入門・ヨーロッパの第二次世界大戦(3)独ソ戦の開始
第3回(全7回)
バトル・オブ・ブリテン~独ソ戦の初期
1.バトル・オブ・ブリテン
イギリス、ドイツに対し徹底抗戦
1940年の後半以降、西欧においてドイツと戦う国は、ドーバー海峡で隔てられたイギリスだけになりました。イギリスは、1940年5月に就任したチャーチル首相のもとでドイツに対し徹底抗戦を続けます。
フランスが降伏したあと、ヒトラーはイギリスがドイツとの講和に応じることを期待していました。ヒトラーは、イギリスに対してはほかの国に対してよりも緩やかな条件で講和するつもりでした。
ヒトラーにとってはイギリスを完全に打ち負かすよりも、まずイギリスに「ドイツによる(大陸の)ヨーロッパ支配」を認めさせるほうが重要だったのです。そして、ソ連との戦争もいずれ始めるつもりであり、それはイギリスとの戦いを終わらせたあとのほうが望ましいわけです。また、ドイツとイギリスの戦争が続く場合、イギリスと密接な関係にあるアメリカの本格的な介入を招く可能性もありました。これも、ヒトラーとしては避けたかったことです(千々和泰明『戦争はいかに終結したか』中公新書、2021年など)。
当時アメリカは、大戦において「中立」を宣言していました。前にも述べたように「ヨーロッパの戦争には関わりたくない」という世論が強かったのです。ただし、アメリカは(次回でも述べるとおり)、イギリス・フランスに対して武器を送るなどの支援には前向きでした。
なお、第二次世界大戦が始まった頃のアメリカは世界の工業生産の4割弱を占め、世界でダントツの工業国でしたが、軍備(とくに陸軍と空軍)はそれに見合うレベルではありません。 しかし、アメリカが本気を出せば巨大な軍事的パワーとなることは明らかでした。
そして、アメリカでは1940年7月に、艦隊を倍増させるための予算が議会で承認されました。同年(1940年)秋には陸軍を拡充するため、はじめての平時における徴兵も行われています。中立を維持するにしても、世界情勢をみれば軍事力強化が必要なことは明白でした(当時のアメリカについては、ウィルモット前掲書、ゲアハート・L・ワインバーグ『シリーズ戦争学入門 第二次世界大戦』矢吹啓訳、創元社、2020年)。
当時のイギリス国内に、「ドイツと和平して戦争を避けるべきだ」という主張もなかったわけではありません。「戦えばイギリスは負ける」という見方は、国内外でかなり有力でした。しかし、イギリス政府はドイツとの和平を拒否しました。
イギリス本土における航空決戦(バトル・オブ・ブリテン)
1940年7月10日、ドイツによるイギリス本土への空襲が始まりました。そのうえでヒトラーは、同年(1940年)7月19日にはドイツ国会で、イギリス国民に降伏を訴える演説を行っています。「無駄な抵抗はやめろ」ということです。しかし一方で、イギリスへの上陸作戦の準備もすすめていました。
ただし、海を渡ってイギリスに上陸することは、ドイツにとって容易ではありません。イギリスは海軍国で、空軍も発達していたので海からの敵に対する防御は固く、ドイツの海軍力では正攻法でこれを崩すことは困難でした。
そこで、ドイツによるイギリスへの攻撃は、おもに空襲によって行われました。イギリスの防衛のための戦力(とくに空軍)を破壊し、イギリスへの上陸作戦を可能にすることが、ドイツの目論見でした。
この時期の、空をおもな舞台とするドイツとイギリスの戦いは「バトル・オブ・ブリテン(英本土航空決戦)」と呼ばれています(バトル・オブ・ブリテンの経緯については、ウィルモット前掲書・上、前掲『図説 第二次世界大戦』などによる)。
イギリスの上空ではドイツの戦闘機・爆撃機とイギリスの戦闘機の激しい戦いがくり広げられ、双方が多くの航空機とパイロットを失いました。このときイギリスでは、世界初のレーダーによる防空システムも活用されています。
ドイツ、短期でのイギリス制圧を断念
ドイツ空軍は航空基地などへの攻撃のほか、同年(1940年)9月からは、ロンドンなどの都市への無差別爆撃をさかんに行いました。それに対する報復として、イギリス空軍によるベルリンへの爆撃も行われました。
これ以降、ロンドンがドイツによる空爆の最大の目標になっていきます。主な都市を攻撃して、イギリス国民の戦意を喪失させようとしたのです。
しかし、じつはこれは、作戦の当初の目標(イギリスの防衛力の破壊)からブレてしまったといえるでしょう。都市への爆撃は市民の犠牲を生みましたが、軍事力への直接的なダメージは比較的小さかったのです。
結局、イギリスの徹底抗戦の前にドイツは思うような成果をあげることはできませんでした。一方で、ドイツ空軍はイギリス空軍以上に大きなダメージを受けました。
1940年12月に、ドイツによるイギリス本土への空襲はひと段落し、1941年1月には、ドイツによるイギリスへの上陸作戦は正式に中止となりました。 イギリスを短期間で制圧することを断念したのです。しかし、どうにか生き残ったとはいえ、イギリスには自国だけでドイツに大きな脅威をあたえる力は残っていませんでした。
2.ドイツによる東欧とバルカン半島の制圧

濃い網:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)
ドイツによる東欧の支配
ドイツはイギリスと戦う一方、東欧諸国やバルカン半島(ヨーロッパ南東部)にも勢力を伸ばしていきました(以下、東欧やバルカン半島の情勢については、山崎雅弘『第二次世界大戦秘史』朝日新書、2022年、前掲『図説 第二次世界大戦』などによる)。
1940年後半には東欧のハンガリー・ルーマニア・ブルガリアが、独立は保ちながらもドイツに従属するようになりました。これらの3国は、第二次世界大戦のなかでドイツの陣営に組み込まれていったのです。
互いに隣接するハンガリー・ルーマニア・ブルガリアの3国のあいだでは歴史的に領土の争いがありました。
第一次世界大戦後は、連合国(イギリス・フランスなど)側で参戦したルーマニアが、敗北した同盟国(ドイツ・オーストリアなど)側だったハンガリーやブルガリアから領土の一部を得ていました。そして、第二次世界大戦が始まる頃から、こうした領土問題に火がついたのです。
まず、ハンガリーは、1938年11月以後のチェコスロバキア分割の動きなどをみて、優勢だったドイツに接近し始めました。「ドイツの支援を得て第一次世界大戦で失った領土を回復しよう」と考えたのです。
これと同時期に、ルーマニアもドイツに接近し、1939年3月には自国の重要な資源である石油の利権をドイツに譲渡しました。ハンガリーとドイツが結びつくのを警戒してのことでした。
そして、フランスがドイツに降伏した直後(1940年7月)に、ソ連がルーマニアに対し圧力をかけて領土の一部を割譲させるということがありました。割譲させたのは、第一次世界大戦前にはロシア領だった地域です。これは、「当時ドイツがフランスに集中していて、ルーマニアを支援できない状況だった」のを見はからってのことでした。
また、ソ連のこの動きに刺激されて、ハンガリーとブルガリアも、ルーマニアに対し領土の割譲(要求側にとっては領土の返還)を求めました。
この東欧の3国の対立は、戦争に発展する恐れもありました。しかし、戦争になるとイギリスやソ連がこの地域に介入する可能性があります。それを嫌がったヒトラーは、ルーマニアに圧力をかけて、ハンガリーとブルガリアの要求を一部受け入れさせました。
この譲歩によって、東欧の3国のあいだの戦争は避けられたのです。しかし、その結果、周辺国に譲歩したルーマニア政府に対し国内での批判が大きくなりました。
そして、ルーマニアでは激しい内部対立によって政権が倒れ、代わって親ドイツの政権が成立しました。しかしこの政権は安定せず、内乱状態になってしまいます。
そこで、ヒトラーは「この内乱が続くと、ソ連の軍事介入を招く」と考え、1940年10月、ルーマニア政府の承認のもとルーマニアに大軍をすすめました。そして、ルーマニアの反政府勢力はおもにドイツ軍の力で鎮圧されました。しかし、それはルーマニアがドイツの属国になったということでした。
一方、ドイツとしては、ルーマニアには石油資源があるので、この国をぜひ押さえておきたかったのです。同年(1940年)11月、ルーマニアは日独伊三国同盟に加盟しています。
そして、ドイツ軍がルーマニアに駐留するようになったことで、周辺のハンガリーとブルガリアもドイツの影響から逃れられなくなりました。これらの国も日独伊三国同盟に加盟することになります。ハンガリーはルーマニアのすぐ後、ブルガリアは1941年3月のことです。
ドイツによるバルカン半島の支配①(ユーゴスラヴィア)
さらにドイツは、1941年春にはバルカン半島(ヨーロッパ南東部)のユーゴスラヴィアとギリシャも、短期間で制圧しました。ユーゴスアヴィアは、第一次世界大戦でオーストリアの帝国が崩壊した結果、生まれた国です。
つまり、オーストリアに支配されていたバルカン半島のクロアチア人やスロベニア人、その近隣で第一次世界大戦以前から独立国を築いていたセルビア人などが、互いに系統の近い「南スラブ人」の仲間として集まり、国をつくったのです。ユーゴスラビアは「南スラブ人の国」を意味します。
しかし、南スラブの諸民族のあいだでは、歴史的に民族間の対立・争いもありました(それは現代にも続いています)。
建国時のユーゴスラビアでは、最も有力で国家の主導権を握ったセルビア人と、それに反発するもうひとつの有力な民族であるクロアチア人の対立が、とくに大きな問題でした。
1930年代になると、クロアチア人のなかの右翼勢力(民族的な主張がとくに強い集団)が台頭し、同じく右派の国家であるナチス・ドイツの支援を受けてさらに勢いをつけました。1939年8月には、クロアチア人が多く住む地域は、この右翼勢力の主導で「クロアチア自治州」としてユーゴスラビアから高い独立性を有するようになりました。
この自治州を、セルビア人が主導するユーゴスラビア政府も認めています。ドイツと結んだクロアチア人との戦いを恐れたからです。
そして、1941年3月、ユーゴスラビアはドイツの圧力のもと日独伊三国同盟に加わりました。ドイツによる侵攻を避けるため、ドイツに協力する道を選んだのです。
しかし、この決定に対し、すぐに「ドイツに屈せず、独自路線を歩むべき」という反対派のクーデタが起きました。クーデタは成功し、ドイツと距離を置く新政権が生まれます。
これにヒトラーは激怒しました。同年(1941年)4月6日、新政権をつぶすためにドイツ軍とイタリア軍がユーゴスラビアへ侵攻し、10日余りで国全体を制圧しました。
ユーゴスラビアは、親ドイツのクロアチアを除き、ドイツ・イタリアのほか隣国のハンガリーやブルガリア(どちらもドイツ陣営)によって分割・占領されました。そして、クロアチアも解体されたユーゴスラビアの一部を新たな領土として得たものの、ドイツへの従属を強めていったのです。
ドイツによるバルカン半島の支配②(ギリシャ)
一方、ユーゴスラビアへの侵攻と同じ日(1941年4月6日)に、ドイツ軍はイタリア軍とともにバルカン半島南部のギリシャにも侵攻しています。そして、4月末にギリシャ本土を制圧し、5月末にはギリシャ軍の最後の拠点だったクレタ島も制圧しました。
大戦の当初、ギリシャは中立の立場でした。しかし、1940年11月にはムッソリーニ政権のイタリアから侵攻を受けます。
イタリアは、ギリシャの北の隣国アルバニアを前年に併合しており、アルバニアからギリシャに侵攻しました。ムッソリーニがこの侵攻を行ったのは「同年(1940年)10月のドイツによるルーマニア侵攻に刺激を受け、ヒトラーへの対抗心を抱いたから」とも言われます。
しかし、イタリア軍はギリシャ軍の反撃によって1941年1月にはアルバニアに退却し、その後また侵攻しようとしましたが、ギリシャ軍に阻まれてしまいました。ムッソリーニは、ヒトラーのドイツに助けを求めました。
一方、ギリシャはイギリスに助けを求め、1941年3月にイギリス軍を国内に招き入れました。 これは、ギリシャがドイツの明確な「敵」となったことを意味します。そして、ヒトラーは同年(1941年)4月にユーゴスラビアに侵攻するにあたって、その近隣の「敵国」であるギリシャも同時に制圧することにしたのです。
ギリシャは、ドイツにとっての石油基地があるルーマニアに比較t系近く、ギリシャに駐留するイギリス軍がルーマニアに対する脅威になる恐れがありました。さらにギリシャは、当時ソ連の一部だったウクライナにも、ある程度近いです。当時のドイツはソ連への侵攻を計画中だったので、ギリシャのイギリス軍がソ連侵攻の妨げになる可能性を取り除いておきたかったのです(前掲『図説 第二次世界大戦』)。
ドイツの侵攻に対し、ギリシャはイギリス軍とともに戦いましたが、派遣されていたイギリス軍の規模や体制は不十分で、ドイツ軍にかないませんでした。敗れたギリシャは、ドイツとイタリア、隣国ブルガリア(ドイツ陣営)によって分割占領されることになりました。
オーストリア、チェコスロバキアに始まり、ポーランド(西側)のあとはデンマーク・ノルウェー・ベルギー・オランダ・フランスといった北欧・西欧、そして東欧、バルカン半島……これらの国・地域はナチス・ドイツによって制圧されていきました。
このようにナチス・ドイツは1941年前半までに、イギリスを除くヨーロッパ(大陸のヨーロッパ)をほぼ支配下におさめたのでした。
3.独ソ戦の初期段階

濃い網:枢軸国(ドイツ・イタリア)
薄い網:枢軸国の最大の勢力圏(占領地・従属的な同盟国)
独ソ戦の開始
1941年前半には、ヨーロッパをほぼ制圧したナチス・ドイツ。しかし、ヒトラーはそれに満足せず、今度はソ連との戦争を始めます。このドイツとソ連の戦争を「独ソ戦」といいます(以下、独ソ戦に関しては、断りを入れた箇所以外は、大木毅『独ソ戦』岩波新書、2019年による。同書は独ソ戦に関する一般向けの基本書といえる)。
1941年6月22日、300万人余りのドイツ軍が、同盟国ルーマニアの軍とともにソ連への侵攻を開始しました。
これは、独ソ不可侵条約を破って行われたことで、宣戦布告もありませんでした。独ソ戦は、1945年5月にドイツが降伏するまで、ほぼ4年にわたって続くことになります。
その後、同年(1941年)7月初めには、フィンランド軍が(自国内に受け入れた)ドイツ軍とともに自国に隣接するソ連領に侵攻しました。ソ連に侵攻したルーマニア軍とフィンランド軍はあわせて50万人ほどです。
ソ連への侵攻に当初から加わったルーマニアには、ソ連に奪われた領土を取り返したいという動機がありました。
また、フィンランドも、もともとはドイツと近い関係ではなかったのですが、前述のソ・フィン戦争(1939~1940)でソ連に奪われた領土を取り返すために、ドイツ側で参戦したのです。この戦いをフィンランド史では「継続戦争」と呼びます。
そして、同年(1941年)6月末までには、ハンガリーとスロバキアの軍も、やや小規模ですがドイツ軍に加わっています。当時のスロバキアは、チェコスロバキアがドイツによって解体された結果1939年に成立した、ドイツの支配下にある国家です。
さらに、少し先のことですが、同年(1941年)8月には、イタリア軍もソ連への侵攻に加わっています。
これらのドイツの同盟国の兵力は、それぞれ数万~十万人規模でした。 また、ドイツの強い影響下にあったバルカン半島のクロアチアからも、同年(1941年)8月に、比較的小規模な部隊が加わっています。
なお、ドイツの影響下にあった東欧諸国のなかで、ブルガリアは参戦に最も消極的で、独ソ戦のへの部隊の派遣は行わず、ドイツなどが占領したユーゴスラヴィアへの治安維持部隊の派遣にとどまりました(以上のドイツの同盟国の動きについては、ウィルモット前掲書・上、ワインバーグ前掲書、山崎前掲書による)。
バルバロッサ作戦
このソ連への総攻撃は、「バルバロッサ作戦」と名づけられました。バルバロッサはイタリア語で「赤ひげ」を意味し、12世紀のドイツの強大な王(神聖ローマ皇帝)フリードリヒ1世のあだ名です。
また、ドイツ中心の視点では、第二次世界大戦における西欧での戦争を「西部戦線」、東欧やソ連での戦争を「東部戦線」と呼びます。
ソ連に侵攻した300数十万のドイツ軍(同盟国の軍含む)は、大きく3つの集団(軍集団)に分かれていました。それは以下のとおりです。
①バルト3国を短期で制圧したうえでレニングラード(ロシア北部の主要都市、現サンクトペテルブルク)をめざす北方の集団
②最も大規模で、首都モスクワをめざす中央の集団
③ルーマニア・イタリア・ハンガリー・スロバキアの支援を受けた、ウクライナ(当時はソ連の一部)をめざす南方の集団
なお、第二次世界大戦当時のソ連(ソヴィエト連邦)は、ロシアの優位のもと、ウクライナ・ベラルーシ・アゼルバイジャン・アルメニア・ ジョージア (グルジア)・カザフスタン・ウズベキスタンなどの現在は独立国となっている各地域を「ソ連を構成する共和国(アメリカ合衆国の“州”のようなもの)」として束ねた巨大な国家でした。
*「ドイツ軍」とは、おもにドイツの正規軍(国家の公式の軍隊)である「ドイツ国防軍」を指しますが、ナチス・ドイツには正規軍のほか「親衛隊(略称SS)」などの、ナチ党に付属する軍事組織が存在しました。この記事で「ドイツ軍」という場合、それは「国防軍」でおもに構成されていますが、そこに「親衛隊」などが加わっている場合もあります。また、ドイツ軍とドイツの同盟国の軍から成る軍隊を、とくに同盟国軍の数がある程度多い場合、「枢軸国軍」と呼ぶ場合もあります(「枢軸国」については次の第4回で述べる)。
独ソ戦の初期におけるドイツ軍の進撃
侵攻から数か月のあいだドイツ軍は、ソ連軍の抵抗・反撃に苦しむ場面はあったにせよ、大勢としては進撃を続けました。
とくに侵攻の初期の段階では、ロシア軍は準備不足などで効果的な戦いができず、さらに戦術のまずさも目立ちました。
ドイツ軍は、陸軍の戦いのほか、ソ連空軍の多くの戦力を撃破し、制空権(味方の航空機が大きな妨害を受けることがない状態、航空優勢ともいう)を得ることにも成功しました。
侵攻が始まる前、当時のソ連の独裁者スターリンは「すぐにはドイツの侵攻はない」とみていました。しかし、じつは当時のスターリンは、ドイツによる侵攻が迫っていること、その具体的な時期や内容について、諜報機関からさまざまな情報を得ていたのです。にもかかわらず、スターリンはその情報を信じませんでした(ウィルモット前掲書・上)。
これは不可解なことです。その理由について、歴史家のあいだでは「当時のソ連はドイツとの戦争の準備が整っていなかったので、スターリンは恐ろしい事態が迫っている現実から逃避して、妄想に凝り固まった」などの推測がありますが、はっきりしたことはわかりません。
そして、スターリンは前線(敵の兵力と向き合う境界)の軍隊にドイツ侵攻に対する十分な警戒態勢をとらせませんでした。これはソ連軍の当初の大敗を招いた大きな原因です。
その後、ドイツ軍(中央の集団)は7月初めにはベラルーシ共和国(ロシアの西側、当時はソ連の一部)の首都ミンスクを陥落させました。
そして、7月中旬にはロシア西部の都市スモレンスクへの攻撃を激化させ、8月に同市を制圧。スモレンスクはモスクワから300キロ余りの距離で、ドイツ軍がモスクワをめざす途上において重要な位置にあります。
こうした重要拠点の攻略を通じて、ドイツ軍は各地のソ連軍に多大な損害を与えたのでした。
レニングラード包囲、ウクライナ占領
さらに、同年(1941年)9月半ばには、レニングラードがドイツ軍(北部の集団)に包囲されました。
ヒトラーは、市民や兵士を兵糧攻めで餓死させてこの都市を陥落させる方針でした。レニングラードはロシアのロマノフ王朝時代の都で、ソ連を成立させた社会主義革命の発祥の地でした。そこで、ヒトラーはこの都市を特別視して、極度に残酷なやり方で攻めることにしたのです。
そして、同年(1941年)9月下旬には、ドイツ軍はウクライナ共和国の首都キーウを制圧するとともに、この地域に展開していたソ連軍に多大な損害をあたえました。このときには、ドイツ軍の中央の集団の一部がキーウ方面へ南下して、南部の集団を支援しています。
ウクライナなどのソ連の南部は、工業が発達し、資源も豊富な地域で、ヒトラーはこの地域の攻略を重視しました。「戦争では資源確保などの“経済”が重要」と考えていたからです。
これに対し、ドイツ軍の司令部は「政治的中心であるモスクワの攻略を優先すべき」という立場でしたが、その進言はヒトラーに却下されました。
その結果、ウクライナでは相当な戦果があがったものの、モスクワ攻略のほうには遅れが生じることになりました。
そして、同年(1941年)10月初めにはモスクワ攻略の作戦が開始されました。11月中旬にはドイツ軍(中央の集団)の最先端はモスクワから30キロほどの地点にまで迫っています。
ロシアでは独ソ戦を「大祖国戦争」と呼びます。1812年にフランスのナポレオン軍がロシアに侵攻した際の戦いは「祖国戦争」と呼ばれましたが、「それ以上の国家存亡の重大事態」という趣旨で、独ソ戦の初期にこの名称をソ連の政府が打ち出したのです。
4.「絶滅戦争」としての独ソ戦
独ソ戦でヒトラーは何をめざしたか
ヒトラーがソ連を攻撃しようとしたのには、まず「イギリスが抵抗を続けるのは、いずれソ連が味方につくことを期待しているからだ。ならばソ連をたたいてその期待をくじいてしまおう」という発想がありました。
そして、「ソ連は弱く、短期で壊滅させることが可能だ」という見方が、その前提にあったのです。
こうした「ソ連をたたくべし」「ソ連恐るるに足らず」という見解は、ヒトラーだけのものではなく、ドイツ軍の幹部たちも共有するものでした。
しかし、それだけではありません。ヒトラーはその政治思想・世界観のなかで、ソ連の社会主義やそれを主導するロシア人に対して強い敵意を抱いていました。
ヒトラーを教祖とする政治思想(ナチズム)のなかで、ドイツ人が最優秀の・世界に君臨すべき民族(人種)であるのに対し、ロシアのほかポーランドやユーゴスラヴィアなどで主流のスラブ系の人びと(スラブ人)は、とくに劣等な民族で憎悪すべき存在とされました(原典として『わが闘争 上・下』角川文庫、1973年など)。
ヒトラーといえば、後で述べるユダヤ人にたいする迫害のことがとくに知られています。たしかに、ナチズムではユダヤ人が最大の憎悪・攻撃の対象でしたが、スラブ人はそれと似た位置づけでした。また共産主義・社会主義は、ヒトラーの信じる見解では「ユダヤ人の陰謀によるもの」とされます。
そこで、ヒトラーにとっては、ロシア人(スラブ系)の社会主義国家・ソ連を攻め滅ぼすことは、どうしてもやり遂げたい目標でした。
ヒトラーの構想では、最終的にはソ連の主要部(ウラル山脈以西)の住民は奴隷労働に必要な分を除いて、みなシベリア(ウラル山脈以東)などに追放してしまうことになっていました。空いた土地にはドイツ人やドイツの支配下にある西欧・北欧の人びとを移住させる計画です。そして、ウラル山脈の東側に追放された人びとは、文明的な施設が皆無の、過酷な環境に放置するのです。
この広大な植民地は、ヒトラーによれば、ドイツが強大であり続けるために必要な「生存圏」というべき土地・空間です。「生存圏」は、ナチズムのキーワードのひとつです。ナチス・ドイツの戦争は、ドイツの「生存圏」獲得をめざしたものだったともいえます。
以上の構想を、ヒトラーは例えば1941年9月に独ソ戦での勝利を前提にナチスの幹部に語っています(前掲『図説 第二次世界大戦』。
また、1942年には、上記のヒトラーの構想に基づいた「独ソ戦に勝利したあとの東欧・ソ連の支配」についての計画案である「東部総合計画」が、政府とナチ党によって作成されました(大木前掲書)。
こんな構想・計画は、常識的にはあり得ない「妄想」のはずでした。しかし、その「妄想」を実現するための大戦争が、現実に行なわれたのです。
「劣等民族」を皆殺しにする「絶滅戦争」
そして、ヒトラーあるいはナチズムの恐ろしい思想・世界観は、独ソ戦の戦い方にも反映しています。
ヒトラーは、ソ連という国を徹底的に破壊するつもりでした。たとえば、ソ連に侵攻したドイツの大軍は、食料などの物資を現地で奪って調達する予定でしたが、それで千万単位の餓死者が出ることも想定していたのです。
なお、スラブ人が主流の国家であるポーランドへの侵攻のときも、ドイツ軍はポーランドのエリート層を大量に殺害するなど、国家を破壊しようとしています。ドイツによる占領中にポーランド人の医師・裁判官・弁護士・大学教授・高校教師の半数前後が殺害されたとする推計もあります。そして、食糧その他の物資をポーランド人から徹底的に収奪し、さまざまな強制労働にも従事させました(前掲『図説 第二次世界大戦』、伊藤孝之・井内敏夫・中井和夫編著『新版各国世界史 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998年)。
ポーランドは、ナチスにとって「これからさらに大規模に行う予定の、“劣等民族”の虐殺・奴隷化の演習の場」だったともいえるでしょう。
このように、ヒトラーにとってソ連との戦争は、敵視する「劣等民族」を皆殺しにするための、いわば「絶滅戦争」といえるものでした。したがって「国際法や人道は一切無視」です(「絶滅戦争」については、大木前掲書第3章・第5章による)。
独ソ戦の少し前、1941年3月にヒトラーはドイツ国防軍の高級将校たちへの演説で「ロシアの共産主義者はこれまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない。皆殺しの戦争こそが問題となる」と述べています。
「戦友ではない」とは、「同じ軍人としての敬意や、国際法や人権の尊重など無用の相手だ」と言っているのです。
そしてヒトラーのこの認識は、程度の差はありましたが、ドイツ軍の将校・兵士のあいだで広く共有されることになりました。また、ドイツ軍が「敵は人間ではない」とする以上、ソ連の側もナチス・ドイツに対し同じ認識を持ちました。「ナチは人間ではない」ということです。
「絶滅戦争」は、平和な国で暮らす今の私たち(先進諸国の国民)には理解しがたい概念でしょう。
一般的な常識では、戦争というものはそもそもどれも残酷で、あってはならない「悪」のはずです。しかし、国際法によって戦時なりに敵の人権を認める「通常」の戦争をまったく否定した、「異常」な戦争があるということです。
その戦争――絶滅戦争では、世界大戦以前にみられた「通常の戦争」のように、一定の外交目的を達成することがゴールではありません。
敵国を植民地化して、その社会から収奪し利益を得ることは行うにせよ、それは最終目的ではなく、敵の国家・社会を完全に破壊して、虐殺するか奴隷化することが目的なのです。独ソ戦は、まさにその絶滅戦争でした。
西欧での戦争は「絶滅戦争」ではなかったが……
これに対し、ナチス・ドイツの戦争では、イギリスとの戦争は、ここでいう「通常の戦争」に属します。少なくともバトル・オブ・ブリテンの激戦に突入する前まではそうでした。「ドイツの覇権をイギリスが承認する」という外交上の成果を得ることができれば、まずはそれでよかったからです。
一方、フランスとの戦争は絶滅戦争ではありませんが、激しい収奪をともなうものでした。
たとえば、占領下のフランスで生産された工業製品の3~5割はドイツに送られています。ドイツ占領下のフランス人のカロリー摂取量は、ナチスの支配下にあった西欧諸国のなかで最低でした。また1943年には、フランスはドイツの工業・農業の生産力の4分の1を担っていました(ウィルモット前掲書・上、前掲『図説 第二次世界大戦』)
しかし、「劣等民族」とされたスラブ人が主流のポーランドに対する、ドイツによる搾取は、それよりもはるかに過酷な、「国を滅ぼす」方針によるものだったのです。
こうした占領地からの搾取によって、ドイツ国民は戦時下としては比較的不自由の少ない暮らしができました。
それは、ヒトラーがこだわった方針でした。「ドイツ国民を戦争にまい進させるには、国民を飢えさせないことが大事だ」ということです。ヒトラーは「第一次世界大戦では、国民に重い負担を強いたため、革命による体制崩壊が起きた」とみていました。その轍(てつ)は踏まないつもりだったのです(大木前掲書)。
独ソ戦は第二次世界大戦の中心だった
ドイツとソ連の「絶滅戦争」は、凄惨をきわめました。まずそれは、空前の、そして現在のところ絶後の巨大な軍事衝突でした。そこではドイツとソ連を合わせて開戦時には800万、最大時には1500万人の兵力がぶつかり合ったのです。
そして、その戦い(独ソ戦)のなかで市民や捕虜の虐殺なども、空前の規模と激しさで行われました。飢餓や疫病で数百万~1千万の死者も出ています。
約4年間の独ソ戦におけるソ連側の死者は、軍人・民間人合計で2700~2800万人にのぼりました(諸説あり)。
第二次世界大戦が始まった1939年、ソ連の人口は1億9千万人。「2700~2800万人」は、この人口の14~15%にあたります(以上の数字は、大木前掲書、ジャン・ロペズ監修、ヴァンサン・ベルナール+ニコラ・オーハン『地図とグラフで見る第2次世界大戦』太田沙絵子訳、原書房、2020年による)。
なお、日本の1939年の人口(植民地を含まない本土のみ)は7100万人で、アジア・太平洋戦争での死者は310万人です(軍人230万人、民間80万人)。「310万人」は上記人口の4%余りです。もちろん、それはきわめて悲惨な数字です。しかし、独ソ戦の惨禍はそれを上回るものだったことが、以上の数字からうかがえるはずです。
戦史研究家のウィルモットは、独ソ戦の重要性についてこう述べています。
《戦いの規模という点で独ソ戦は史上例を見ないものであり、第二次大戦の帰趨〔きすう〕を決定する上で他のどの戦域よりも比較にならないほどの重要性を帯びて〔いた〕》
《ほかの戦域全てを合わせたとしても、独ソ戦の重要度はより大きなものであった》
このように、独ソ戦は、第二次世界大戦で最も大規模で重要な戦いでした。
そして、独ソ戦は、絶滅戦争という特異な性格のものだったのです。これはつまり「絶滅戦争という要素が、第二次世界大戦の核心にある」ということです。
絶滅戦争的な虐殺は、ナチス・ドイツだけが行ったわけではありません。たとえば、ソ連は占領下のポーランドにおいて、ナチズムのような人種的偏見は希薄なものの、ドイツと同様に「国を破壊する虐殺」を行いました。
たとえば、1940年3月の決定によって、ポーランド人の将校1万4千人余りとその他の7300人ほどのエリート層を秘密裏に射殺しているのです。殺害現場のひとつから「カティンの森事件」といわれる。ソ連はこの虐殺を1990年まで認めませんでした(前掲『新版各国世界史 ポーランド・ウクライナ・バルト史』)。
そして、ここでは立ち入りませんが、第二次世界大戦では、独ソ戦ほどの規模や一貫性はなくても、絶滅戦争的なことが各所で起きました。たとえば、日本に対しアメリカが行った無差別爆撃や原爆投下は、まさに絶滅戦争的な行いでした。
激しい戦いが続くうちに、第二次世界大戦の全体において「敵は人間ではない」という観念は強くなっていったのです。
(第4回へ続く)
第4回は、イタリアの動きについてまとめ、第二次世界大戦の2つの陣営である「枢軸国」と「連合国」について解説します。独ソ戦のその後の展開は、第5回で。
おもな参考文献
