ビザンツ化する現代世界(新しい中世ではない)前編・生き残ったローマ帝国
前編(全3回の第1回)
生き残ったローマ帝国
0.はじめに・「ビザンツ化」とは
ビザンツは現代世界に似ている?
かつて、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)という国がありました。西暦400年頃以降、ローマ帝国の東半分の地域に成立した、古代ローマ帝国の末裔です。
「東半分」とは、ギリシアやその周辺のバルカン半島、今のトルコがあるアナトリアなどのこと。400年代後半にローマ帝国の西半分は体制崩壊してしまったので、ビザンツは「生き残ったローマ帝国」といえます。
この国は、1000年以上も続きました。その滅亡は1453年です。この年、当時のイスラムの大国オスマン朝の攻撃によって、首都コンスタンティノープルが陥落したのです。
ビザンツは、偉大な文明が長い歴史の果てにたどりついた社会でした。
つまり、ビザンツの文明は、紀元前からのギリシアやローマの都市文明を継承していました。しかし、時間とともに先行の文明とは異質なものになっていきます。
ビザンツ帝国は、世界史の教科書では、古代ギリシアやローマ帝国に比べるとマイナーな存在です。しかし、ビザンツには、以下に述べるように現代の先進国を思わせるところがあって、興味深いと思います。
現代の先進国もまた、ルネサンス以降の近代文明が数百年の歴史を経てたどり着いた社会なのです。
ビザンツ研究者の井上浩一氏は、現代世界は「ビザンツ化」が進行していると述べています。つまりそれは「現代世界はこの数百年来の近代西欧文明を受け継いでいるが、その文明が変容しつつある」ということだと、私は思います。
《二〇世紀の終わりになると、近代西欧文明の行き詰まりに「新しい中世」という表現が与えられるようになった。……しかしながら、現実に進行している時代は、むしろ「新しいビザンツ」と呼ぶべきだと私は考える》
ビザンツ帝国は、皇帝専制(独裁)が特徴的な国家でした。そして、上記で引用した著書が出版されたのは2009年ですが、すでにその当時、井上氏は現代世界で「時代の大きな流れが民主政から独裁制に向かっている」と指摘しています。
20世紀のナチズムやソ連の社会主義のような独裁体制は清算され、民主主義は勝利したはずでした。しかし、現代においてまた独裁化の流れが起きている、これは「新しいビザンツ(ビザンツ化)」であると、井上氏は述べています。
たしかに、井上氏の指摘から2020年代現在まで、世界では民主主義が揺らいだり後退したりする傾向があちこちでみられます。また、中国という共産党が独裁的権力を持つ国家の存在感も、おおいに増していったのです。
それを「ビザンツ化」とは一般には言いませんが、そのような「民主主義の後退」についてはよく指摘されることです。
そして、ビザンツの皇帝専制は、ギリシアの民主政や、その影響を受けたローマの共和政や元首政のなかから長い歴史を経て生まれたものでした。つまり、従来の民主主義がそのまま発展せず、ちがう方向へ変化した結果です。その点で、現代世界における反民主主義の動きと共通性があります。
この記事は、井上浩一氏の著書をおもな参考文献として、ビザンツについて「世界史に特別な関心を持たない人も知っておいてよい」と思われる基本的な事柄を述べていきます。そして、「現代世界のビザンツ化」という、あまり聞きなれない主張を打ち出していきます。
現代世界が「ビザンツ化」しているからこそ、私たちはビザンツについて知る必要がある、というわけです。
「ビザンツ化」とは「古典の衰退」
ビザンツでは、キリスト教が国家宗教として圧倒的な影響力を持ちました。キリスト教は1世紀のローマ帝国で生まれ、初期には異端の少数派でしたが、しだいに優勢となって300年代末にはローマ帝国の国教となりました。ビザンツ帝国はそれを受け継ぎ、キリスト教はさらに深く社会に根づいていきました。
これに対し、古典期(ポリスの時代、前400~前300年代)のギリシアやキリスト教以前のローマでは、合理的な学問・科学や人間中心の価値観が、少なくとも知識人のあいだでは有力でした。ギリシアで生まれた古代の科学は、ローマ帝国にも引き継がれました。
しかし、こうした合理的な世界観はそのまま発展することなく、ビザンツでは神に救いを求める観念的な世界観が圧倒的になったのです。
キリスト教は、「ポスト真実(ポスト・トゥルース)」の古代バージョンといえるのではないかと、私は考えます。
「ポスト真実」とは、要するに「合理的・現実的に世界をみることに背を向け、自分の望むこと、思い描く観念にもとづいて世界をみる傾向」のことです。キリスト教のような一神教は(信仰を持たない立場からみれば)「ポスト真実」のひとつのあり方ではないでしょうか。
近年の世界でポスト真実の傾向が強くなっていることは、よく指摘されます。フェイクニュースや陰謀論の氾濫などは、まさにそうです。現代のポスト真実も、観念重視という点で「ビザンツ化」といえないでしょうか。このことは、あとでまた説明したいと思います。
そして、「ビザンツ化」とは、結局のところ「古典の衰退」ということだと、私は考えます。
ここでいう「古典の衰退」とは、「これまで正統や権威とされてきた価値の影響力が衰えていくこと」です。
古代ギリシア・ローマの明と近代文明の両者にとって、民主主義や科学、その基礎となる価値観や社会のあり方は「古典」といっていいでしょう。古代(ギリシア・ローマ)でも近代でも、文明として最も活力や勢いがあった栄光の時代に、これらの要素は重要であり、力強いものでした。
もちろん、古代ギリシアやローマでは、独裁的・専制的な権力のあり方や、神がかり的な世界観も、有力ではありました。しかし、そのような旧来的な価値観一辺倒ではなく、それと対立する民主主義や科学が、かなりの権威や影響力を持っていたわけです。とくに古代ギリシアやローマの最盛期といえる時代に、民主主義や科学は有力だったのです。
そのような、過去の栄光の時代を支えた価値あるもの・正統とされてきたものを、ここでは「古典」と呼んでいます。このような「古典」のとらえ方は、ここでの主張の大事な要素ですので、とくに確認しておきます。
「生き残ったローマ帝国」であるビザンツでは、受け継いだ古典的要素がしだいに変質・衰退していきました。その結果、まさに「ビザンツ的」といえる社会が生まれました。
そして、現代の先進国で起こっていることも、民主主義などの近代社会における重要な「古典」の衰退、あるいはその前兆といえるのではないでしょうか?
こうした視点で、これからビザンツ帝国という国についてみていきます。
成熟文明の先行事例としてのビザンツ
では、ビザンツはどんな社会だったか。より詳しく述べる前に、とりあえずここでざっとまとめておきます。
ビザンツ帝国では、古典期のギリシアや最盛期のローマ帝国にあったような活気は、衰えてしまいました。都市の自治組織を通じた集団的な結びつきも弱くなりました。人びとの政治参加は、こうした組織を通じて行われるものだったので、自治的な組織の衰退は民主政の衰退でもありました。
ビザンツは絶対権力者の皇帝がばらばらの個人を支配する、個人主義的な社会になっていったのです。
そして、国をあげて信仰されたキリスト教は神や権威への服従を説き、皇帝の支配を正当化しました。神の世界に人びとは魅かれていきました。
文化の洗練はすすみましたが、革新性は後退し、文化人のアウトプットは、過去の文献の注釈や引用が多くを占めていました。形式と儀式、先例や伝統にこだわる煩雑さが、ビザンツ文化の特徴でした。
一方、経済的な繁栄はかなり維持されました。国家が市民に娯楽と食糧を無償で提供する「パンとサーカス」も、相当の期間続けられ、市民は戦車競走のイベントに熱狂しました。このような、国家・社会が提供する手軽なコンテンツが、多くの人びとの生きがいになりました。
その一方で、かつて「ローマの平和」といわれた帝国の優位は失われていきまし。ビザンツは絶えず周辺の異民族からの脅威にさらされました。
井上浩一氏は、つぎのようにまとめています(著者が多少整理した)
ビザンツの文明には地域のコミュニティや団体への参加意識が希薄な「個人主義」、皇帝権力や神の権威にひたすら従う「権威主義」、伝統や形式にこだわる「伝統主義」といった特徴がみられる。
やはりこれは、現代の先進国の状況と似ているのではないでしょうか?
以上のことは、今の世界でも思い当たることばかりです。民主主義の停滞や後退、コミュニティの衰退とばらばらの個人、観念重視のポスト真実、「パンとサーカス」を求める大衆、煩雑なルールや縛りの増加、精緻化した・しかし活気の衰えた文化、先進国を脅かす新興勢力の台頭……。
つまり、ビザンツの歴史は「民主主義や科学を古典的な要素として含む成熟文明」の先行事例なのです。それは現代世界がどこに向かっているかを考えるうえで、おおいに参考になるはずです。
「新しい中世」ではない
なお、現代世界における近代文明の行き詰まりや変化を「新しい中世」と呼ぶのは、井上浩一氏も述べているとおり、やはり適当ではないと思います。現代世界で起こっていることは、「ビザンツ化」というほうがふさわしいと、私は考えます。
一般に「中世」というと、西欧の中世を多くの人は思いうかべるはずです。しかし西欧の中世は、ローマ帝国(西半分の西ローマ帝国)の体制崩壊によって、それまでの成熟した経済や文化が大きくダメージを受け、そこから復興・再編を行う過程で成立した世界です。
西ローマ帝国の跡地では、ローマ時代に栄えた都市のほとんどが、中世の初期あるいは古代末期(500~600年代)には大幅に衰退するか消滅しました。それに伴って貨幣経済も極端に衰え、豊富で高品質だった日用品の多くは生産量も品質も大きく低下してしまいました。つまり高度の経済や文明生活が、体制崩壊とともに失われてしまったのです(ブライアン・ウォード=パーキンズ『ローマ帝国の崩壊』南雲泰輔訳、白水社、2020年)。
また、ゲルマン人の侵入で、民族構成もローマ時代とは大きく変わりました。
つまり、単純化していえば、西欧の中世は、それまでの文明がリセットされた後に生まれた、新しい文明でした。そしてその新しい文明がのちに飛躍的に発展して、近代文明が生まれました。西欧の中世は、現代世界の成熟した文明とは歴史上の立ち位置が異なる、発展途上の若い文明なのです。
そんな西欧の中世よりも、ビザンツのほうが現代世界、とくに現代の先進国に似た位置にあります。ビザンツは体制崩壊しないで生き残ったローマ帝国の東半分です。つまり「偉大な文明の長い歴史や伝統をストレートに受け継いだ成熟社会」なのです。
ビザンツは長いあいだ続いて、受け継いだ伝統を変化させていきました。異質な文明への「移行」「変容」というのは、西欧ではなくビザンツにこそあてはまります。
そして、ビザンツが出発点として受け継いだ古典的な要素に、とくに古代ギリシアで発達した「民主主義」「合理的な学問・科学」があることが重要です。また、それらの要素は、都市を基盤として展開したものでした。つまり、古代ギリシアとローマ帝国の文明は都市が主役の「都市文明」の一種でした。この点も、近代文明と共通しています。
単に長い歴史や伝統であれば、中国やインドなどのほかの大きな文明にもあることです。しかし、それらの文明では、民主主義や科学は皆無であるかマイナーな扱いでした。一方、ビザンツに先行するギリシア・ローマの文明では、民主主義や科学という近代文明と共通性の強い要素が、近代ほどの優位ではないとしても重要なものとして存在していました。
そのような共通性があるからこそ、現代社会とビザンツを比較する意味があります。
1.「ビザンツ」の成立
西ローマの崩壊と東ローマの存続
では、ビザンツ帝国という国は、どういう経緯で成立したのか? 最初に述べたように、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、ローマ帝国の末裔です。
ローマ帝国は1世紀から西暦300年代(とくに100年代)に繁栄し、地中海全体を囲む広い領域を支配しました。まさに、当時の世界を代表する超大国でした。
しかし、300年代からは帝国を東西に分けて統治する動きがすすみ、300年代末には西半分(西ローマ帝国)と東半分(東ローマ帝国)に分裂することが決定的になりました。これは内乱によるものではなく、巨大な帝国を分割統治することで立て直そうとする、当時の政治的決断です。

西暦100年代の最大領域と東西の境
(地図は拙著『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫より)
その後、西ローマ帝国は、400年代後半には内乱で崩壊してしまいました。「民族大移動」といわれる大きな波にのみ込まれたのです。476年には、西ローマ皇帝に仕えていたゲルマン系の軍人オドアケルが反乱を起こし、皇帝を廃位しました。つまり、「皇帝という存在はもう要らない」と宣言したのです。これが一般に「西ローマ帝国の滅亡」とされます。
西ローマ帝国の崩壊後、その跡地には、イタリア半島の東ゴート王国などゲルマン人によるいくつかの王国が成立していきました。民族の勢力図が大きく塗りかわったのです。そして、西ローマの跡地では都市の多くが衰えて、経済や文化は大きく後退しました。
たとえば、ローマ市は最盛期(西暦100年代)には人口100万に達し、400年頃にも人口80万人の巨大都市でしたが、400~500年代の動乱の影響で人口が激減し、500年代後半には8万人ほどになってしまいました。
一方、ギリシアを中心とする帝国の東半分=東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、皇帝による支配が西の体制崩壊の後も存続しました。
ゲルマン人の移動の影響を最初に受けたのは、じつは東側でした。しかし、体制崩壊したのは西側でした。これは、当時の西と東の政治体制のちがいが影響しています。つまり、西では富裕な権力者が各地で割拠する傾向が強く、皇帝の求心力が弱まっていたのに対し、東では皇帝のもとに力を結集させて、外部からの攻撃に対抗できたのです(南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』岩波新書、2013年)。
最盛期は500年代・ユスティニアス大帝の時代
しかし、帝国が残った東ローマ(ビザンツ)も、最盛期のローマと比べれば領土も縮小して国の勢いは衰えてしまいました。
それでも東ローマは長期にわたって世界の大国のひとつであり続け、発達した文化・経済は周辺諸国の羨望を集めました。都市の繁栄も、西ローマの跡地のような全面的な衰退はなく、一定程度続きました。とくに首都コンスタンティノープルは、同時代を代表する都市としておおいに繁栄しました。
この帝国に最も勢いがあったのは、500年代のユスティニアヌス1世(在位527~565)の時代です。当時はエジプトなどの北アフリカ、イタリア半島、今のスペインにあたるイベリア半島の一部といった、かつての西ローマ帝国の領土をゲルマン系の勢力から奪い、最盛期のローマ帝国の領域をかなり回復しました。一時期であっても、巨大なローマ帝国を再興したのです。ユスティニアヌス1世は「大帝」ともいわれます。
しかしその後、600年頃以降は、東側で隣接するササン朝ペルシア(今のイランなど)やバルカン半島に侵入してきたスラブ人、新たに台頭したイスラム勢力などと戦うなかで領土は縮小していきました。
700年頃以降、東ローマの領域は、バルカン半島とアナトリア、そしてイタリア南端とシチリアの範囲を超えることはなく、やがてさらに縮小していったのです(井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書、1990年、現在は講談社学術文庫)。

かなり小さくなった東ローマ(ビザンツ)帝国
「ローマ」と「ビザンツ」
東ローマ(ビザンツ)の住民の中核はギリシア系です。ローマ帝国の主要言語だったラテン語も用いられましたが、ギリシア語のほうが優勢でした。そして、その傾向は、600年代以降さらに明確になっていきました。
しかし、東ローマの人びとは自分たちを「ギリシア人」ではなく、あくまでローマ帝国の人間であるとして「ローマ人」と称しました。
なお「西ローマ」「東ローマ」は後世の歴史家による呼び方で、当時のものではありません。そして東ローマのもうひとつの呼び名である「ビザンツ」は、コンスタンティノープルの古い名称であるビザンチウムにちなんだものです。
ただしビザンツというのも、近代以降の西欧で呼び方です。中世の西欧では、東ローマ(ビザンツ)人を「ギリシア人」と呼びました。
その呼び方には西欧側の対抗意識があります。「あんなものは正統なローマ帝国ではない。ローマの正統な後継者はこっちだ」という意識です。西欧の人びとには、ローマという過去の大帝国へのあこがれがありました。また、ルネサンス以前には西欧よりもビザンツのほうが文化的な先進地域でした。そこで西欧にはビザンツに対するコンプレックスもあったのです。
一方、ビザンツ人の自称はあくまでローマ人でした。隣接するイスラム側でも、その自称に従ってビザンツのことをアラビア語でもペルシア語でもトルコ語でも「ルーム(ローマ)」と呼びました。イスラム側には「ローマ」についてのこだわりはありませんでした。
そして、1300年代以降のルネサンスの時代になると、西ヨーロッパではそれまでのローマに加え、古代ギリシアの文明が高く評価されるようになりました。ルネサンスというのは「再生・復興」という意味ですがが、それは古代のギリシア・ローマの文化を復興することを意味しました。ギリシアが再評価されると、ギリシア人というのもローマ人同様に栄誉ある称号になります。
そこで、1500年代以降、近代の西欧の人びとは、ローマでもギリシアでもない「ビザンツ」という名でローマ帝国の東側を呼ぶようになったのです。ビザンツというのは、この帝国の首都コンスタンティノープルの古い名称・ビザンチウムにちなんでいます。
ビザンツという名称には、そういうややこしい経緯があります。ここからは、ビザンツという表記で統一します(「ローマ」と「ビザンツ」の呼称については、前掲『ビザンツ 文明の継承と変容』による)。
2.「新しいローマ」の繁栄
首都コンスタンティノープル
ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(コンスタンティノポリス)は、西暦400~500年代において、世界で最も繁栄した都市でした。前に述べたように500年代にはかつての「永遠の都」ローマ市は衰退していきました。
コンスタンティノープルは現在のイスタンブール(トルコ共和国)で、1400年代後半にオスマン朝に征服されてから現在の名称になりました。コンスタンティノープルという名称は、300年代前半にこの都市を大規模に再開発したローマ皇帝・コンスタンティヌス1世(在位306~337)にちなんだものです。
ただし、コンスタンティノープルに歴代の皇帝が常駐するようになり、明確に「首都」といえるようになったのは400年頃以降のことです(中谷功治『ビザンツ帝国』中公新書、2020年)。
なお、コンスタンティヌス1世は、ローマ皇帝として初めてキリスト教に改宗した人物です。キリスト教国家としてのローマ帝国の基礎を築いたといえます。彼によって首都と国教が決まったのだから、まさにビザンツ帝国の出発点といえる皇帝でした。
そして、400年代にはコンスタンティノープルを外敵から守る堅牢な城壁がつくられました。
コンスタンティノープルの市街は三角形の半島の先端にあり、三方が海に囲まれています。そして、城壁は半島の陸地側に7キロほどにわたって続いています。その基礎は413年に築かれましたが、447年に遊牧民のフン族がコンスタンティノープルの近くに攻めてきた際に大急ぎで強化され、完成形となりました。
この城壁は二重になっています。その「本体」といえる内側の城壁は447年に建設されました。その高さは平均12メートル、幅は5メートル。ほぼ等間隔で96の塔が配置されていました。
この内側の城壁は、413年につくった外側の城壁の補修とともに、2か月ほどの突貫工事で完成しています。当局と市民が一丸となって行ったことでした(コンスタンティノープルの城壁については、前掲『生き残った帝国ビザンティン』による)。
そしてこの城壁は、その後ビザンツ滅亡まで維持されて、破られることはありませんでした。1453年にオスマン帝国軍によってコンスタンティノープルが陥落したときも、城壁が物理的に大きく破られたというよりも、城壁の門のなかに施錠されていない箇所があり、オスマン帝国軍の侵入を許したのです。
ここは「新しいローマ市」である
500年代前半、ユスティニアヌス一世の時代のコンスタンティノープルの人口は、約50万人と推定されています。ただし、20~30万人という説もあります(根津由喜夫『ビザンツの国家と社会』山川出版社、世界史リブレット、2008年など)。
当時はローマ市も衰退していたので、世界最大級の都市といえます。しかし西暦100年代に人口100万に達した最盛期のローマ市には及びません。
それでも最盛期のローマ帝国、とくに首都ローマ市でさかんに行われた食糧と娯楽の無償提供――「パンとサーカス」の公的なサービスは、400~500年代のコンスタンティノープルでも行われました。
当時のコンスタンティノープルに住む市民の多くは、パンなどの食料の配給を受けることができました。400年頃までには、おもにエジプト産の大量の穀物を運び入れるための港や食糧倉庫も、かつてのローマ市のように整備されました。 エジプトは最盛期のローマ帝国以来の支配地域であり、重要な穀倉地帯でした。
また、コンスタンティノープルでは無償の見世物として巨大な競技場で戦車のレースが連日行われ、多くの市民が熱狂しました。ローマ市のコロッセオで行われたような剣闘士の戦いは300年代には廃れ、ビザンツで人気を集めたのは戦闘用馬車を走らせる「戦車競走」でした。
コンスタンティノープルのビザンチオン競走場は収容人数5~10万人。15万人収容といわれるローマ市の巨大な競走場キルクス・マキシムスには及ばないものの、大規模な施設でした。
そこでのレースが、500年代の盛んな時期には年間に100日以上、1日に多いときは20~30回は行われていました。戦車競走の名選手はヒーローとしてもてはやされ、像が立つこともありました。
戦車競走は「青組」「緑組」などといわれるチーム単位で競い合いました。そして、各チームの活動を支える市民の後援団体も組織され、「青のデーモス」「緑のデーモス」などと呼ばれました。
デーモスとは、もともとは「民衆」「市民」のことです。市民はどれかのチームに思い入れをもって熱心に支援や応援を行いました。まるでサッカーや野球の応援のようです。この「青」や「緑」などのデーモスを通して、市民が政治や公共事業に参加することもありました。
そして、広い意味で「パンとサーカス」の一部といえる大規模な公共浴場(テルマエ)も、400~500年代のコンスタンティノープルにはありました。400年代初めのコンスタンティノープルにはおもに皇帝が建てた9つの公共浴場がありました。
こうした公共浴場は、市民のための総合娯楽施設という性格のもので、多くの場合風呂だけでなく運動場、庭園、店舗などを備えた、市民の交流の場でした。
そして、浴場に水を供給するのに不可欠な、水道施設も整備されていました。戦車の競走場は大都市にしかありませんでしたが、浴場はビザンツのどの都市にもあり、いずれもにぎわっていました(コンスタンティノープルにおける「パンとサーカス」、戦車競走、公共浴場については、前掲『ビザンツ 文明の継承』による)。
要するに、最盛期のローマ市(都市としてのローマ)の市民生活を成り立たせる要素は、コンスタンティノープルにも再現されていました。ここは「新しいローマ市」であると、当時のコンスタンティノープルの人びとは感じていたはずです(前掲『生き残った帝国ビザンティン』)。
つまりこういうことです――ローマ帝国の根幹は揺らいでいない。西半分がゲルマンに荒らされ都が東に移ったが、帝国の繁栄は依然として続いているし、これからも続くだろう――それが、西ローマ帝国が滅びた頃のビザンツの人びとの認識でした。
3.危機の時代とその後の変化
600年代を中心とする危機
これまで述べたとおり、ビザンツ帝国は、古代ギリシアの文明を受け継いだローマ帝国の末裔です。400~500年代において、ローマ帝国の文明は、ほぼそのままビザンツに受け継がれました。しかしその後、100年単位の時間の経過とともに変化していったのです。
とくに変質がすすんだのは、600~700年代のことでした。とくに600年代のさまざまな危機が境目になっています。
大帝国を一時復活させたユスティニアヌス1世が死去して以後、600年頃からはかつての大規模な遠征による財政悪化など、国家の疲弊がはっきりしてきました。そして、ササン朝ペルシア、スラブ系諸族(東欧の新興勢力)、その他の異民族の攻撃が激しくなりました。600年代後半からは、ササン朝を滅ぼした新興のイスラム勢力も大きな脅威となりました。それらの勢力の攻撃で、領域の縮小も起こりました。
また、600年代からやや遡りますが、ビザンツでは540年頃からペストの大流行がありました。これは明らかにペストと確認できるパンデミックとして史上初のもので、当時の皇帝ユスティニアヌス1世にちなんで「ユスティニアヌスのペスト」といわれます。
このペストは、コンスタンティノープルをはじめとして、ビザンツ帝国の各地で猛威をふるいました。最悪の時期にはコンスタンティノープルで「死者が1日に1万人になった」という報告も残っています(同時代の歴史家プロコピオスによる)。社会機能の停止による飢餓も発生しました(ユスティニアヌスのペストについては、立川昭二『病気の社会史』NHKブックス、1971年、サンドラ・ヘンペル『ビジュアル パンデミックマップ』武田誠・和田美文日本語版監修、関谷冬華約、日経ナショナルジオグラフィック社2020年)。
このペストは西欧などのビザンツ周辺の地域にも広がり、500年代末にようやく落ち着きました。最終的にビザンツ領内の人口の半数がこのペストに感染したとする説もあります。つまり、これは1300年代ヨーロッパのペストにも匹敵するパンデミックだったのです。
それで社会が大きなダメージを受けたあと、600年代には周辺の異民族による危機が深刻化したのでした。また、ビザンツやその周辺地域では、ペストの流行が600年代以降も完全には終息せず、散発的に750年頃まで続きました(村上陽一郎『ペスト大流行』岩波新書、1983年)。
危機の時代以後の変化
それでも、500~600年代のペストや異民族の攻撃による一連の危機はどうにか克服され、帝国は存続しました。しかし、ローマ市の最盛期の再現のようなコンスタンティノープルの繁栄は様変わりしていきました(以下、戦車競走、パンの配給、公共浴場、劇場、都市の衰退については、前掲『ビザンツ 文明の継承』、根津前掲書による)。
たとえば、600年代には戦車競走の開催は大幅に少なくなり、やがて年数回ほどの限られた機会に儀式的に行われるだけになっていきます。
618年には「パン」の配給も廃止されました。これは財政難に加え、重要な穀倉地帯だったエジプトをササン朝ペルシアに奪われことが大きく影響しています(前掲『ビザンツ 文明の継承』)。
各地の大規模な公共浴場も、600年代以降は消えていきました。それでも風呂屋は残っていたようですが、かつてのようにさまざまな娯楽施設を備えた大規模なものではなくなっていました。公共浴場という最も多くの水を必要とする施設が消えるとともに、水道施設も縮小していきました。
たとえば、コンスタンティノープルでは、626年にアヴァール人という遊牧民の攻撃で主要な水道のひとつが破壊されましたが、それでも不便がないせいか、その後150年近く修復されないままでした。
劇場も、ローマ帝国では都市の重要な施設であり、500年代までは各都市に劇場があってにぎわっていましたが、これも600年代以降は寂れてしまいました。
そして、600年代を中心とする危機の時代以降は、都市全般が衰退していきました。たとえばその時期にアテネ、サルデス(アナトリア東部)、アンカラ(アナトリア中部)などのおもな都市では、広範囲の市街地が放棄されて、都市の範囲は防御を固めた狭い一画だけになってしまいました。それらはもはや「都市」というよりは、「城塞」というべきものでした。
そんな中でもコンスタンティノープルは、帝国の首都としての威信を保ち続けました。皇帝政府の官僚機構が相当に機能して、領土が縮小しても、効率的に税を中央に集めたからです。
西ローマやその跡地では、中央政府の支配が及ばない(つまり徴税できない)地域ごとの権力ができていきましたが、ビザンツでは中央に富が集まるしくみが維持されていました。ユスティニアヌス1世の時代(500年代)よりもこぢんまりとまとまった領域になったので、防衛や統治がしやすくなったということもありました(ジョナサン・ハリス『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』井上浩一訳、白水社、2018年、根津前掲書による)。
しかし、それでもコンスタンティノープルでは、度重なる異民族の脅威やパンデミックで、人口減少やインフラの衰退がおきています。
また、715年にはイスラム(アラブ人)の襲来に備え、「3年分の食糧を自前で備蓄できない住民はコンスタンティノープルから退去すること」が命じられ、さらに人口は減ってしまいました。こうして700年代前半には、コンスタンティノープルの人口はユスティニアヌス一世時代(50万人)の数分の一になってしまいました(ハリス前掲書など)。
そして600年代から700年代前半には、軍事関係以外では大規模な公共施設の建設は皆無でした。この時期、国家予算の大部分は、異民族と戦うための軍事費に費やされたとみられます(ハリス前掲書など)。
国は小さくなったが、安定を取り戻す
それでもビザンツ帝国は、700年代後半には体制を立て直し、安定を取り戻し始めました。コンスタンティノープルの人口もかなり回復していきました。
コンスタンティノープルは717~718年にアラブ人たち(イスラム勢力)の大軍に包囲されましたが、徹底抗戦してアラブ軍を撤退させています。これを最後にアラブ軍がビザンツの首都を総攻撃することはなくなりました。コンスタンティノープルの防衛には、堅牢な城壁や、住民による食糧備蓄がおおいに役立ちました。そして、740年にも大きな戦いでビザンツはアラブ軍を破っています(ハリス前掲書)。
600年後半に開発された「ギリシアの火」といわれる有名な武器も、アラブとの戦いでさかんに用いられました。硫黄や石油などを合成した半液体状の発火物で、「その火は水で消すことができなかった」と伝えられています。これをポンプの一種などで発射し、敵の船を攻撃するのです。その製法は国家機密とされ、今も詳細はわかりません。ただし、現代では、「その威力は伝説的に語られるほど絶大なものではなかった」とみられています(ハリス前掲書)。
しかし、ギリシア科学の伝統を受け継いだ文化国家らしい「ハイテク兵器」だったといえるでしょう。
ビザンツ史研究者のジョナサン・ハリスは、ビザンツ人はアラブ人を撃退して、《帝国はユスティニアヌスの時代よりも小さく貧しいかもしれないが、決して滅亡することはない》という確信を得たと述べています(前掲『ビザンツ帝国 生存戦略の一千年』)。
しかし、安定を取り戻したとはいえ、これまで述べたようにビザンツ社会はかつてのローマ帝国の延長線上とは異質なものに変化していったのです。戦車競走や大規模な公共浴場がほぼ消滅したこと、「パン」の配給の廃止は、それを象徴しています。
これらの事柄は、混乱がおさまれば復活してもよさそうなものですが、そうはならなりませんでした。社会が深いところで大きく変化したからです。
(第2回へ続く)
第2回(中編)は、600年代を中心とする「危機の時代」以降、ビザンツ帝国がどのように変化したかについて。民主主義の後退と皇帝の専制化、コミュニティの形骸化と個人主義、キリスト教がさらに圧倒的になったこと、伝統へのこだわりなど。
