見出し画像

入門・ヨーロッパの第二次世界大戦(2)大戦勃発

第2回(全7回)
ドイツによるポーランド侵攻〜フランス降伏




1.第二次世界大戦の開始


ポーランド侵攻・第二次世界大戦勃発


オーストリアとチェコスロバキアを、戦わずして制圧したヒトラー。その次のターゲットは、ポーランドでした。

ヒトラーは、政治的な見解だけでなく、後で述べる人種的偏見からポーランドを強く敵視していました。そして、「ポーランドは第一次世界大戦でドイツ領を奪った敵」という認識(これは政治的見解)は、当時のドイツ人のあいだで一般的なものでした。

1938年秋以降、ヒトラーはポーランドに対し、旧ドイツ領を回復するための要求を出しました。しかし本音では、ヒトラーはその交渉をまとめるよりも、戦争によってポーランドを制圧することを望んでいたのです。

一方、当時のポーランドは対外的に強硬な軍部主導の政権で、ドイツが侵攻してきた場合には徹底抗戦するつもりでした。 結局、両国の交渉は決裂しました。

1939年9月1日に、ドイツはポーランドに兵員150万の大軍で侵攻しました。 宣戦布告はありません。

これを受けて1939年9月3日までには、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告しました。

ドイツがポーランド侵攻を開始した1939年9月1日の時点で、一般には「第二次世界大戦の開始・勃発」とされます。

なお、イタリアはこの時点では中立の立場をとりました。アメリカも中立を宣言しています。「ヨーロッパの問題には深入りすべきではない」という、国際連盟に加入しなかったときと同様の「孤立主義」が、この時点でも根強かったのです。

こうして、「宥和政策による安定」が当時の情勢では無理だったことが明らかになりました。

ポーランドは、ドイツが当時すでに制圧していたオーストリアやチェコスロバキアよりも大きな国です(イギリスやフランスに準ずる規模)。近代化に遅れはありましたが、相当な軍事力も持っていました。おもな住民の民族系統はスラブ系で、ドイツ人の主流とは明らかに異なります。

そのような国への侵攻は、これまでとは次元がちがいます。ドイツがポーランドを大軍で攻めるなら、自分たちの国もあぶない……

そこで、イギリスとフランスは事態の重大性をふまえ、ドイツへの宣戦布告を行ったのでした。第二次世界大戦前夜のイギリスとフランスの利己主義や甘い見通し、優柔不断は、やはり誤りがあったといえるでしょう。

第二次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)


両陣営がにらみあう「奇妙な戦争」


ただし、ドイツに宣戦布告はしたものの、イギリスやフランスが、ポーランドを本格的に軍事支援することはありませんでした。ドイツへの宣戦布告の直後から、イギリスはポーランド支援のための大規模な軍隊をフランスに派遣しましたが、結局動かずじまいでした。

しかし、ポーランドとフランスは、1920年代から軍事協力の密約を結び、イギリスも、ドイツの侵攻が始まる直前にはポーランドへの支援を約束していたのです。

それでも、ポーランドは見捨てられました。この時点のイギリスやフランスには、ドイツと本格的に戦うための強い意志や体制が足りていなかったのです。

その後、フランス軍と大陸に派遣されたイギリス軍がドイツを攻めることはありませんでした。ドイツも、ポーランドでの戦争が終わらないかぎりフランスに侵攻するつもりはありませんでした。

1939年9月以降、ドイツとフランスの国境では、イギリス・フランス軍とドイツ軍の両陣営がにらみあう状態となりました。

当時「奇妙な戦争」「いかさま戦争」などといわれたこの状態は、1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵攻するまで続きました。

しかし、一方、海ではドイツの潜水艦「Uボート」による商船への攻撃がくり返され、これに対しイギリスがUボートの拠点を空爆するなど、戦いが始まっていました。


独ソ不可侵条約とソ連によるポーランドへの侵攻


そして、ポーランド侵攻の少し前、1939年8月下旬にドイツは、ソヴィエト連邦(ソ連)と「独ソ不可侵条約」を結んでいました。これは共通の敵と戦うことを約した同盟関係ではなく、「お互いを攻撃しない」という協定です。

本来ナチス・ドイツとソ連は敵対関係にありました(ただし、ナチス以前には、前述のとおり両国には協力関係もあった)。ヒトラーの政治思想(ナチズム)では、ソ連の共産主義者は宿敵でした。

さらに、ナチズムの世界観では、ロシア人、ポーランド人などのスラブ系民族(スラブ人)は「劣等人種」として蔑視の対象とされました。

当然、ソ連の側からみてそのようなナチスは邪悪な敵でした。そこでドイツとソ連のあいだでは、お互いに「いずれ戦争になる」という認識もありました。

独ソ不可侵条約は、当時の常識では意外なことで、世界をおどろかせました。しかしドイツとしては、とりあえずソ連とは戦わないことにして、ほかの国ぐにとの戦争をすすめたかったのです。ソ連にとっても、いずれ攻めてくるはずのドイツに備えるための時間かせぎになります。

なお、イギリスとフランスがドイツの侵攻を受けたポーランドに積極的な支援をしなかったことには、独ソ不可侵条約も影響しています。

この条約の締結によって、ポーランドがドイツとその協定相手国ソ連にほぼ囲まれた状態となり、外国からドイツ軍を攻撃するためにポーランドに入るのが困難になったのです。イギリスとフランスは、もともとはソ連の協力でソ連領からポーランドに入って支援することを想定していました。

そして、不可侵条約とともにドイツとソ連のあいだでは「共同でポーランドを占領して分割する」という密約もなされました。世間に内容が公表される条約とは別に、非公表の約束をかわした、ということです。

1939年9月半ばには、ドイツに続いてソ連がポーランドに侵攻しました。9月末までには、ポーランド全体が西と東から攻めてきた侵略者によってほぼ制圧され、西側がドイツに、東側がソ連に支配されるようになりました(ポーランド侵攻については、H・P・ウィルモット『大いなる聖戦 上』等松春夫監訳、国書刊行会、2018年、山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』朝日新書、2022年による)。

なお、1700年代末には、ロシア・ドイツ・オーストリアの3国はポーランド王国を滅ぼして分割しています。その後100年以上、ポーランドという国は消滅状態でしたが、第一次世界大戦のなかでポーランドの復興をめざす勢力がドイツやソヴィエト政権のロシアと戦い抜き、共和国として独立を回復したのでした。

このような経緯から、ドイツとソ連にとってポーランド分割は、非道な話ですが慣れ親しんできたことといえます。


ソ連によるバルト三国併合とフィンランドへの侵攻


(バルト三国)
その後1939年のうちに、ソ連はバルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)に対し、ソ連に対し従属的な内容の条約を強制し、それぞれの国に軍を駐留しました。そして、翌年(1940年)8月にはバルト三国をソ連に併合したのです。 

これ以後、ソ連によるバルト三国の支配は、ドイツが侵攻した一時期(後述の独ソ戦の時代)を除き、ソ連崩壊(1991年)まで続きました。

(ソ・フィン戦争)
また、ソ連は1939年11月に、フィンランドに兵員60万の大軍で侵攻しました。その前にフィンランドは、ソ連からの領土交換の要求(ソ連が大幅に有利)を受け、これを拒否していました。

ソ連はフィンランドから激しい抵抗を受け、自分たちも相当な犠牲を出した末に、1940年3月に和平を結んでフィンランド領の一部を割譲させました。この戦争を「ソ・フィン戦争」といいます。

ソ・フィン戦争のとき、イギリスとフランスはフィンランド支援のための派兵を検討しましたが、動き出す前に戦争が終わりました。イギリスとフランスによる介入を警戒したソ連の指導者スターリンは、フィンランド軍の抵抗を大きく崩し、自分たちの一定の優位が明確になったところで早めに和平を結んだのです(バルト三国併合とソ・フィン戦争については、ウィルモット前掲書・上、山崎前掲書による)。

しかし、このときのフィンランドは、領土の一部を奪われたものの、ソ連の侵略に対しどうにか自力で独立を守ったということです。ソ連は、フィンランドを過小評価していたといえるでしょう。

そして、ヒトラーは、この様子をみて「ソ連は恐るるに足らず」という見方を強くしました。しかしそれは、あとで述べる「独ソ戦」で大きなまちがいだったことが明らかになります。

また、ソ連は1934年に国際連盟に加盟していたものの、1939年12月にこのフィンランドへの侵攻を理由に除名となりました。国際連盟は、この頃以降ほとんど有名無実になっていきます。なお、後で述べるように、1933年には日本とそれに続くドイツが、1935年にはイタリアが国際連盟を脱退しています。


2.平和の破壊者としてのソ連・英仏の過失責任


「平和の破壊者」だったソ連


当時のソ連はスターリン(1878~1953)の独裁下にありましたが、スターリン政権は、以上のような侵略をつぎつぎと行ったということです。

ポーランド東部・バルト三国・フィンランドは、ソヴィエト政権が成立する前のロシア帝国時代には、ロシアの領域でした。しかし、第一次世界大戦とロシア革命の結果、これらの地域は独立国となりました。

ところが、独ソ不可侵条約(およびその追加条約)における密約で、ドイツはポーランド東部のほか、バルト三国とフィンランドを「ソ連の勢力圏」として認めました。 そこで、密約の内容を実現しようと、ソ連は動いたのです。

そして、ソ連としては、いずれはあるはずのドイツの攻撃に備えて、西側に自国の勢力圏を広げておきたいということがありました。ポーランド・バルト三国・フィンランドは、ソ連の西側の隣国で、ドイツとの緩衝地帯になり得る位置にあります。

しかし、そういった戦略的な意味があるにしても、ソ連はナチス・ドイツにも劣らない侵略行為を行ったといえるでしょう。

つまり、第二次世界大戦におけるソ連のこのような行動に注目すると、当時のソ連が、ナチス・ドイツに準ずる「平和の破壊者」だったことがわかります。そもそも第二次世界大戦勃発の発火点となったポーランド侵攻は、さきほどみたようにナチスとソ連が談合して行ったことなのです。

しかし、あとで述べる「独ソ戦」で、ソ連はドイツの侵攻を受けて激しく戦った末に撃退し、連合軍の勝利に大きく貢献しました。その後ソ連は「自分たちはナチスと最も戦い、世界の平和を守った」と内外に宣伝するようになり、多くの人がその影響を受けました。

ソ連(1991年に崩壊)が存在した時代、少なくとも1970年頃までは社会主義・共産主義には勢いがあり、ソ連を信頼・評価する人びとが世界中に大勢いました。

また、ソ連の政府は、自分たちに都合の悪い事実や史料はとことん隠す体質でした。そこで、「平和の破壊者」としてのソ連のことは、長い間あいまいになっていたのです。

しかし、1991年のソ連崩壊の頃からは、ソ連の否定的な面を明確にする言論や研究が活発化し、隠されていたさまざまな事実も明らかになりました。現在では、第二次世界大戦におけるソ連の責任が、多くの識者のあいだで認識されています。


「宥和政策」以外にやり方はなかったか?


とはいえ、ナチス・ドイツが第二次世界大戦をひきおこした「主犯」であることはまちがいありません。しかし、ソ連という「共犯」もいたということです。

そして、「主犯」の行動を制止できる可能性があったのに動かなかったイギリスとフランスの指導者(ドイツに妥協的な「宥和政策」をとった人びと)は、第二次世界大戦の勃発に対し、過失責任を負うといえるでしょう。

ただし、歴史家のなかには、古典的なところではA・J・P・テイラーのように《宥和〔政策〕論者は……その時代の情況にあって全力を尽くした》と評価する人もいます。(『第二次世界大戦の起源』吉田輝夫訳、講談社学術文庫、2011年、原著1964年)

たしかに、同時代において「ヒトラーをどう扱うか」は、むずかしい問題でした。

今の私たちはヒトラーが世界大戦で何をしたかを知っています。しかし、大戦前には、当然ながらそれはまだ現実化していませんでした。

そもそも、ヒトラーは、ドイツという高度の文明国で、国民がおおいに支持するリーダーだったのです。そんな人物であれば、同時代において「そこまでひどい暴走はしないだろう」「問題の多い相手だが、交渉の余地はあるはずだ」という見方があっても、無理のないことです。

しかし、それでも、「あの宥和政策のほかにやり方はなかったのか?」という問いかけはあって当然です。宥和政策は良い結果を生まなかったのですから。

こうした「ほかのやり方」についての代表的な見解は、「(ナチス・ドイツによる軍事活動の初期段階である)ラインラント進駐あるいはミュンヘン会談の時点で、断固たる軍事的圧力でヒトラーをおさえ込むべきだった」というものです。そうしていれば大戦を回避できたはずだというのです。

このほか、「イギリスとフランスは、チェコスロバキアの解体やポーランド侵攻以前に、もっとソ連に積極的に近づいて対ドイツの同盟関係を築くべきだった」という意見もあります。そうすればドイツは動きにくかったはずだと。しかし、共産主義のソ連に対する不信感(とくにイギリスで強かった)や危機感の不足などから、ソ連との同盟のための努力は十分には行われませんでした(ウィルモット前掲書・上)。

また、大戦前夜のソ連にしても「見通しが甘かった」と言わざるを得ないでしょう。

ソ連がナチス・ドイツと一時的であれ不可侵条約を結んだことは、ナチスの野望や暴挙を後押ししました。その「暴挙」に便乗してソ連は領土拡大に走ったわけですが、あとでみるように、結局は大きな災い(壮絶な独ソ戦)が自分たちにふりかかってきたのです。

こうした「宥和政策以外のやり方」についてのいずれの説も、「そうだったかもしれない」とは思えます。しかし、「あのとき、もしも……」の話なので当否を確かめようがありません。そこで、議論は決着しないままです。


3.西欧での戦争・フランスの降伏


第二次世界大戦時のヨーロッパ
濃い網:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)


デンマークとノルウェーへの侵攻・西欧での戦争始まる


その後、ドイツは、1940年4月にデンマークとノルウェーに侵攻し、数日でデンマークを、そして同年(1940年)6月にはノルウェーを占領しました。この戦いでドイツのおもな目標はノルウェーであり、デンマークは巻き添えでした。

北欧のノルウェー・スウェ-デン・デンマークは、第一次世界大戦では中立国でした。第一次世界大戦の影響を北欧はそれほどは受けませんでした。そしてこれらの北欧諸国(フィンランド、アイスランド含む)は、第二次世界大戦でも中立を宣言していました。

しかし、その後ノルウェーの中立を脅かす展開がありました。

まず、1940年初頭から、イギリスとフランスがノルウェーやスウェーデンに侵攻して、両国を自分たちの占領下に置こうと画策しはじめました。ソ・フィン戦争のときには「ソ連と戦うフィンランドの支援に向かうため通過する」と称してノルウェーやスウェーデンに軍を進めることも検討されましたが、ソ・フィン戦争が終わって一応は立ち消えになっています。しかし、その考えは、完全に捨て去られたわけではなかったのです。

なぜ、ノルウェーやスウェーデンに侵攻するのか? ドイツはスウェーデン産の鉄鉱石を多く輸入していて、その鉄鉱石はノルウェーの港に鉄道で運ばれ、ドイツに向かう船に積まれていました。イギリスとフランスは、この北欧からの鉄鉱石のルートを絶とうとしたのです。

一方、ドイツは、大戦の当初はノルウェーに侵攻する予定はありませんでした。しかし、ドイツはイギリスとフランスの動きを察知し、それを封ずるために、同年(1940年)4月にノルウェーに侵攻したのです。

また、ノルウェーを攻撃する拠点にするため、ドイツは同時にデンマークにも侵攻しました。なお、スウェーデンは北欧のなかでは比較的強力な軍事力を持ち、地理的な条件もあって、どうにか独立・中立を維持しました。

ドイツ軍は、空軍と艦船でノルウェーの複数のおもな港町にやってきて、上陸作戦を行いました。ノルウェーは抗戦し、イギリスとフランスは派兵してノルウェーを支援しています(ノルウェー侵攻については山崎前掲書による)。

こうして、第二次世界大戦の開戦以来はじめてドイツとイギリス・フランスのあいだで地上戦が起こったのです。


ベルギー・オランダ経由でのフランスへの侵攻


そして、ノルウェーでの戦いの最中に、ドイツはいよいよ戦争の「本体」といえる、西欧での大規模な作戦を開始しました。ドイツ軍のなかで「黄(き)計画」と呼んだ、ベルギー・オランダ経由でフランスを攻撃する作戦です。

同年(1940年)5月10日、ドイツは北西で国境を接するオランダ・ベルギー・ルクセンブルクへの侵攻を開始して短期間で占領しました。オランダは数日で降伏し、ベルギーは5月末に降伏しています。人口30万人(当時)の小国ルクセンブルクには、抵抗する軍事力はありませんでした。

オランダは、第一次世界大戦では中立を保ちました。一方、ベルギーは、ドイツの攻撃を受け、第一次世界大戦を連合国側で戦っています。そして、第二次世界大戦では、オランダもベルギーも中立を宣言していたのです。しかし、ドイツがフランスを攻める場合には、これらの国は通過点として侵攻される恐れがおおいにありました(第一次世界大戦でもベルギーは侵攻を受けた)。

そこで、ベルギーもオランダも、相当な軍事力を有し、防備を固めようとしていました。しかし、結局侵攻を受け、ドイツの圧倒的な力の前に敗れたのです。

ドイツ軍は、オランダとベルギーをおさえ、複数の大きな集団でベルギーからフランス北部へ侵攻し、西へ進みました。守備の固いドイツとフランスの国境を回避する方針です(ベルギー・オランダ侵攻については山崎前掲書による)。

そして、フランス北部やベルギーに展開していたフランス・イギリス連合軍を、陸と空からの攻撃で急速に追い詰めていきました。ドイツ軍は同年(1940年)5月末にはフランス北部のドーバー海峡の近くまで進みました。


イギリス・フランス軍の敗退


このとき追い詰められ孤立したイギリス・フランス軍は、フランス北部のベルギーに近い港町・ダンケルクからやっとのことで脱出し、イギリス本土に撤退しています。それがひと段落した同年(1940年)6月4日までに、ダンケルクから34万人のイギリス軍とフランス軍の兵士が脱出しました。その救出には軍の艦船だけでなく、多くの民間の船舶も動員されています。

このような情勢のなかで、ノルウェーで戦っていたイギリス軍とフランス軍は撤退してしまいました。その後まもなく(1940年6月)、ノルウェーはドイツに制圧され、ドイツに従属する政権が統治するようになりました。

なお、ドイツによるフランス侵攻における兵員の数は、フランス・イギリス連合軍とベルギー・オランダの合計は、ドイツ軍とほぼ互角でした。どちらも130余りの「師団」から成る規模です。ここでは1個の師団は1万数千人なので、それぞれ総勢100数十万人。 そんな途方もない規模の戦いだったのです。

しかし、人数は互角でも、組織の統ー性や戦闘の効率はドイツが明らかにまさっていました。

たとえば、ベルギー政府は「中立」へのこだわりが強く、「ドイツ軍が侵攻する事前に、イギリス・フランス軍がベルギー領内に入って準備することは拒否する」姿勢でした。そして、イギリス・フランスとベルギー・オランダのあいだで作戦計画の事前調整はほとんどできていませんでした(ウィルモット前掲書・上)。

*「師団」とは
「師団」とは、陸軍を構成するさまざまなレベルの基本的な単位のうち、最大のものです。陸軍の機能全般(攻撃力だけでなく、工兵、衛生兵なども含む)を備え、独立行動が可能なのが特徴です。その国の軍備全体をみるときの基本的な単位といえます。師団を構成する兵員の数は、国や時代によってやや異なりますが、ここでは大雑把に「数千~1万数千」ということでいいでしょう。
師団以下の一般的な単位としては、旅団(小型の師団、数千人)、連隊(2~3千人)、大隊(400~500人)、中隊(100~200人)、小隊(30~40人)、分隊(10人程度)などがあります(各単位の人数は時代や国によって多少ちがう)。そして下位の単位が複数集まり、上位の単位がつくられるのです。
また、師団を複数まとめた「軍団」あるいは「軍」、さらにそれを複数まとめた「軍集団」といった、さらに上位の単位(名称は国・時代によって異なる)が構成されることも、戦いの規模に応じて行われます。


フランスの降伏


その後、フランス軍は体制を立て直すことができませんでした。ドイツ軍は、南へ進んで速やかにフランス全土を制圧していきました。同年(1940年)6月14日にはパリが陥落。フランスは、6月22日にドイツと休戦協定を結び、降伏しました。

そして、パリを含むフランスの北部・中部がドイツの支配下におかれるようになったのです。残りのフランス南部は、政府のおかれた都市にちなんだ「ヴィシー政府」といわれる、ドイツに従属する政権がおもに統治しました。

また、このときイタリアも、ドイツの勝利に便乗してフランスに侵攻しました。そして、イタリアに接するフランスの南東部を占領しています。

イタリアは、「第二次世界大戦が始まった」とされる1939年9月の時点では中立の立場をとりましたが、ドイツがフランスに勝利することがほぼ明らかになった1940年6月10日に、イギリス・フランスに宣戦布告したのです。


なぜフランスはすぐに敗れたか


それにしても、なぜフランスは、こんなにすぐに敗れてしまったのでしょうか? 

まず、このときのイギリス・フランス軍は、ドイツ軍よりも軍事技術や戦い方に劣るところがありました。

ナチス・ドイツの軍隊は、第一次世界大戦で登場した、戦車や戦闘機を重視したものでした。

これは、ヒトラーの主導でつくられた、新しいタイプの軍隊です。たとえばドイツには戦車が主体の大部隊があり、それが大きな威力を発揮しました。

イギリス・フランス軍もドイツに負けない数の戦車を持っていましたが、そのほとんどは、歩兵の支援のため分散して使用されていました。しかし、それよりもドイツ軍のやり方のほうが、戦車を十分に生かすことができたのです。

そして、とくに「マジノ線」というものは、フランスが古い発想から抜け出ていなかったことの象徴です。第一次世界大戦のあとでフランスは、ドイツとの国境に「マジノ線」という防衛ラインを設定しました。当時の陸軍大臣にちなんだ名称です。そしてそのラインに大規模な要塞を連続的に配置し、国防の要としたのです。

しかし、ドイツ軍の戦車部隊はそれらの要塞を避けて、ベルギー方面から守りの手薄なアルデンヌ地方(ベルギー南東部とフランスにまたがる地域)の森林を経由してフランスに攻め込みました。ドイツは、保有する戦車の7割をこのルートに投入しています。

フランスは、「険しい地形のアルデンヌ地方は、戦車は通ることができない」とみて油断していました。しかし、アルデンヌ地方の地形の険しさについては過大評価であり、高い機動性を有するドイツの戦車部隊は、そこを抜けることができました。フランスは思わぬかたちで戦車の大軍に攻撃されることになったのです(フランスとドイツの戦い方については、ウィルモット前掲書、太平洋戦争研究会『図説 第二次世界大戦』河出書房新社、1998年などによる)。

フランス以前にドイツが侵略したのは中小国ばかりで、ドイツにかなわないのは当然といえば当然でした。しかし、フランスの場合は、大国でありながら軍事的にぜい弱な点がありました。そこをドイツが上手く突いたために、短期間でドイツに敗けてしまったのです。

そして、フランスの敗北の原因としては、フランス人のあいだで「戦争で犠牲を払いたくない」という気持ちが強かったことも大きいです。戦史研究者のウィルモットは《フランスの敗北には、軍事上の要因に劣らず、政治・心理的要因が作用していた》と述べています。(『大いなる聖戦 上』)

フランスは第一次世界大戦でドイツと激しく戦って勝利しましたが、その犠牲はあまりに大きかったのです。「第一次世界大戦で、18歳から26歳までの男性の27%が戦死した」というデータもあります。「こんな戦いはもうくり返したくない」と、多くのフランス人は思っていました(ウィルモット前掲書)。


日独伊三国同盟


ここまで述べてきたドイツの一連の侵略行為に、主要国ではイタリアと日本が同調しました。イタリアも日本も、イギリス・フランス・アメリカが主導する当時の国際秩序に不満を持っていました。

日本は、1931年以降の中国・満州における侵略行為を国際連盟において非難され、それに抗議して連盟を1933年3月に脱退しています。

ドイツは、ヴェルサイユ体制における軍備の制限に抗議して同年(1933年)10月に国際連盟を脱退。

イタリアは、1935年10月に開始したエチオピア侵攻(後述)以降、国際連盟で批判や経済制裁を受けてドイツに接近するようになり、1937年12月には国際連盟を脱退しました。

そして、1940年9月に、日本・ドイツ・イタリアは「日独伊三国同盟」を結んでいます。ドイツがフランスを制圧して約3か月後の、ドイツにたいへんな勢いがあったときのことです。この条約は、ドイツ・イタリアと日本がヨーロッパとアジアでそれぞれが盟主となって新しい国際秩序をつくり出すことを承認しあったものです。

なお、この三国同盟の下地には、1937年年11月に結ばれた「日独伊三国防共協定」という「ソ連などの共産主義勢力に対抗すること」を掲げた連携があります。

また、この三国防共協定は、1936年に結ばれた「日独防共協定」にイタリアがあとから参加したものです。そして、三国防共協定は同盟の対象をソ連に限定していましたが、三国同盟はイギリスやフランスも対象にするものでした。

ただし、1938年8月にドイツが本来「敵」であったソ連と不可侵条約を結んだことで、三国防共協定は建前が大きく崩れてしまいます。しかし、大戦の拡大にともない、日本・ドイツ・イタリアは、日独伊三国同盟によって結束をあらためて確認したのです。

とはいえ、この同盟において日本とドイツの関係は、それほど緊密なものではありません。世界大戦において、日本とドイツは別個に戦いをすすめていきました。

(第3回へ続く)
第3回は、1940年後半~41年前半のバトル・オブ・ブリテン(イギリス本土上陸をめざすドイツとイギリスの戦い)から、1941年後半の独ソ戦(ドイツとソ連の戦争)の初期まで。

おもな参考文献


いいなと思ったら応援しよう!