戦争の原因には、戦前のきびしい格差があった
0.はじめに
「格差の是正」という正義は、戦争と結びつくことがある
多くの人が「平和は大切」というけど、戦争はなかなかなくなりません。それは、平和を求めるのと同じくらい強力な正義が、戦争と結びつくことがあるからです。
その正義とは何かというと、「世の中の不平等・格差を是正したい」という思いです。それですべてが説明できるわけではありませんが、この正義は、国際間の力学とともに、戦争をひき起こすうえで少なからず作用しています。
たとえば、革命はしばしば内戦をともないます。そして、革命とは、現存する格差社会をひっくりかえそうとする政治変革のことです。革命は、大義名分として「不当な格差を是正すること」をかかげ、格差社会のピラミッドの頂点にいる人びとをひきずりおろす行為です。
また、国際的なテロにかかわる勢力の多くは、「欧米などの先進諸国と自分たちとのあいだの格差に怒っている」といえるでしょう。
日中戦争や太平洋戦争といった昭和の日本の戦争にも、格差社会ということが大きく影響していました。
基礎知識①日中戦争の開始
ここで、昭和の日本の戦争について基礎知識の確認を。ご存知の方は、とばして先へどうぞ。
日本は、1931年(昭和6)に軍部(陸軍)の主導で、つまり政府の公式の指示ではない一部の軍人の独断で、今の中国東北部にあたる満洲を制圧するための軍事行動を開始しました。これを満州事変といいます。
当時の日本は日露戦争(1904~1905)以降、中国の遼東半島の南端を植民地として支配し、満洲の南部を走る鉄道(南満洲鉄道)とその沿線の利権を有していました。これはロシアから獲得したものです。
遼東半島には、関東軍という大規模な日本の軍隊が駐留していました。遼東半島を、日本の植民地としては「関東州」と呼んだので、「関東軍」といいます。
満州事変は、満洲での日本の勢力をさらに強大にするために、関東軍がひきおこした軍事行動です。要するに、日本がほぼ領土として支配していたのは遼東半島の一部だけでしたが、満州事変を主導した軍人たちは広大な満洲全体を事実上の領土にしようとしたのです。
翌1932年(昭和7)までには、日本軍は満州の広い範囲を支配するようになりました。日本軍の満洲での行動は、アメリカやイギリスが主導する国際社会では、既存の秩序を破壊するものとして非難されました。しかし、日本政府や国民の多くは、軍部の行いを後追いで支持しています。
そして、満州事変の頃から、国の方向性に対し軍部が大きな影響をおよぼすようになっていきました。
さらに、日本は満洲の南側の華北にも勢力を伸ばそうとしました。1937年(昭和12)以降は、中国(中華民国)との戦闘が本格化して日中戦争に突入します。その後、日本軍は中国の広い範囲に侵攻しておもな都市をおさえましたが、中国側の激しい抵抗にあい、中国での支配を確立することができませんでした。
一方、アメリカ・イギリスと日本のあいだの対立はさらに深まっていきました。中国が日本に支配されるのは、中国に既得権がある欧米列強には認められないことでした。アメリカ・イギリス、そしてソ連は、中国を支援しました。
基礎知識②太平洋戦争の開始
そして、1941年(昭和16)12月には日本軍がハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃して、日本とアメリカ・イギリス・オランダなどとの戦争(太平洋戦争)がはじまりました。このアメリカを主敵とする戦争は、日中戦争の行き詰まりから生じたものです。
太平洋戦争の前夜、日中戦争を戦い抜くために「東南アジアにある石油などの資源を手に入れる」という考えが日本の指導者のあいだで有力になりました。当時オランダの植民地だったインドネシアには、相当な規模の油田があったのです。
そして、日本が東南アジアを支配しようとする動きをみせると、アメリカやイギリスとの対立はさらに深まることになりました。
そのような対立のなか、1941年8月に、アメリカは日本への石油の輸出をストップしました。1930年代には、日本が輸入する石油の大部分はアメリカからのものだったので、これは日本にとってきわめて深刻な事態でした。石油がなければ戦争はできません。
当時、日本とアメリカのあいだで関係改善のための外交交渉も行われていましたが、結局は決裂しました。そこで、煮詰まった日本としては「東南アジアへ侵攻するしかない」ということになりました。
そして、東南アジアを攻めるにあたっては、太平洋のアメリカの戦力をたたいておきたいと考え、重要拠点の真珠湾(ハワイ)を攻撃したのです。真珠湾攻撃とほぼ同時に、日本軍は東南アジアへの侵攻を開始しています。
このように、昭和における日本の戦争は、ごく大雑把にみて2つのステップで拡大しました。①日中戦争(1937~1945)→②太平洋戦争(1941~1945)です。満州事変(1931)は、日中戦争の前段階といえます。
昭和の日本は、アメリカとの戦争で決定的な破局に向かいましたが、そもそもの始まりは、満州事変→日中戦争ということでした。そして、日中戦争と太平洋戦争の連続性・一体性を重視する「アジア太平洋戦争」という言い方も現在はかなり普及しています。
本記事は、「昭和の戦争の、そもそもの始まり」に関するものです。「なぜ日本人は、こんな戦争を始めてしまったのか」について考えます。日中戦争からさらに太平洋戦争にまで突き進んでいった過程については、ここでは踏み込みません。
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1.「人口過剰」の格差社会だった昭和戦前期
「上位0.1%」に富が集中する、戦前の格差社会
昭和戦前期(1920年代後半~1930年代)の日本は、今の日本よりもはるかに激しい格差社会でした。
経済史の研究者・森口千晶氏の研究によれば、1930年代の日本では「成人人口の上位1%」にあたる高所得者、つまりかぎられた富裕層が、全国民の所得の2割ほどを得ていました。
この「上位1%シェア」は、現代の日本(2010年頃)だと、1割ほどに低下しています。
そして、1930年代の日本の富裕層は、所得の約半分が不労所得でした。つまり、金融資産からの利子・配当、不動産からの地代・家賃などが多くを占めていました。
これに対し、上記データによる現代日本の「上位1%」の所得では、不労所得は全体の1割ほどで、7~8割は給与所得です。自ら働いて給与として得たものが、現代の富裕層の所得のメインです。
さらに、1930年代の日本では、上位0.1%が全国民の所得の8~9%を得ていました。「上位1%」の所得の半分近くが、わずか0.1%の人びとに集中していたのです。
そして、この「0.1%シェア」も、2010年頃には大幅に下がって2~3%になりました。
なお、1930年代の日本における「0.1%シェア」は、同時代のアメリカ・イギリス・フランスとほぼ同じ水準です。これらの欧米諸国の「0.1%シェア」は、第二次世界大戦が始まる前年の1938年には9.2%でした(「日本も戦前は「格差社会」高度成長期に「格差なき成長」『週刊エコノミスト』2014年8月12日・19日合併号)。
ただし、1930年の日本の1人あたりGDPは、アメリカの3割弱、イギリスの3分の1の水準です。 つまり日本は欧米列強よりもはるかに貧しい国で、庶民の暮らしは欧米の庶民よりもきびしかったのです。日本の格差や貧困はそれだけ深刻なものでした。
以上のとおり、戦前の富裕層は今よりもはるかに多くの富を独占し、しかもその富のおもな源泉は不労所得でした。そして、少数者がより多くの富を独占していたということは、貧しさにあえぐ多くの人たちがいたということです。
たとえば、借金のカタに売られてしまう農家の少女がいる。農家の次男・三男には受け継ぐ田畑はなく、都会に出ても職がなかなかみつからない。
一方、都会には、ギリギリの生活をする給与生活者たちがいる。戦前の日本経済は未発達で、工場やオフィスで働く仕事はかぎられていました。「都会へ出れば何かの職がみつかる、それがあたりまえ」というのは、戦後の高度経済成長(1955年頃~1975年頃)以降のことです。
戦前の日本は、一部の既得権を持つ人たちを除いて、生きるのが今よりもずっと大変だったのです。ただし、「今とくらべて」ということで、「さらに昔とくらべてどうか」はおいておきます。
これを単純化していうと、少数の「持てる者」以外は、つねに貧困との闘いや貧困に落ち込むリスクに向き合っていたということです。その一方で、ばく大な不労所得で贅沢三昧をしている人びともいました。
格差と貧困を解決する選択肢・社会主義か軍国主義か
こうした昭和の戦前期における貧困・格差の問題と戦争の関係について、戦前を知るエコノミスト・下村治(1910~1989)は、1966年につぎのように述べています。下村は大蔵官僚出身で、池田勇人首相(在任1960~1964)のブレーンとして活躍した人物です。
《当時の困難な社会、経済、政治の問題すべての根底のあったのは人口過剰という問題でした》〔注:ここでいう「人口過剰」とは、人びとに十分な富や職をいきわたらせることができないという「格差・貧困の問題」として理解するといいでしょう〕
《農村の生活水準の低さ、都市における失業問題、その失業者の帰農による生活困難の加重が、国民多数の心を圧迫した社会的、政治的な問題であり、そういう問題に押されて、歴史全体が思わざる方向に押し流されるという結果になったのです》
《つまり、当時の状況のもとでは、右と左を通じて、人口過剰の状態を、経済のメカニズムの中で内部的に解決することはできないと思ったわけです。資本主義体制を崩すことがその解決であると考えた人は左〔社会主義的な方向〕に行き、領土の狭いことが悪いのだと思った人は右〔軍国主義的な方向〕に走ったわけです。そして、この後者の考えがその後の日本の運命を決定的に左右することになったのです》
下村の発言は、戦前の社会の状況を端的に述べているのではないでしょうか。
このような混迷の状態であれば、軍部が権力を握り、社会を軍国主義的に統制して変えていくことには、「正義」や「正当性」が生じてくるはずです。「不平等な格差社会を正す」という正義です。それは「こんな不平等な世の中、まちがっている!」という怒り、といってもいいでしょう。
そこで、世の中を大きく変えることになる戦争を、歓迎する人もいたにちがいありません。「日本の領土が大きくなったら、自分たちにも、何かいいことがあるのではないか」というわけです。
1920年代に認識されていた「人口過剰」の問題
「日本は人口過剰であり、なんらかの政策的な対応が必要」という認識は、1920年代(大正後期~昭和初期)にはすでにありました。1920年代末には「人口食糧問題調査会」という総理大臣を会長とする機関も、何ができるかはともかくとして設置されていたのです。
1920年代の日本では、公衆衛生の改善などによって死亡率が低下する一方、出生率の低下はゆるやかでした。途上国的な「多産多死」から先進国的な「少産少死」への過渡期だったのです。
つまり、出生率の低下を上回るペースで死亡率の低下がすすみ、かつてない人口増加が起こっていました。このような人口動態の変化が、当時の「人口過剰」の根底にあったのです。
この「人口過剰」の問題について論じた同時代の専門家の一人に、上田貞次郎(1879~1940)という経済学者がいました(高岡裕之『総力戦体制と「福祉国家」』岩波書店、2011年)。
上田は、満州事変をきっかけに人口問題に取り組みはじめました。上田には「人口過剰の圧力が満州事変につながっている」という問題意識があったのです。そして、「新たな領土である満州への移民によって日本の人口問題は解決される」という考えが有力になっていくことに危機感を感じていました。
そして、上田は「領土拡大では問題は解決しない」と考え、日中戦争がはじまった1937年(昭和12)の著作「日本人口問題の理論的意義」のなかでこう述べています。
《我国人口問題の解決は農村に生ずる過剰労働力のはけ口を作ることであり、従って国民経済の工業化によるほかない》
上田のいう「工業化」は、さきほどの下村治が述べていた右(軍国主義)でも左(社会主義)でもありません。それは経済メカニズムの中での解決策です。これこそが「正解」だったことを、今の私たちは知っています。しかし、ちがう方向へ日本はすすんでいきました。
上田のような学者が戦前の昭和にいたということは、やはり先ほどの下村治の説明のとおりなのでしょう。
つまり、人口過剰という問題が当時の日本社会に重くのしかかっていて、解決のためのいくつかの選択肢が考えられた。その結果、「領土拡大」が選択されたのです。
2.「戦争による社会改造で問題を解決する」という発想
陸軍が農民に訴える「領土拡大による格差是正」
そして、戦争の時代の前夜において、今でいえば「格差の是正」ということを、陸軍は積極的に国民に訴えていました。どうやって是正するのかといえば、領土拡大によってです。本来は、軍が政治に関与することは法で禁止されていたのですが、それはなし崩しになっていました。
歴史学者の加藤陽子氏は、つぎのような話を紹介しています(『シリーズ日本近現代史⑤満州事変から日中戦争へ』岩波新書、2007年)。
1930年(昭和5)頃、のちに評論家となる石堂清倫(いしどうきよとも、1904~2001)は青年時代に、故郷の石川県のある町で公会堂に大勢の農民が集まり、陸軍省から派遣された少佐の講演を聞いているのを目撃した。少佐は、現在の農民の窮乏にふれた後、その解決には思い切った手段が必要だと述べていた。
そして、これについて左翼は土地の平等配分を要求しているが、今の日本の農地をすべての農家に均等配分しても、一件あたり5反分〔農家として零細な規模〕にしかならない、という。
当時は少数の地主に農地の所有が集中するという傾向があり、少ない農地しか持たない多くの農民が、苦しい生活を送っていました。
ここからは、石堂が回想する少佐の発言を引用します。
《日本は土地が狭くて人口が過剰である。……だから、国内の土地所有制度を改革することでは改革はできない。ここでわれわれは、国内から外部へ眼を転換しなければならない。満蒙〔満洲とその周辺の内陸部〕の沃野をみよ。……他人のものを失敬するのは褒めたことではないけれども、生きるか死ぬかという時には背に腹はかえられないから、あの満蒙の沃野を頂戴しようではないか。これを計算してみると、諸君は五反分ではなしに一躍一〇町歩〔5反分の20倍〕の地主になれる》
この講演の少し前、1929年(昭和4)10月のニューヨーク株式市場での大暴落をきっかけに、世界経済は急激に落ち込んでいきました。「世界大恐慌」です。日本も大恐慌の影響を受けました。農村は不作にもみまわれて困窮し、都会は失業者であふれました。
たとえば、1932年(昭和7)7月、文部省は欠食児童が全国で20万人にもなったと発表しています。また、新潟県の調査では、同年1月~6月に新潟県の農村で売られた子女は4900人余りにのぼりました。
「売られた」というのは、金銭とひきかえに、辞めることのできない奴隷的な労働についたということです。「4900人」の内訳は、「芸妓1750人、娼妓1500人、酌婦1600人など」でした。
このような状況に対し、当時の政府は有効な対策を打つことができませんでした。現代なら、たとえば農家に政府が資金援助するといったことが考えられますが、それは行われませんでした。
そこで、陸軍が農民に「満洲の土地を頂戴しよう」という宣伝をする余地が生じ、そこに説得力も生まれたのです。
「国民生活の安定が大事」だと述べる陸軍パンフレット
また、1934年(昭和9)に陸軍が発行したPRパンフレットで「国防の本義と其強化の提唱」というものがあります。通称「陸軍パンフレット」といわれています。
そのパンフレットは、軍が主導する戦争を戦うための国家体制――つまり軍国主義の体制を樹立することを国民に訴えたものでした。
「陸軍パンフレット」では、国防とは「国家生成発展の基本的活力」だとしたうえで、次のように書かれていました。
《国民生活の安定を図るを要し、就中(なかんずく)、勤労民の生活保障、農村漁村の疲弊の救済は最も重要》
陸軍が「国民生活の安定」が大事だというのです。加藤陽子氏は「陸軍パンフレット」をとり上げ、この箇所について「なんだか、今の政党の選挙スローガンとまちがえそうな文句」だと述べています(加藤『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』)。
また、同年(1934)に陸軍の内部でつくられた計画書(「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」)にも、さまざまな農民救済策があげられていました。義務教育費の国庫負担、肥料販売の国営、農産物価格の維持、耕作権などの借地権維持などです。
ただし、こうした構想の多くは戦争が始まれば、それどころではなくなってしまうものです。しかし、当時の日本社会では「軍部が社会や政治を変革してくれるのでは」という期待が生じたのでした。
「戦争は好景気をもたらす」と財界は考えていた
さらに、格差社会の上層にいる財界人たちのあいだにも軍国主義の拡大を受け入れる雰囲気がありました。
同時代のエコノミスト・高橋亀吉(1891~1977)は、1938年(昭和13)の著書『戦時統制経済の現段階とその前途』で、戦争は「景気の異常な昂揚をもたらすもの、と考えるのが財界一般の従来における信仰であった」と述べています。そして「最近まで、財界人の多くは、この通念に基づいて、内外政治活動の動きを判断してきた」というのです。
たとえば、のちに明治生命の社長となる山中宏(1913~2008)は、1939年(昭和14)の年頭に書いた、経営幹部向けの経済見通しのレポートで「軍事部門の繁栄は平和部門の沈滞をカバーして、全体として景気は上昇傾向をつづけており、その傾向はさらに拡大する」と予測しています。
経済統計でみても、日中戦争が始まった1937年(昭和12)から1940年(昭和15)にかけて、GNP(≒GDP)は1.1倍に増えています。
このような国民経済の拡大には、同時期に軍事費が2.4倍に増えたことも大きく作用していました。 1930年代半ば以降の日本経済は、軍拡の追い風によって世界恐慌からいち早く脱することができたのです。
そして、財界は日中戦争をおおむね歓迎しました。戦争にともなう国防充実が重化学工業化を促進すると期待したからです(井上寿一『日中戦争』講談社文庫版、2018年)。
明治以降の日本経済は、基本的には自由主義で発展してきました。戦時における、政府が積極的に介入する統制経済はそのあり方と対立するものです。しかし、「戦争遂行のために重化学工業を政府が後押しするなら、財界としては歓迎だ」という意見が有力になっていきました。
つまり、財界は「政府の統制で原材料や労働力の調達が安定的になり、軍需によって設備がフル稼働となれば、とくに大企業にとってはプラスが大きい」「戦争をテコにして重化学工業のなどの高度の産業を発展させることができる」などと考えたのです。
もちろん、そのような甘い見通しは、その後の戦争の展開によって完全に打ち砕かれていきました。
戦争のための社会改造を担う役所・厚生省の新設
このように、昭和戦前期の人びとのあいだでは、戦争を「社会問題解決の手段」のひとつと考える傾向がありました。
これは、今の私たちとは大きく異なる発想です。しかし、当時は有力でした。だから、「戦争で領土を拡大して人口過剰の問題を解決する」という選択肢が力を持ったのです。
また、そこには「戦争を通じてさまざまな問題解決をはかり、社会を望ましい方向へ改造する」というビジョンも伴っていました。たとえば、日中戦争を歓迎した財界にも、戦争の後押しで「日本の産業を高度化しよう」という目論見があったわけです。
このような「戦争による社会改造」の発想は、戦時中のさまざまな政策のなかにあります。そのなかでも代表的なのが、厚生省の新設と、その後にすすめられた政策です(厚生省に関しては、高岡前掲書による)。
厚生省は、1938年(昭和13)に、従来の内務省衛生局・外局社会局をあわせて設置されました。
なお、もともとの内務省は、今でいえば警察庁・総務省・厚生労働省・国土交通省を兼ねたような広汎な権限を持つ組織でした。このように幅広く業務を所管する省庁の存在は、当時の行政(とくに国民生活にかかわる分野)が未発達だったことを示しています。
そして、厚生省の新設は、そのような「未発達」から脱する重要な一歩でした。
厚生省の設立じたいは、日中戦争以前から計画されていたことです。そこには戦争のために「強い兵士」を求める陸軍の意向が働いていました。兵士となる国民の体位・体力の向上や、人口増加のための政策を推進したいということです。それは、軍の理想にあわせて国民の肉体や生活を改造することといってもいいでしょう。
いかにも軍国主義的な、今の私たちからみれば特異な役割を担う役所。それが、陸軍が描く厚生省(陸軍は「衛生省」で構想)のあるべき姿でした。
しかし、一方で政府内では「体位を向上させるにしても、国民生活の改善がまず重要」という考えも有力でした。
つまり、労働政策・救護や福祉・社会保険制度によって社会問題の解決をはかることが、厚生省のおもな仕事だというわけです。「社会問題」とは、人口過剰による農村の貧困や都市失業者の増大などのことです。
当時の内閣や行政当局は、厚生省の役割としてこうした問題への対応、つまり「社会政策」といわれるものを重視しました。 このように陸軍の考えと社会政策を重視する考えがせめぎあいながら、厚生省はつくられました。
なお、当時の厚生省については「陸軍の軍国主義的な方針に基づく」という説明が一般的です。たしかに陸軍は、厚生省の新設を推進しました。ただし、以上で述べたような、実際の厚生省のあり方と、陸軍の関心・思惑のあいだには隔たりもあります。
紆余曲折はありながらも、戦時中において、厚生省の組織と予算は社会政策におもに用いられました。今からみれば不十分ではありましたが、健康保険などの社会保障の拡充がすすめられました。これを現代日本の「福祉国家」的な政策の源流だとする説も有力です。
前に述べた「陸軍パンフレット」の構想は絵に描いた餅でしたが、厚生省によって「国民生活の安定」にかかわる政策が部分的に実現したのです。
社会の平準化と、国家総動員の体制
そして、こうした社会政策は、日中戦争が長期化するなかで「国民を総動員する体制」をつくる一環でした。国家の統制を強化する「国家総動員法」が制定されたのは、厚生省の設立と同じ1938年(昭和13)です。
「総動員」の体制では、国民の多数を占める農民・労働者による積極的な協力が必要です。そこで、国家が資本を統制し、社会政策による富の再配分で、社会の平準化をすすめるのです。 国家への忠誠を多数派から得るための、格差是正。これは重大な「社会改造」でした。
井上寿一氏は、日中戦争が日本社会におよぼした影響を研究した著書(前掲書)のなかで《それまで体制から疎外されていた社会の下層の人びとは、戦争による社会の平準化を、相対的な地位の向上として歓迎した》と述べています。
戦争が始まってから、庶民には「国が自分たちを尊重するようになった」と感じられることがあったのです。当時の無産政党(社会大衆党などの左翼)も、国家総動員法を社会主義につながるものとして支持しました。
この時代の「戦争による社会改造」という考え方にかかわるものとして、つぎの言葉はときどき引用されます。経済学者・大河内一男(1905~1984)の言葉です。大河内は1940年の著書『戦時社会政策論』でこう述べています(著者が多少要約)。
「戦争は社会政策を後退させるものではなく、むしろ推し進める。そして、これまで停滞的であった社会政策を飛躍させ、またこれまでの経済機構の中では到底実現できなかったような社会政策の一定の領域を忽然として登場させる」
こんな「戦争が福祉を向上させる」みたいなことを、当時の有力な学者、それも社会政策の専門家が言っていたのです。財界が「戦争で経済が発展する」と考えたのと同じく、戦争に対するとらえ方が、今の私たちとはまるでちがう。
このように、戦争――とくに20世紀以降の総力戦の時代の戦争は、「格差と貧困」などの社会問題解決と深く結びついていました。
つまり、こういうことです――まず戦争を「貧困を解決する手段」と考える人びとがいた。そして、国民を戦争に動員するために、国家の統制のもとで格差を是正することが構想され、多くの農民や労働者はそれに期待したのです。
そこで、戦争が始まった頃には、「国民の生活を守る」と政府はさかんに言っていました。
しかし、戦争による国民の苦しみや犠牲は想像を絶するものとなり、戦争と結びついた社会政策による限られたメリットは維持できなくなるか、意味を失っていきました。
戦争によって社会を良い方向へ改造するつもりが、結局は社会を破壊してしまう。それが現代の総力戦というものです。
3.正常な判断を失っていた日本人
貧乏サラリーマンとしてのエリート軍人
ここで、昭和の戦争を主導したエリート軍人たちに目をむけてみましょう。彼らはじつは、戦前の格差社会のなかであえぐ「貧乏サラリーマン」でした。
「貧乏サラリーマンとしての軍人」というのは、岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン』(講談社現代新書、2006年)にあった言葉です。戦前のサラリーマンの暮らしについてミクロな情報を集めた本です。
この本には軍人の俸給一覧表や陸軍中尉の妻の手記などから、当時の将校たちの暮らしのきびしさについて述べた箇所があります。ただし、それはあくまで「エリートの割には」というきびしさではあります。
また、陸軍将校の実態を詳しく研究した広田照幸『陸軍将校の教育社会史』(ちくま学芸文庫版、2021年)によれば、大正から昭和初期にかけて、陸軍士官学校出のエリートの多くはなかなか昇進できずに苦しんでいました。
これは、第一次世界大戦後の「平和」「軍縮」の時代のなかで軍備拡大によるポスト増が見込めないためです。そして「“万年大尉、千年少佐”と呼ばれる老大尉、老少佐がごろごろしていた」といいます。
また、大正中期から昭和初期にかけて、物価がかなり上がったにもかかわらず、陸軍将校にはそれに見合うベースアップがありませんでした。 そのことが、識者や有力者によって問題提起されることもあったのですが、改善はすすみませんでした。
1922年(大正11)の東京都における調査資料で陸軍将校の所得をほかの職業と比較すると、《中尉クラスで平均的な電車従業員・警察官や職工と同等かやや良い程度》でした。そして、《会社員や銀行員のなかには大尉や少佐クラスよりも高給を得ていた者が少なからずいた》のです。
一定の平和が続くなかで、大正~昭和初期の軍人が不遇だったことは、日本軍の歴史を研究した戸部良一氏も指摘しています。将校たちは、軍人を軽視する世間の風潮に傷つくこともあったといいます(『シリーズ日本の近代9逆説の軍隊』中央公論新社、1998年)。
たとえば、市電で、将校のマントや乗馬用の靴の拍車(馬の腹を蹴って加速するためのもの)が邪魔だとされることがあったのです。軍服を着て街を歩くのを嫌がる将校もいたそうです。
貧乏サラリーマンで不遇だったことは、軍人の思想や行動に影響をあたえたにちがいありません。この点を戸部氏は、つぎのようにまとめています(著者が多少要約)。
「社会から批判されて受けた心の傷が、その後の軍人を突き動かしたと考えるのは短絡的だろう。また軍人が生活上の不安を国防上の不安にすりかえて、五・一五事や二・二六事件というテロ事件や満洲事変を起こしたというのも短絡的すぎる。しかし、一部の軍人が大陸で冒険的な軍事行動を始めたり、強引な政治的介入を行ったりするのを、多くの軍人が黙認したり支持したりしたのには、以前に受けた心の痛手に一因がある」
そして、満州事変以後、日本が戦争に突入すると、軍人の給与・待遇は大幅に改善されたのでした。 大手をふって軍服で街を歩くようにもなりました。
青年将校によるテロに共感する世論
さきほどの引用にあった「五・一五事件」「二・二六事件」とは、一部の軍人によるクーデタを目的とするテロ事件です。クーデタとは、国民の支持に基づく手続きによらず武力によって政権を倒し、権力を奪い取ることです。そこにはしばしばテロ行為がともないます。
五・一五事件は、1932年(昭和5)に一部の海軍・陸軍の将校が主導したものです。首相官邸などが襲撃され、犬養毅首相が射殺される事態となりました。
そして、1936年(昭和11)2月に起きた二・二六事件は、これよりも大規模なものでした。
陸軍の若手・中堅の将校(「青年将校」などといわれる)が中心となって、1400人ほどの兵卒を率いて東京で軍事行動を起こしたのです。そして当時の政権を倒そうとしましたが、すぐに失敗に終わりました。それでも、複数の政府高官(大蔵大臣の高橋是清など)が殺害され、一時は首相官邸などが占拠されました。
これらのテロ事件は、過激な軍人の恐ろしさを世間に印象づけ、日本で軍部が強くなるのを後押しすることになりました。
そして、五・一五事件も二・二六事件も、首謀者たちは「今の無能で腐敗した政権を倒し、軍部が主導する革新的な政権を打ち立て、社会の問題を解決する」ことを主張しました。
今ならこうしたテロは、絶対的に否定されるでしょう。しかし、当時の政府の一派や世論の考えはちがっていました。たとえば五・一五事件の1年余り後に公表された、司法・陸軍・海軍の三省による共同声明は、今からみればおどろくべきものでした。
それは要するに、「このテロは、行き詰まった国や社会を救おうとしたもので、その行き詰まりの原因は、政党や特権階級の腐敗にある」と説明しているのです。「犯人はそう主張している」という形ではありますが、同調するかのように主張をていねいに述べています。
そして、こうした論調に共感する人は少なくなかったのです。司法・海軍・陸軍三省の共同声明はつぎのとおりでした。
《本件犯罪〔五・一五事件〕の動機および目的は、各本人等の主張するところによれば、近時のわが国の情勢は、政治、外交、経済、教育、思想および軍事等のあらゆる方面に行きづまりを生じ、国民精神また頽廃を来したるを以て、現状を打破するに非(あら)ざれば、帝国を滅亡に導くの恐れあり》
《しかしてこの行きづまりの根元は、政党、財閥および特権階級がたがいに結託し、ただ私利私欲にのみ没頭し、国防を軽視し、国利民福を思わず、腐敗堕落したるによるものなりとなし、その根本を剪除(せんじょ)して、以て国家の革新を遂げ、真の日本を建設せざるべからずというにあり》
格差や貧困の重圧で、正常な判断を失っていた当時の日本人
1914年(大正3)生まれで戦争の時代を経験した、政治学者の猪木正道(1914~2012)は、当時の情勢を概説する著書(前掲)でこの声明をとり上げ、このようにつよく批判しています。
《今日冷静な目でこの共同声明を読めば、一九三三年頃の日本人がすでに発狂していたと断定しなければなるまい》
《これではまるで、虐殺された犬飼首相のほうが悪人で、テロリストは「皇国のためになると信じた」愛国の志士だということになる》
たしかにそのとおりだと私も思います。「発狂」というのは強い表現ですが、とにかく正常な判断を失っていたといえるのではないか。
なお、猪木は防衛大学校の校長も務めた、基本的には「保守」の側の人です。左翼的な目線で軍国主義に罵声を浴びせているのではありません。それでも、「あれは狂っていた」と言わざるを得ないのです。
「貧富の差がひどくなり、社会情勢が悪化しているのに政党政治は堕落して行き詰っている」という認識じたいは、この時代では一般的なものでした。 もちろん、だからといってテロを正当化できるものではありません。しかし、この時代の雰囲気はちがっていました。
上記の「共同声明」のほかにはたとえば、当時の政府高官(内大臣秘書官長)である木戸幸一(1889~1977)は、五・一五事件直後の日記に、つぎのように記しています(著者が若干整理)。
「今回の陸海軍将校の行動を妄動的とみるのは必ずしも妥当ではない。これは窮情をきわめる農村の子弟に直に接することで感化を受け、既成政党の堕落、財閥の横暴に憤慨したものだ」
木戸は、のちに内大臣となり、戦時において天皇の側近として大きな影響力を持った人物です。また木戸孝允(明治維新の中心人物の一人)の孫でもありました。そんなエリートの有力者が、日記のなかでテロリストの言い分におおいに理解を示しているのです。
そして、こんな政府高官がいたのだから、もちろん同じような意見の一般大衆は多くいたわけです。
以上の司法・海軍・陸軍三省による共同声明や木戸の日記にあるような、テロを行った青年将校に共感する発想は、社会全般で力を持つようになっていきました。
そして、その力は、日本を戦争へと動かしました。つまり、「戦争によってさまざまな問題を解決しよう、社会を改造しよう」ということになったのです。
これは先に引用した昭和のエコノミスト下村治の言い方だと、「農村の生活水準の低さ、都市における失業問題」などの重圧に苦しんだすえに、人びとが正常な判断を失ってしまったということです。
4.大戦後、格差はどうなったか
戦争による破壊で「平等化」がすすむ
格差社会への憎しみが戦争を生んだ――少なくとも戦争へと国を導いたひとつの要素だとしたら、その結果は「格差の解消」という面でどうだったのでしょうか?
最初のほうで引用した、富裕層への所得の集中にかんする森口千晶氏のレポートでまたみてみましょう。
アジア太平洋戦争(日中戦争と太平洋戦争)によって、「上位1%」が所得の2割を占める状態は崩壊してしまいました。「上位1%」が占めるシェアは、終戦(1945)の直後には6~7%となりました。
また「上位0.1%」のシェアは、8~9%から2%ほどに下がっています。「0.1%シェア」の低下は、とくに大きかったのです。
そして、戦前には「上位1%」の所得の約半分を占めていた、配当・利子・地代などの不労所得は、ほとんど消滅してしまいました。
このように富裕層の所得が減ったのは、戦時中の経済統制で富裕層の財産や権利が失われたり、戦争の被害によって社会資本が破壊されたりしたからです。
終戦時の日本は壊滅状態でした。1945年(昭和20)9月時点で、日本国内の商船の80%、建物の25%、家財道具の21%、工場設備の34%、完成した製品の24%は失われていました。爆撃を受けた66都市の市街地の40%が破壊され、都市人口の30%が家を失っています。
そして、これらの失われた資産の多くは、富裕層が所有していたのです。
こうした破壊とともに、戦時中の経済統制も、富裕層に大きなダメージをあたえました。戦争が激しくなるにつれ、企業への統制はきびしさを増し、生産・価格決定・雇用・労働条件などの経営のすべてに政府の権限が及ぶようになっていきました。
1939年(昭和14)には利益配当を増やすことが禁じられました。1940年(昭和15)には重役への報酬の上限が定められ、1941年(昭和16)には賃料収入への規制も設けられています。所得税と法人税は1937年(昭和12)以降、1945年(昭和20)まで毎年のように引き上げられました。
地主層も、さまざまな統制を受けました。1938年(昭和13)の「農地調整法」で、国は地主に対し、小作地の売却や未耕作地の収容を強制できるようになりました。1939年(昭和14)には小作料や土地価格を据え置くことが政令で定められました。1942年(昭和17)の「食糧管理法」以降は、個人の必要分を超える地代は国庫におさめることになりました。
これらは「国家が富裕層からしぼり取る」政策です。戦争遂行のために社会の富を国家に集中させようとしたのです。
歴史学者ウォルター・シャイデルは、世界史上のさまざまな「破壊がもらした平等化」を扱った著書で、アジア太平洋戦争による日本の「平等化」に一章を割いています。
そして、ここで述べた「富裕層のシェア」「戦争の被害」「経済統制」などについて、日本の研究者による成果などをもとに説明しています(『暴力と不平等の人類史』鬼澤忍・塩原通緒訳、東洋経済新報社、2019年、上記の戦争の被害、戦時中の経済統制は、おもに同書による)。
シャイデルによれば《日本は、戦争由来の平等化の教科書的な事例をみせてくれる》のだそうです。 前にもみたとおり欧米でも、第二次世界大戦前にはきびしい格差社会で、戦争によって日本と同様の格差の縮小が起こりました。
つまり、日本でも欧米でも同様のことが起こったのですが、日本はとくに劇的・典型的だったということです。本記事で述べていることは、まさに世界史的な事例なのです。
戦争によって多数派の庶民は命をしぼり取られた
このように富裕層が財産をしぼり取られる一方で、多数派の庶民は戦争によって命をしぼり取られることになりました。
まず、食糧や物資の欠乏に苦しみました。これで健康や命をおびやかされるのは、庶民です。
たとえば、文部省の調査による全国の14歳の男子の平均身長は1939(昭和14)年度には152.1センチメートルでしたが、戦後最初の1948(昭和23)年度調査では146.0センチメートルになっていました。 もちろんこれは、多くの国民が栄養不良だったことを示しています(高橋昌紀『データでみる太平洋戦争』毎日新聞出版、2017年)。
かつて陸軍は「国民の体位・体力を向上させるべき」と言っていたのに、こんなことになってしまいました。
また、「空襲爆撃によって多くの建物が破壊され、都市人口の30%が家を失った」と前に述べました。富裕層はそれで資産を失ったわけですが、家を失った庶民の多くは、生存をおびやかされたのです。
そして、男性たちは、兵士として命がけの戦場に駆り出されました。1930年(昭和5)に日本の陸海軍の兵力の総数は25万人でしたが、1944年(昭和19)には537万人にふくれあがっていました。 「500万人」は1940年(昭和15)頃の日本のすべての男性(約3500万人)の7分の1にあたります。
アジア太平洋戦争を通じて、230万人の軍人・兵士が戦死し、民間人は80万人が犠牲になりました。合計で310万の日本人が亡くなったのです。その9割が戦局の悪化した1944年(昭和19)以降の犠牲とみられます。
また、アジア地域全体(日本人除く)では1900万人が犠牲なったという推定もあります(戦争の犠牲者については、吉田裕『日本軍兵士』中公新書、2017年)。
そして、戦争による死亡(戦死と戦災死)の割合は、特権的な富裕層とそれ以外の人びとでは、大きな差がありました。
社会学者の橋本健二氏は、戦後の統計調査をもとに、戦時中(ここでは1937~1947年)の戦争での死亡率が「資本家階級」はきわめて低かったことを指摘しています(『〈格差〉と〈階級〉の戦後史』河出新書、2020年)。
「資本家階級」の死亡率は、その調査対象の範囲では0.0%、つまりゼロでした。これに対し、同期間のすべての社会階層(資本家・上層ホワイトカラー・労働者・自営業・農家を合わせた全体)の戦争による死亡率は7.7%。なかでも「労働者階級」の死亡率は14.6%と高かったのです。
これは、1965年のSSM調査(社会階層についての詳細な全国調査、社会学者のグループが1955年以来10年ごとに実施)によるものです。この年の同調査には回答者の兄弟について、戦争における生死や職業を尋ねる設問がありました。
大戦後における格差の縮小・富裕層の所得は回復せず
その後、戦争の被害から日本全体が立ち直っても、富裕層の所得は回復しませんでした。
「上位1%シェア」は、戦後の占領期(1950年頃まで)にはシェアがやや回復しましたが、高度成長期(1950年代~1970年代前半)は8%になり、1970年代後半から1990年頃には7%まで低下しました。
しかし、1990年代からは上昇傾向になり、2008年に9.7%に達しましたが、その後はほぼ変わっていません(2010年までのデータ)。2008年には「0.1%シェア」も戦後最高の2.6%となりましたが、1930年代の8~9%よりもはるかに低い水準です(前掲森口レポート、以下富裕層のシェアの変遷については同レポートによる)。
そして、前に述べたように、現代の日本では富裕層の所得の大部分は給与所得で、不労所得はかぎられます。つまり、今の日本は戦前の格差社会とはかなりちがうのです。
これには戦争の直接的な影響のほか、戦後の占領期に行なわれた農地改革や財閥解体などによる富の再配分が影響しています。
たとえば、農地改革では、地主層が所有していた小作地の8割(当時の日本の農地の約4割)を国が強制的に買い上げ、その土地は農家の7割を占める小作農たちに有利な条件で払い下げられました。
さらに、その後の経済成長は、少数のエリート層に富が集中しにくいステムのもとで行われました。
たとえば、日本のおもな企業の経営者は、戦前のようなオーナー経営者ではなく、内部昇進のサラリーマン経営者ばかりになりました。経営者報酬も欧米にくらべれば大幅に低い水準です。そして経済成長によって、多くの人たちは安定した収入や暮らしを得たのです。
敗戦とその後の改革や成長の結果、戦争前夜に多くの人たちが苦しんだ「人口過剰」による格差社会は消滅しました。
ただし、その過程で軍人・民間人合わせて310万人もの日本人が亡くなったのでした。そして、戦場となったアジア諸国にも多大な犠牲や被害をもたらしました。
格差への不満や怒りというのは、恐ろしいものです。方向性をまちがうと、とんでもない負のエネルギーとなって社会に禍をもたらすのです。戦前から戦争の時代にかけての日本の経験は、それをよく示しています。それだけに格差の問題は、おろそかにはできません。
日本に限らず欧米のおもな国ぐにの格差も、戦争によって一挙に縮小しました。アメリカ・イギリス・フランスの「上位0.1%シェア」は、大恐慌や第二次世界大戦を経て、急速に下落しました。ただし、日本のほうが下落は激しかったのです。そして、1960~1970年代のこれらの欧米諸国の「0.1%シェア」は、日本と同じく2%程度でした。
1970~80年代以降の世界的な格差の再拡大
しかし、アメリカとイギリスでは、1980年代から「0.1%シェア」は急速に上昇し、2010年代のアメリカでは第二次大戦前の水準に達しています。そして日本でも、2000年頃から「0.1%シェア」の上昇がみられ、2010年頃には3%弱にまで上昇しました。
先ほど引用した社会学者・橋本健二氏は、戦後日本の格差・階級について研究した著書(前掲)の冒頭で、こう述べています。
《〔日本では〕二〇〇五年前後から、格差と貧困の問題がにわかに注目を集めるようになった。その少し前までは「日本は格差の小さい中流社会だ」いうのが大方の常識とされていたから、大きな変化である》
《〔そして、その後十数年経つうちに日本人は〕それを容認するにせよ、否定するにせよ、日本の社会には大きな格差が存在するということを意識するようになった》
このような現代の日本における「格差の拡大」については、ここでは具体的には立ち入りませんが、やはりこの問題は今の日本の課題といえるでしょう。
前に引用したシャイデルの『暴力と不平等の人類史』は、近年の先進諸国における格差の再拡大をふまえて書かれたものです。そして、この本では世界史上で劇的に「平等化」がすすんださまざまなケースを論じています。
この本の冒頭では、現代世界におけるすさまじい「富の集中」について、(2010年代までのものですが)たとえばつぎのようなデータを取り上げています。
・2010年には、全世界の貧しいほうから半分の人びとの個人資産と同額の富を、世界で最も裕福な上位388人が所有していた。しかし2015年には、世界の下位半分の人びとと同額の富をわずか上位62人で占めるようになった。
・アメリカで最も裕福な20人は2010年代後半現在、自国の下位半分の世帯の合計と同等の資産を所有しており、上位1%の人びとの所得は国民の総所得の5分の1を占める。
この手のデータは、アップデートされながら、近年はよくとりあげられます。そして、このような富の不均衡が世界の多くの地域――欧州や北米のほか、旧ソ連圏、中国、インド等――で拡大しているのというのです。
シャイデルは、OECD諸国の平均で上位1%の富裕層の所得シェアが1980~2010年で1.5倍になり、所得の不平等の度合いを示す指標である「ジニ係数」も大きく上昇したと述べています。
そして、旧ソ連圏、中国、インドについても、1970年代からの30~40年間における上位1%シェアや、ジニ係数の大幅な上昇を示すデータを取り上げています。
ここではこうしたデータには、これ以上立ち入りませんが、とにかく世界の広い範囲で所得格差の拡大を示すデータが存在するということです。
つまり、20世紀前半の世界大戦や社会主義革命によって富裕層の富や既得権が破壊され、その後の社会改革などで平等化が進んだものの、その後一応の平和、つまり世界大戦レベルの大戦争がない状態が長く続いたことで、戦前のような格差が復活してきたのです。
そのような状況を論じて2010年代にベストセラーとなったのが、トマ・ピケティの『21世紀の資本』(山形浩生・森岡桜・森本正史訳、みすず書房、2014年)でした。ピケティは同書でこう述べています。
《一九七〇年代以来、所得格差は富裕国で大幅に増大した。特にこれは米国で顕著だった。米国では、二〇〇〇年代における所得の集中は、一九一〇年代の水準に戻ってしまった》
《イギリスとカナダでも事態は同じ方向に動いている。大陸ヨーロッパと日本では、現在の所得格差は二〇世紀初頭よりはるかに小さい》。しかし《一〇年、あるいは二〇年の遅れがあるとはいえ、この国々の軌跡はいくつかの点で米国に似ている》
こうした現象に注目し、それまでになく幅広いデータに基づいて理論的な意味を系統的に論じたので、ピケティの本は話題になりました。
こうした研究の流れに、この章でくりかえし引用した森口千晶氏の仕事は属しています。またシャイデルの本は、ピケティに刺激を受けたものだといえるでしょう。
格差の問題をうまく取り扱うことができるか?
昭和の戦争の歴史が典型的に示すとおり、このような格差の拡大は、世界を不安定にする要因です。格差の問題は、平和のうちに民主的にうまく取り扱う必要があります。
つまり、「民主的な意思決定による、課税と分配」によって対応することです。また経済成長や技術革新によって、人びとの生活レベルを底上げすることも重要でしょう。
でも、ほんとうにうまく扱えるのでしょうか?
世界史上の格差縮小について論じたシャイデルの著書を読むと、そこはかなり悲観的になります。
シャイデルは、世界史において「戦争」「革命」「(国家の)崩壊」「疫病」といった暴力的破壊こそが不平等を強力に是正した「平等化の四騎士」だったと述べています。そのほかの有力な平等化のメカニズムは、歴史上に見当たらないのだといいます。
ただし、シャイデルによれば、この「四騎士」のうち西ローマ帝国の滅亡のような壊滅的な「崩壊」や、中世ヨーロッパのペストのような激烈な「疫病」は、20世紀までには少なくとも先進国ではみられなくなりました。
なお、異民族の侵入と内乱がもたらした西ローマ滅亡(西暦400年代後半)では、生産・流通システムなどが崩壊して生活水準が劇的に下がっています。多くの都市が壊滅的となり、富裕層の富は大きく失われました(このことはシャイデルも述べているが、ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊』白水社、2014年に詳しい)。
また、中世ヨーロッパのペスト(1300年代)では、人口の3分の1以上が死亡したことで労働力不足となり、それが労働者・農民の待遇向上につながったのです。
20世紀には、世界大戦のような「戦争」と、ロシアや中国の社会主義革命のような「革命」が、平等化をうながす暴力的破壊として大きな影響力を持ちました。
この記事では第二次世界大戦について述べましたが、20世紀前半に起こったロシアや中国の社会主義革命(ロシアの十一月革命:1917年、中華人民共和国の建国:1948年)も、それぞれ数百万~千万単位の犠牲者を出す大きな暴力をともなうものでした。それらの革命には、世界大戦の破壊に匹敵する平等化の作用がありました。
しかし、シャイデルは、現代では世界大戦のような《大量動員戦争は、もはや過去のもの》《変革的革命は、大量動員戦争以上にすっかり時代遅れとなった》とみています。
たしかにそうのでしょう。だとしても、では今の私たちは、平等化を促す強力な手段として戦争や革命以外の「時代遅れ」ではない何かを持っているのでしょうか?
まず考えられるのは、やはり「高い税率(とくに富裕層への)と幅広い人びとへの再分配」という政策です。
しかし、それを拡充することのむずかしさは、近年における富裕層への富の集中をみれば明らかです。近年は世界の多くの国で、税制などが富裕層に有利な方向に傾いていると、ピケティほかの多くの識者が指摘しています。
シャイデルが示すデータでは、たとえばアメリカでは、1980年から2013年にかけて、収入の多い上位0.1%の世帯への平均の所得税率は42%から27%に、資産への平均の課税率は54%から40%に下がりました。
そして、アメリカの上位0.01%の超富裕層による選挙運動への寄付は、1980年代には寄付による選挙運動資金の10~15%でしたが、2012年には40%以上を占めるようになったといいます。
つまり、近年の超富裕層は有利な環境のもとでますます富裕になり、その資金で政治への影響力をさらに強くしているということです。
むすび・戦争という敵を過少評価してはいけない
現行の政治・経済のしくみのなかでは、格差の是正ということは容易ではありません。そのしくみを平和的に変えるには、たいへんな努力と知恵が必要なはずです。
「戦争や暴力的革命で問題解決する」などという方向に陥らない、安定した社会を築くには、それこそ戦争を行うのに匹敵する努力がいるのでしょう。
哲学者のオルテガ・イ・ガセット(1883~1955)は、まさにそんなことを言っています。
オルテガは、第二次世界大戦(1939~1945)前夜の1937年に、大衆社会批判の古典である主著『大衆の反逆』のフランス語版に加えた「平和主義について」と題したあとがきでつぎのように述べています。
《戦争というとてつもない努力を回避するには、……戦争より数段大きな努力、複雑きわまりない努力の体制〔が必要である〕》
そして、オルテガは、「戦争という敵を過小評価してはいけない」ということも、強く訴えています。
つまり、努力や知恵が足りないと、大規模な戦争や暴力的な革命という「時代遅れ」の手段が、格差の是正という正義と結びついて何らかのかたちで復活しないとも限らないということです。
そうならないために、きびしい格差社会だった昭和の日本がたどった道について知っておくことは、やはり意味があるはずです。
(以上)
