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ビザンツ化する現代世界(新しい中世ではない)中編・「危機」後の変化


中編(全3回の第2回)
「危機」後の東ローマ(ビザンツ)の変化


4.皇帝による専制政治が確立


民主政・共和政が生み出した皇帝専制


では、600年代を中心とする、異民族からの攻撃による「危機の時代」以降、ビザンツ社会で起こった「深い変化」とは、どういうものだったか。

この「危機」の後に、それまでのローマ帝国とは異質な、まさに「ビザンツ的」といえる社会が姿をあらわしたのです。

まず、民主主義的な政治のあり方が変化しました。民主主義とは、多くの市民が政治参加して、それが権力を拘束するということです。そのような伝統は、民主主義で有名な古代ギリシアだけでなく、最盛期(おもに1世紀から100年代)のローマ帝国にもありました。ローマの文明は、ギリシアの影響をつよく受けています。しかし、ビザンツでは、ギリシア・ローマの民主主義はすっかり後退し、皇帝による専制的(独裁的)な政治が行われるようになったのです。

「皇帝」というと絶対権力者のイメージがありますが、ローマ帝国の最盛期にあたる元首政時代(帝政前期)のローマ皇帝は、元老院やさまざまな法・慣習から拘束を受けました。軍隊や市民の支持を絶えず意識して政治を行わざるを得なかったのです。皇帝が暴走することはありましたが、何にも縛られない専制君主というわけではありませんでした。

つまり、さまざまな人びとの政治参加という民主政的な側面が、最盛期のローマ帝国の政治体制にはあったのです。だからこそ、皇帝は市民の支持を得るため「パンとサーカス」の供給を熱心に行いました。

皇帝政治以前の(紀元前1世紀までの)共和政の時代には、「人びとの政治参加」はさらに重要でした。共和政時代のローマは、コンスル(行政のトップ)をはじめとする公職者、有力な貴族の合議体である元老院、市民の会議体である民会という3つの権力があり、それらがけん制しあいながら政治が行われていました。

共和政時代のローマの体制をどう捉えるかについては、昔の説では「少数の貴族による独裁」を強調していました。しかし現代の専門家は以前よりもローマの民主政的な側面、つまり民会や民衆の影響力を重視するようになっています。

そして、元首政時代のローマ皇帝は、共和政の伝統につよく影響を受けていました。

たとえば、初代ローマ皇帝のアウグストゥス帝(在位前27~西暦14)は「王」と自称せずに、自分を「市民のなかの第一人者=プリンケプス」と位置づけました。「政治の主役は市民」という理念を、建前としてではあるが大事にしたのです。 また「アウグストゥス(尊厳者)」という敬称は、元老院から贈られたものです(以上、ローマの政治体制については、島田誠『コロッセウムからよむローマ帝国』講談社選書メチエ、1999年、新保良明『古代ローマの帝国官僚と行政』ミネルヴァ書房、2016年、青柳正親『皇帝たちの都ローマ』中公新書、1992年などによる)。

しかし、ローマ帝国でも300年代以降は、皇帝への権力の集中がすすみ、「強大な権力の皇帝が君臨し、それを官僚機構が支える体制」に移行していきます。ただし、このような体制のもとでも「主権者は市民である」という理念や建前はある程度残っていました(青柳前掲書)。

このような300年代の皇帝の権力強化は、ローマの共和政という民主的な面を持つ体制が、長い変化を経てたどりついたものです。

そして、最盛期のビザンツ帝国の皇帝は、絶対的な専制君主でしたが、それはローマ帝国で300年代に成立した体制をさらにおし進めていった結果です。

ということは、ビザンツの皇帝専制は、井上浩一氏(何度も引用したビザンツ史家)が述べるように《民主政・共和政が生み出した専制君主制》なのです。 それは、民主政が有力になったことのない社会における専制――アジア・オリエント的な専制とはルーツが異なります。



400年頃、ローマ帝国は東西の分裂が決定的に
のちに西ローマは崩壊、東ローマ(ビザンツ)が残る
1000年代末のヨーロッパと東ローマ(ビザンツ)帝国
ビザンツの領土はかなり縮小
(地図は拙著『一気に流れがわかる世界史』PHP文庫より)

バシレイオス2世の専制


絶対的な専制君主というと、10~11世紀のビザンツ皇帝バシレイオス2世(在位976~1025)は、その典型でした。たいていのビザンツ皇帝は、君臨するだけで政治は官僚や軍人に任せていましたが、彼はちがいました。

バシレイオス2世は18歳で即位すると、先帝の時代に権勢をふるった宦官(去勢された男子の召使)の侍従長らを追放し、その侍従長の時代の書類は「自分がチェックをして承認のサインをしたもの以外は無効」としています。そして、膨大な書類を本当にチェックしたのです。「皇帝がすべての権限を持つ」ということを建前で終わらせず、とことん貫いたということです。

なお、宦官が宮廷で実権を握るのは、専制国家では時々あることです。これは中国の王朝での事例が日本人には比較的おなじみですが、ビザンツでも中国と似たことがありました。皇帝が絶対権力者でほかの権力機関が弱体であれば、皇帝の身近で仕える者が(公式の権限がなくても)権力を持ってしまうことがあるのです。

そして、バシレイオス2世は、独断でさまざまな政策を行いました。たとえば、重臣たちの反対を押し切って「貧農が税を納められないとき、近隣の有力者が代わりに納税する」という制度を導入したりもしました。有力者を敵にまわす強引な制度。しかし、それを押し通すことができたわけです。軍事でも、しばしば自ら先頭に立って戦い、周辺国ブルガリア併合などの成果をあげました。

11世紀のビザンツの歴史家プセルロスは、バシレイオス2世について「彼だけが軍団を動かし、政治も書かれた法によってではなく、彼自身の内心の書かれざる法によって行われた」と評しています。

皇帝の内心の「書かれざる法」による政治――それが専制政治ということです(バシレイオス2世については井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会、2009年による)。


5.形骸化した民主主義と、個人主義の社会


形骸化したビザンツの「民主主義」


バシレイオス2世の時代から数百年さかのぼる400~500年代のビザンツでは、民主主義の伝統は形を変えながらも、いくらかは生きていました(以下、この章はとくに断った箇所を除き、前掲の井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』と井上『生き残った帝国ビザンティン』講談社現代新書、1990年による)。

たとえば、当時のコンスタンティノープルのビザンチオン競走場(さかんに戦車競走が行われていた)には皇帝もときどき顔を出したのです。皇帝即位式や戦争の勝利を祝う凱旋式などの国家行事が、市民の集まる競走場で行われたりもしました。

このときスタンドの市民は、「皇帝万歳」の歓呼を行っています。皇帝は市民の歓呼を受けて選ばれる、という建前によるものです。

そして、集まった市民は歓呼だけでなく、声をあげて「この大臣を罷免せよ」「税金を軽くしてほしい」といった抗議や請願も行うことがありました。その際には「青のデーモス」「緑のデーモス」などの市民の集団(戦車競走の応援などを行った)が音頭をとっています。

その後、600年代以降は皇帝即位の儀式は宮殿や聖堂で行われ、そこでは国家が動員した「市民」が歓声をあげるようになりました。歓声といっても、徹底的に形式化・儀式化されたものです。この「市民」は、「デーモス長」やその配下の「デーモス」という官職にある役人でした。民主主義を演出するための官職という、奇妙なものがあったのです。

かつての「青のデーモス」「緑のデーモス」は、市民の自治的団体でしたがが、この「デーモス」はそれとは別物です。それは「人びとの政治参加」という民主主義の伝統が変質し、形骸化したものでした。

また、前に述べたように、大規模な公共浴場は600年代以降は消滅していったのですが、皇帝の宮殿のなかには伝統的な大浴場が築かれていました。もちろん一般市民は利用できません。これも、「市民」役の官職と同じく、形骸化した伝統といえるでしょう。 このような「ギリシア・ローマ的な伝統の変容・形骸化」が、ビザンツ社会のあちこちにみられます。

600年代以降のビザンツ帝国では民主主義・共和政の伝統は過去のものになっていきました。ビザンツ帝国の人びとは自分たちを「皇帝の奴隷」だと意識するようになりました。高官でさえ自分たちを「皇帝の奴隷」と称しています。そして、それを嫌がるのではなく、偉大な権威の「奴隷」であることにそれなりの誇りを持っていたのです。

そして、「皇帝の奴隷」たちの社会であったとしても、人びとの自由や権利がまったく失われてしまったということではありません。かなりの都市や地域では、裁判や法は機能していました。これは、ローマ帝国以来の伝統です。

その裁判のなかで女性の権利拡大につながる判断がなされたこともありました。これは11世紀の判決で、夫を殺された妻が犯人を告訴する権利を認めたものです。現代では当然の権利ですが、男女格差が激しかったローマ帝国では、認められていなかったことです。しかしビザンツでは、それまでの伝統を破って女性の法的権利を擁護したのでした。

また、ビザンツの社会では、教養のある高級官僚が大きな権力を持っていました。そして官僚の職は、少なくとも一定以上の有力者・富裕層には広く門戸が開かれていました。限られた名門の家柄でなくても、学問を身につければ官僚のほか、軍人や聖職者といったエリートとして高い地位につける可能性があったのです(ただし中国の科挙のような試験制度はなかった)。 そのような、ある程度の「平等化」もすすんでいました(ジュディス・ヘリン『ビザンツ 驚くべき中世帝国』井上浩一監訳、白水社、2021年)。


コミュニティの衰退と個人主義


こうしたなかで、都市の自治組織の衰退はさらに進みました。これは民主主義が後退して、皇帝の権力がさらに強くなることと深くかかわっています。市民が政治や公共事業に参加するのは、おもにコミュニティの自治組織を通してのことだったからです。そして、皇帝権力が強大になることで、市民の自治はさらに衰退するという相互作用がすすんでいきました。

最盛期のローマ帝国では、都市などを単位とする、地域ごとの自治組織が強固で活発でした。人びとはコミュニティに対し強い帰属意識をもっていました。しかし、ビザンツではそのような自治はすっかり衰えてしまったのです。

人びとの地域コミュニティへの帰属意識も失われ、ばらばらの個人が皇帝という最高権力者によって支配される、という構図が明確になりました。 井上浩一氏はつぎのようにまとめています。

《古代ギリシア・ローマ文明の基盤であった都市共同体の解体期に生まれた個人主義は、ビザンツ文明の基本精神となった。》

《古代のギリシア人・ローマ人がまず市民であったのに対して、ビザンツ人は都市に住んでいても自分を市民とは思っていなかった。都市の自治にも関心をもたなかった。彼らは近隣の仲間ではなく、遠くに、はるか天上にいる神や皇帝とのつながりを意識していた》

井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』

ビザンツ人の個人主義は、とくに600~700年代の危機や動乱以降に明確になり、市民は政治にかかわらなくなりました。

しかし、その個人主義は「かけがえのない自分」のような強い自我をともなう近代的なものではありません。「自分たちは皇帝の奴隷」といった意識のもとでの個人主義なのです。神や皇帝のような超越的な権威にひれ伏す「権威主義」も、ビザンツ人に特徴的なことでした。

それでも、400年代にコンスタンティノープルで城壁を建設したとき、そこには市民が積極的に参加していました(当時、外敵の脅威に対し、防御のための巨大な城壁を建設した。前編参照)。都市を自分たちで守るという自治の伝統がまだ残っていたのです。そして皇帝は建設に功績のあった市民に、城壁の塔を利用する権利を与え、一方で城壁を維持管理する責任を負わせました。

しかし、739年に皇帝レオン3世が出した勅令では「城壁の維持管理は、汝ら市民のなし得るところではないので、税を追加徴収して、その金で政府が城壁を修理する」ということが述べられています。

この時代には、公共的な事業はもっぱら国家や皇帝が行い、市民はばらばらの個人として税を負担し、公共のサービスを受けるだけになっていました。これは現代社会のあり方に近いものですが、ポリスの時代のギリシアやローマ帝国の伝統とはちがっていました。


6.キリスト教の帝国


神の名において人びとを支配する


そして、ビザンツ帝国ではキリスト教が国教とされ、人びとの圧倒的多数はキリスト教徒でした。キリスト教は、皇帝の権力を正当化する役割を担いました。皇帝は神の代理人とされました。

キリスト教は、1世紀にローマ帝国でユダヤ教の分派として生まれた宗教です。もともとは異端的な少数派でしたが、300年代のローマ帝国では国をあげて信仰されるようになり、体制に組み込まれました。

井上浩一氏は、《ローマ帝国は、危機を克服し、生き延びていくために、このような国家と宗教が一体となった「神の名において他人を支配する」体制を築き上げた》と述べています。

また井上氏は、ビザンツではさらに、ばらばらの個人になった人びとが危機や動乱のなかで《自分たちを導いてくれる強力な権威を求めた》とも述べています(前掲『生き残った帝国ビザンティン』)。

そして、権威主義的な体制が一層固まっていったのです。ビザンツ帝国は、神の名において人びとを支配する、キリスト教の帝国でした。 ビザンツのキリスト教会の組織は「コンスタンティノープル総主教」をトップとするものでしたが、皇帝が教会に対してつよい影響力をおよぼしていました。

なお、西ローマ帝国が滅亡したあと、その跡地でもキリスト教は信仰され続け、ローマ教会を頂点とする「カトリック教会」が発展し有力になっていきました。西ローマの跡地では、数百年にわたって混乱が続き強力な国家が成立しなかったので、カトリックは国家から距離をおいて、ローマ教皇を頂点とする独自の組織や権威を築くことができました。

一方、東ローマ帝国では、皇帝の強い影響下にある「ギリシア正教(東方正教)」の組織が形成されたのです。なお、カトリックとは「普遍」という意味で、「正教」というのは英語の「オーソドックス」にあたる言葉の訳です。


自由な学問研究に対する抑圧


キリスト教が圧倒的だったビザンツの社会では、自由な学問研究は抑圧されました。とくに古代ギリシア以来発達してきた、合理的に自然現象を説明しようとする科学は、神の否定につながるものとして敵視されるようになりました。

ただし、科学のなかでも幾何学・数学、天文学などは、根本的な世界観と深くかかわらない範囲で、かなり活発に研究されました。文学や法学といった学問も、同じように「危険」でない学問として、ビザンツではさかんでした(ヘリン前掲書)。

科学的な学問のすべてではなく「神の否定につながる科学」が抑圧されたのです。しかし、それでは科学の精神は死んでしまいます。

529年にユスティニアヌス1世(これまで何度も出てきた「大帝」)は、「いかなる学科も、聖ならざる狂気の病に罹(かか)る者どもにより教授されることを禁ず」という「異教徒による教育の禁止令」を出しています。それによって532~533年には、アテネのアカデメイア学院の7人の教授たちがアテネを追放されました。

当時のアテネには、プラトンやアリストテレスが活躍した古典時代以来の「学問の都」としての伝統がまだいくらか残っていました。しかし、この追放でその名声は完全に崩れていきました。追放された教授たちは、隣国ササン朝ペルシアの宮廷に招かれて移り住んでいます(ただしその後、ペルシアも安住の地ではないと悟って、ギリシアに戻っている)。

追放された7人の教授の一人であるシンプリキオスは、アリストテレスの『自然学』『天体論』の注釈書を著し、ヘレニズム時代の自然学者ストラトン(前200年代)による落下運動の研究についても書き残している学者です。つまりギリシアの科学という「合理的に自然現象を説明する学問」の伝統を担う重要人物だったのです(以上の学問弾圧については、板倉聖宣『原子論の歴史ー誕生・勝利・追放ー』仮説社、2004年などによる)。


7.革新が枯渇した、細かな改良と応用の時代


伝統へのこだわり


以上のように、600年代以降のビザンツの文化・社会は、古典期のギリシアや最盛期のローマとはかなり異質なものでした。しかし、一方でビザンツ人には古代ギリシア以来の伝統を大事に守ろうとする面もつよくありました。

たとえばビザンツの文人が書くものは、ギリシア・ローマの文献の引用や注釈が大きな比重を占めていました。それらは日常では用いなくなった古典ギリシア語で書かれたのです。

ただし、ビザンツでとくに評価されたのは、帝政ローマ期かヘレニズム時代の文献です。つまり大帝国が形成され、皇帝や専制君主が支配するようになった時代のものです。

一方、近現代において重視される古典時代(ポリスの栄えた時代)のギリシアの文献は、低くみられる傾向がありました。専制的な皇帝が支配したビザンツでは、帝国以前の民主主義的な面がある社会やその文化は、望ましくない、低次なものと考えられたのです。

ビザンツのおもな歴史家たちは、ギリシア・ローマの歴史について述べる際に、古典期(ポリスが栄えた前400~300年代)のギリシアや共和政時代(前一世紀以前)のローマについてあまり触れませんでした。おもに述べるのは、ギリシア史ならアレクサンドロス大王(前300年頃)以降であり、ローマ史ならカエサルやアウグストゥス(前1世紀)以降です。

800年代のゲオルギオス・モナコスというビザンツの歴史家は、ギリシアの古典期の歴史は「無神論と恥ずべき政体(=民主政)の証明」だと述べています(以上のビザンツの文人の価値観については、前掲の井上『ビザンツ 文明の継承と変容』による)。


古くからのローマ法を大事にする


そしてビザンツ人は、古くからの「ローマ法」を後生大事にして、判決などの根拠にしていました。時代にあわせた法解釈も行いましたが(前に述べた女性の権利を認める判決はそれにあたる)、理想や建前としては古い法を尊重しました。

500年代のユスティニアヌス1世は、国家事業としてそれまでのローマにおける法や法解釈などを集大成した複数の書物を編さんさせました。のちの近代ヨーロッパでは、それらをまとめて『ローマ法大全』と名づけています。

これは、歴史的な資料としてではなく、自分たちの時代の法的な実務に用いるためのものでした。「何千もの文献に分散しているものを整理してまとめれば便利」ということです。しかし、その内容の中心は、編さん当時からみて何百年も前の帝政前期(1世紀後半~200年代前半)の法や学説でした。帝政前期は、ローマ法の歴史のなかでとくに重視されます。

現代のローマ法史の研究では、ユスティニアヌス帝とその学者たちはこの法典に新しい要素を入れることには消極的で、基本的には帝政前期の法を自分たちの時代にそのまま移そうとしていたのだと考えられています。現代の専門家が『ローマ法大全』を詳しく検討した結果、昔の文献(原文)をできるだけ忠実に抜粋して集めていることがわかっているそうです。

数十年以上前のローマ法研究者のあいだでは、帝政前期などの原文をユスティニアヌスの時代にあわせて改訂(改ざん)している箇所が多々あるという見方が有力でしたが、詳しく調べると、じつは改訂はわずかでした。このことは、私たちがばくぜんと思う以上にローマ法の古い伝統にこだわるビザンツの価値観をよく示しています。

ただし、『ローマ法大全』はおもにラテン語で、ギリシア語を話すビザンツ人には読みにくいものでした。そこで、900年頃にはそのギリシア語版の要約といえる『バシリカ法典』がつくられました。この法典は、その後国家の基本法典として使われ続けました。しかし、法学者のなかには、あくまでラテン語の『ローマ法大全』に基づくべきだという頑固な者もいました(ビザンツにおけるローマ法については、ウルリッヒ・マンテ『ローマ法の歴史』田中実・瀧澤栄治訳、ミネルヴァ書房、2008年などによる)。


もはや言うべきことは残されていない


このような文化のあり方は、古い伝統をひきずったままそれを超えるものを生み出せない停滞状態だったともいえます。西暦1300年代のテオドロス・メトキテスというビザンツの文人は、こんなことを述べているのだそうです。

「過去の偉大な人びとがあらゆることを完全に述べてしまったので、我々の世代にはもはや言うべきことは残されていない」

井上浩一『ビザンツ 文明の継承と変容』より

つまり、「新しい創造の余地はなく、残されているのは、細かな注釈くらいだ」というわけです。

これは、「大きな革新が枯渇して、細かな改良・応用が中心となった」という状況を述べているのです。その中で生きる文化人が感じるはずのことを、テオドロス・メトキテスは述べたのです。そして、何百年も前の文献をもとに、オリジナリティを加えないように編集した『ローマ法大全』は、まさに「細かな改良と応用」の書物でした。

たしかに、ビザンツの建造物や生産の技術は、最盛期(1世紀~200年代の元首政の時代・帝政前期)のローマ帝国を、大きく超えることはありませんでした。

コンスタンティノープルでも、最盛期のローマ市にあったような巨大建築は建てられました。しかし、それなりにデザイン・様式を変えながら、おおまかにみれば同じようなものがややスケールダウンして再現されたという感じです。

たしかに500年代にユスティニアヌス一世が建設(再建)をすすめた聖ソフィア大聖堂の巨大なドーム空間のような挑戦もありました。聖ソフィア大聖堂は、コンスタンティノープルを代表する建築です。しかし、それもまた最盛期のローマで発達したドームやアーチなどの構造的な技術をもとに、大規模に応用したものだといえます。

ただし「大規模な応用」といっても、聖ソフィア大聖堂の中央大ドームが直径31メートルだったのに対し、西暦100年代にローマ市で建てられたパンテオン(「万有神殿」の意)の大ドームは、それより大きな直径44メートルです。それでも、聖ソフィア大聖堂のほうは、パンテオンよりもかなり複雑な、凝った構成を持っていました。

つまり、パンテオンの場合は建物のメインとしてひとつの巨大なドームがある、というシンプルな構成ですが、聖ソフィア大聖堂は中央の大ドームの前後に二つの半ドームがあり、さらにその半ドームを「アプス」という半円形に穿たれた壁面の構造が支え……という(文章では表現しにくい)凝ったつくりでした(アーチやドームの技術については、中川良隆『水道が語る古代ローマ繁栄史』鹿島出版会、2009年による)。

しかし、そのデザインを支える構造的な技術は、数百年前のローマ帝国の水準を、基本的には超えてはいないのです。まさに「細かな改良と応用」の産物です。なお、聖ソフィア大聖堂は、1400年代にイスラム勢力のオスマン朝がコンスタンティノープルを征服すると、イスラムのモスクに転用されました。

***

経済的繁栄と衰退・滅亡


かつての「ローマ市(ローマという都市)の再現」からは様変わりしたものの、それでもコンスタンティノープルは長いあいだ、世界のなかで重要な大都市であり続けました。

ビザンツ皇帝が発行するノミスマ(西欧のラテン語ではソリドゥス)金貨といわれる高品質の金貨は、ビザンツ国内だけでなく、イスラムの国ぐにや西欧でも流通しました。現代の歴史家はノミスマ金貨を「中世のドル」とも呼んでいます。なお、現在のドルの記号「$」はソリドゥスの「S」が由来です。

ノミスマ金貨は11世紀になっても高い金の含有量を維持し続けました。1092年に品質を下げる改鋳を行った時点でも、金含有量は85%の高水準でした(『角川世界史辞典』大月康弘「ノミスマ」の項)。

それだけの長い期間、ビザンツ帝国とくにコンスタンティノープルは経済的繁栄を続けていたということです。

その繁栄は、領地からの税収のほかに、国際的な商業によって支えられました。コンスタンティノープルは、ヨーロッパと西アジアの境にある港町です。800年頃以降、国内外の情勢が安定すると、イタリア商人やイスラム商人など多くの外国人がこの都市にやって来るようになりました(前掲『生き残った帝国ビザンティン』など)。

その後、11世紀(1000年代)後半からビザンツ帝国は明らかに衰退していきました。11世紀後半には、新興のイスラム勢力であるトルコ人のセルジューク朝に、重要な領土だったアナトリアを奪われてしまいました。

1000年代末のヨーロッパとビザンツ


そして、1200年代初頭には、西欧の勢力(十字軍)がコンスタンティノープルを占領してしまいました。これには、ビザンツ帝国の内紛や、それに介入してビザンツでの商業活動を有利にしようとしたベネチア(当時の有力なイタリアの都市国家)の意図などが関わっていますが、ここでは立ち入らないことにします。要するに、もともとはビザンツに敵対的ではなかった十字軍が裏切って、ビザンツを攻撃したということです。

十字軍は、キリスト教の聖地エルサレム奪還を旗印としてイスラムの国ぐにに遠征軍を送る運動で、11世紀末に始まりました。しかし、あとになると当初の宗教的な主旨はぼやけてしまい、周辺の異文化に対する単なる征服・略奪という面が強くなっていきました。ビザンツも西欧と同じキリスト教圏ではあっても、カトリックではないので「異教」の地域という面がありました。

首都を奪われたものの、ビザンツ側は地方に「臨時政府」をつくって抵抗を続け、1200年代後半にはコンスタンティノープルを取り返して国家を再建しました。しかし、1300年代以降は、領土はバルカン半島の一部に限られるようになりました。

そして、1453年には、トルコ人を中心とするイスラム勢力のオスマン朝によってコンスタンティノープルが陥落し、帝国はついに滅ぼされたのです。

紀元前500年代に都市国家として建国されて以来の、およそ2000年にわたるローマという国家の歴史は、これで終わりました。

以上、ビザンツ研究者井上浩一氏の著作などをもとに、ビザンツ帝国のいくつかの側面について紹介しました。

共同体・コミュニティの弱体化、民主主義や合理的な世界観の衰退など――これらの後退していった要素は、ギリシアやローマでは重要なものでした。ビザンツの歴史は、ギリシア・ローマの重要な伝統、つまり「古典」が変質・衰退していく過程でした。

そして、現代世界の大きな動きにも、「古典の衰退」がみられるのではないでしょうか。「民主主義の危機」や「ポスト真実」はまさにそうです。これまで正統とされてきた、文明の要素が揺らいでいて、「ビザンツで起きたことの現代版」が、今の世界では起きているのではないか、ということです。

(第3回へ続く)
第3回では、現代世界で起こっているビザンツ化、つまり民主主義の後退やポスト真実、コミュニティの衰退、技術革新の停滞などについて述べます。それは、近代文明の「古典」的要素が衰退しているということです。

前回(第1回)の記事

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