスのもとでヒトラーの政権はスタートしました。「ヒトラーは選挙で勝って政権を得た」といわれることがありますが、それはまちがいではないとしても正確ではありません。

ヒンデンブルクは、第一次世界大戦では軍のトップである参謀総長をつとめました。大戦のなかで軍功をあげたこともあるので「英雄」として国民的人気があり、選挙で大統領に選ばれています。

それにしても、最終的には敗けた戦争の指導者が戦後に支持を得て大統領になるのです。これは、ドイツ国民の多くが「本来は負けていない」と思っていることのあらわれといえます。

しかし、民主的に選ばれた大統領でありながら、ヒンデンブルクは議会政治に不信感を持つ、旧時代的な政治家でした。彼はヒトラーという、自分と同じく議会政治に否定的な右翼の政治家を「利用できる」と考えて首相に任命しました。ヒトラーをなめていたといえます。

ヒトラーは、ドイツの偉大さを訴え、領土の回復・拡大によってヨーロッパに君臨する「大ドイツ」を築くことを大きな目標に掲げました。そして、「政治の大変革を行い、強力な国家体制のもとで国民を救済すること」を主張したのです。

こうした「愛国」「救済」の主張は、ヴェルサイユ体制のもとでプライドを傷つけられ、さらに社会・経済の混乱で苦しんでいた当時のドイツ人に訴えるものがありました。

また、ヒトラーは反共産主義も強く主張しましたが、これも過激な革命に不安を抱くおおぜいの人びとに受け入れられました。ナチ党が第1党となった当時、共産党も議席数を伸ばしていました。

さらに、ナチ党の主張では「反ユダヤ」ということも重要でしたが、これについては、この記事(全7回)の最後に述べます。


ヒトラーによる独裁の成立


その後、同年(1933年)2月には、ベルリンの国会議事堂が何者かの放火で炎上する事件が起きました。ヒトラー政府は、共産主義者の男を犯人として逮捕。そして、「共産党による国家転覆の陰謀がある」として、それを取り締まる名目で、ヒンデンブルク大統領を動かし「大統領緊急令」を出させました。

そして、この緊急令を、ヒトラー政権は対抗勢力を弾圧する根拠として活用しました。ヴァイマル憲法には、このように法の運用しだいでは独裁が生じる余地があったのです。

さらに、ヒトラーは、1933年3月に「全権委任法(または授権法)」という法律を国会で成立させました。

これは、国会の持つ立法権を政府(ヒトラー政権)に委ね、しかも、「ヴァイマル憲法に反した法律の制定も可能」というものです。このような「憲法を無効にできる法律」を、ヴァイマル憲法下では国会で3分の2の賛成があれば成立させることができました。

当時のドイツの政界には、現行の議会政治に懐疑的で「もっと強い政府が必要」と考える政治家が、ナチ党以外にもいました。ヒトラーはそうした政治家を、脅しもまじえながら抱き込み、共産党や社会民主党などの反対派に対しては弾圧・拘束を行うなどして、この全権委任法を成立させたのです。

その後、ヒトラー政府は、ナチ党以外のすべての政党を、禁止したり解散させたりしてつぶしていきました。ナチ党以外で全権委任法に賛成した政治家は、まさに「自殺行為」をしたといえるでしょう。

翌1934年に、高齢のヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは大統領(国家元首)と首相を兼ねるようになり、「総統」(ドイツ語ではフューラー)と称しました。国防軍の将兵も、総統に忠誠を誓いました。

ヒトラーの独裁体制のもとでは、政治的な自由のほか、不当に身柄拘束を受けない権利、言論の自由、集会・結社の自由などは、ほぼ失われてしまいました。そしてそうなるまでに、ドイツ国民の多くは抗議の声をあげませんでした。なぜなのでしょうか? 

ドイツ近現代史の研究者・石田勇治氏は、つぎのようにまとめています。

《〔当時のドイツ〕国民の大半がヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、「非常時に多少の自由が制限されるのはやむを得ない」とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたから〔である〕》

『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書


ヒトラーは「押しつけられた暴君」ではない


以上の権力掌握の一方で、ヒトラーは積極的な経済政策を行って失業を一掃するなど、社会の混乱をおさめることにも成功しました。

ヒトラーが首相に就任した1933年に、ドイツには480万人の失業者がいましたが、それが1937年には91万人にまで減少しました(石田前掲書)。ドイツ経済の立ち直りは、アメリカやイギリスよりも早かったといえます。

たとえば、ドイツの高速道路・アウトバーンの建設は、失業・景気対策の公共事業として、ヒトラーがすすめたものです。この事業は、「政府が経済・社会の再建に尽力している」ことなどをアピールするプロパガンダ(政治的宣伝)としても重要でした。

なお、アウトバーンの構想は、ヒトラーのオリジナルではなく、以前の政権の時代からすでに一部で実現していたものです。ヒトラーは、それを大々的に推進したということです。

そして、再軍備(第一次世界大戦後に解体させられたドイツの軍事力の再建、後で述べる)による軍需産業の拡大は、アウトバーンのような建設事業以上に経済にとって大きな刺激となりました。軍事支出も、ある種の公共支出であり、失業・景気対策として効果があります。

再軍備のための支出は、ほかの公共事業にくらべてはるかに大きなものでした。

ひとつのデータをあげると、ドイツにおける1933~35年の雇用創出のための支出の合計が、現在(2020年代初頭)の日本円で3兆4000億円だったのに対し、1934~38年の軍事支出、つまりヒトラー政権が本格的に再軍備を進めるようになってから第二次世界大戦の開始前年までの軍事支出は、40兆3000億円に達しました(アウトバーンの事業の評価や軍事支出の経済への影響については、小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』岩波ブックレット、2023年による)。

このように、ナチス・ドイツにおける失業の一掃は、アウトバーンのような典型的な公共事業よりも、再軍備の影響が大きかったわけです。しかし、手段はどうあれ、ヒトラー政権下で失業が大きく減ったことは事実です。

そのような実績と、批判者をテロで排除することや、ラジオや映画などの当時の新しいメディアをフルに用いた巧みなプロパガンダによって、彼は独裁権力を固めました。

ヒトラー研究者のイアン・カーショーは、「ヒトラーの独裁権力の基礎は、その人気だった」として、つぎのように述べています。

《ヒトラーは押しつけられた暴君ではなかった。さまざまな観点からみて、ヒトラーは戦争の途中まで、きわめて人気の高い国民的指導者であった。そしてこの人気こそ、ヒトラーの個人化された権力が拡大し続ける大前提とな
った》

『ヒトラー 権力の本質』石田勇治訳、白水社、1999年


3.ナチス・ドイツによる軍事行動の開始


ドイツの再軍備とラインラント進駐


1935年3月にヒトラーは、ドイツにおける徴兵制の復活を宣言しました。これは「再軍備宣言」と言われ、ヴェルサイユ体制の重要な柱を公然と破壊するものでした。同年(1935年)のうちに数十万の兵士が新たに集められ、条約で禁止されていた戦車部隊も出現しています。

ただし、ドイツではヒトラー以前から、再軍備への取り組みはある程度すすめられていました。1922年に国交を結んだソ連の協力を得て、ソ連の領内で、飛行機・戦車といった、ドイツには禁止されていた兵器を秘密で製造するなどしていたのです。この見返りに、ソ連はドイツから技術提供を受けました(山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』朝日新書、2022年など)。

これは、ドイツもソ連もヴェルサイユ体制では外れものだったので、協力しあったということです。その後、ナチス政権の頃からは、こうした兵器製造はドイツ国内で行われるようになっていました。

そして、ヒトラーは1936年3月、ヴェルサイユ条約などで(一応ドイツ領ではあるものの)ドイツ軍の駐留が禁止されていたラインラントに、軍隊を進めて拠点を築きました(ラインラント進駐)。

ラインラントは、ドイツ西部の、フランスやベルギーなどに接する地域です。こうした重大な違反に対し、イギリスとフランスはとくに対抗措置をとりませんでした。それがドイツとの戦争につながることを恐れたからです。このようなドイツへの「宥和(ゆうわ)政策」については、またあとで述べます。

ドイツ国民の多くは、ヒトラーのこうした行動を「国威や主権の回復」として支持しました。


スペイン内戦――ドイツとイタリアの介入


そして、1936年7月にはスペイン内戦が始まりました。共産主義者などの左翼が中心の「人民戦線」といわれる勢力と、フランシスコ・フランコ将軍などが率いる保守派・右翼+軍部の勢力が戦ったものです。

この内戦に、イタリアとナチス・ドイツがフランコ側を支援して介入しました。一方、左翼系の人民戦線のほうは、ソ連が支援しました。イギリスとフランスは「中立を保ち、干渉しない」という方針で、また傍観です。

なお、イタリアでは1922年にベニート・ムッソリーニ(1883~1945)が率いる「国家ファシスト党」による右翼の政権が成立しました(「ファシスト」はイタリア語で「集団」「結束」を意味する「ファッショ」を元にした名称)。

そして、1926年からは、立憲君主(権限が憲法で制約される君主)である国王のもと、この政権が独裁的な権力を握っていました。イタリアの「ファシスト」の思想や政治的手法には、ヒトラーも影響を受けています。

イタリアは、スペイン内戦が始まる前年の1935年にアフリカのエチオピアに侵攻し、それをめぐってイギリス・フランスと対立していました。そして、エチオピア侵攻やスペイン内戦を契機にイタリアとドイツは関係を深め、のちに日本も加え同盟を結ぶことになります(この同盟――日独伊三国軍事同盟については後述)。

スペイン内戦は、1939年3月にフランコの勝利で終わりました。フランコ側のほうが組織的なまとまりがあり、ソ連の支援よりもイタリアとドイツの支援のほうが積極的かつ効果的だったことも影響しています。内戦に勝利したフランコは、1975年に死ぬまで独裁者としてスペインを支配しました。

スペイン内戦に介入したドイツ、イタリア(とくにドイツ)にとってこの戦いは、兵器や戦術を実戦で試す機会でした。

たとえば、1937年4月に人民戦線側の都市ゲルニカが空爆されましたが、これはおもにドイツ空軍によるものです。そして、これはその後の世界大戦でさかんに行われた「無差別爆撃」の先駆けのひとつです(スペイン内戦については、山崎前掲書などによる)。


オーストリア併合とチェコスロバキア解体


その後、ヒトラーは、かねてからの目標である「大ドイツ」の実現に向け、侵略的な行為を開始しました。まず、オーストリアやチェコスロバキアといった、ドイツからみて東側で隣接し、ドイツ系の人びとも多く住む周辺国へ軍を進めて、それらの国を制圧していきます(以下、ドイツ周辺国の制圧の経緯は、ウィルモット前掲書、山崎前掲書、太平洋戦争研究会『図説 第二次世界大戦』河出書房新社、1998年による)。

(オーストリア)
1938年3月に、ドイツはオーストリアを併合しました。オーストリアはドイツ系住民が主流であり、ドイツという強国の一員になることを歓迎する人は多かったのですが、反対する人びともいました。ヒトラーは、オーストリアとの国境近くに軍を集結して圧力をかけ、オーストリア政府に合併をのませています。そのうえでドイツ軍は、オーストリアとの国境を超えていったのです。 これに対しても、イギリスとフランスは動きませんでした。

(チェコスロバキア)
チェコスロバキアに対しては、同年(1938年)9月にドイツ系住民が多く住むズデーテン地方(ドイツに接するチェコ西部~北部)をドイツに譲り渡すことを、ヒトラーは要求しました。

そして、同年(1938年)10月にこの「ズデーテン割譲」が受けいれられたのち、1939年3月にはチェコスロバキアの残った範囲を2つに分割したうえでドイツの支配下におきました(チェコスロバキア解体)。これには、もちろん反対・抵抗はありましたが、ドイツの力の前に屈したのです。

こうしてドイツは、オーストリアとチェコスロバキアを、本格的な戦争をすることなく手に入れたのでした。


イギリス・フランスの宥和政策とその変化


イギリスやフランスは、ここまでのヒトラーによる軍事行動や侵略的行為を、ほとんど傍観していました。「宥和(ゆうわ)政策」というものです。「ヒトラーが“もともとはドイツの一部”といえなくもない、ドイツ人が多く住む地域(オーストリアや、チェコスロバキアの一部など)を併合するくらいなら、一定の正統性はあるといえるし、自分たちへの影響も少ない」と考えたのです。

そして、「ドイツと対立してまた大戦争になるのは避けたい」いう気持ちが、指導者にも国民にもありました。「ある程度のところで、ヒトラーも満足しておとなしくなるだろう」と期待していたのです。

ドイツがチェコスロバキアにズデーテン地方を要求したときには、ドイツ・イギリス・フランス・イタリアの4か国が、チェコスロバキア抜きでドイツのミュンヘンに集まり会談を行いました(1938年9月、ミュンヘン会談)。

そこでは、ドイツの主張が全面的に認められています。ヒトラーが主張する「ドイツ民族の統合」を根拠として、イギリスやフランスはその要求を認めました。そうなると、チェコスロバキアにはどうしようもありませんでした。

しかし、ドイツがズデーテン地方だけでなくチェコスロバキア全体を支配することについては、「民族の統合」という大義名分は成り立ちません(チェコスロバキアの住民の主流はドイツ系ではない)。そこで、当時のイギリスやフランスの政治家や国民の多くも、「ナチス・ドイツが存在するかぎりヨーロッパに平和はない」と認識するようになりました。そして、ドイツとの戦争に向けた準備を始め、対決路線に変わっていったのです。

一方、周辺国への軍事行動によってパワーを示したナチス・ドイツの国際的影響力は高まりました。東欧のハンガリーやルーマニアのように、自国の利益をはかるためドイツに接近する国が出てきました。これらの国は隣国どうしで領土をめぐって対立していたので、どちらもドイツを味方につけようとしたのです。

また、ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)は、ドイツとの敵対を避けようと、もともとは近い関係だったイギリスやフランスとある程度距離を置く「中立」を宣言しました。

(第2回へ続く)
第2回は、1939年9月のドイツによるポーランド侵攻(第二次世界大戦の開始)から、翌1940年6月のフランスの対ドイツ降伏まで。


おもな参考文献


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