壊される立憲主義——高市首相の“スモールステップ改憲戦略”
みなさんは、民主主義の大前提である「立憲主義」という言葉をご存じだろうか?
立憲主義とは、国家権力を憲法によって制限し、その恣意的行使を防ぐという近代憲法の根本原理である。 日本国憲法においては、憲法99条がその象徴的規定とされ、権力を担う者に対して憲法尊重擁護義務を課している。
本稿の目的は、この「立憲主義」の観点から、高市首相の憲法観および改憲に対する姿勢を検証するものである。
「立憲主義をとらない日本の首相」が改憲に挑戦している
毎日新聞(2025年10月29日付夕刊)のコラムによれば、 憲法学者・小林節氏が立憲主義の説明を行った際、 高市氏は 「私はその(立憲主義という)考えをとりません」 と返答したと紹介されている。
小林氏が「憲法は、国家権力が乱用されて国民の人権を侵害しないよう、あらかじめ縛っておくものだ。近代国家の前提である『立憲主義』という考えだ」だと説明したら、高市氏が「私はその考えをとりません」と言ったというのだ。それは、2006年5月18日の衆議院憲法特別委員会に端を発している。
立憲主義の考えをとらないと明言する高市首相が、憲法改正を主導しようとしている。ここに、憲法99条の精神と根本的に矛盾が生じている。
高市氏のスピーチにみる立憲主義との矛盾
「立党から70年。時は来ました」——。第93回自民党大会における高市早苗首相(自民党総裁)の演説は、改憲に向けた並々ならぬ意欲を内外に強く印象付けるものであった。
さらに、憲法改正派の集会に寄せたビデオメッセージにおいて、首相は「憲法は時代の要請に合わせて本来、定期的な更新が図られるべきだ」と述べ、早期の改憲発議に向けてアクセルを踏み込んでいる。
しかし、ここに看過できない決定的な論理的矛盾が存在する。それは、「立憲主義の考えをとらないと明言する首相が、憲法改正を主導すること自体が、憲法99条憲法尊重擁護義務の精神と根本的に矛盾する」という点だ。この矛盾を中心軸に据え、高市首相の改憲推進がいかにして立憲主義の根幹を脅かしているのかを見ていこう。
憲法99条の核心:権力者を縛るための「鎖」
立憲主義の核心は、権力を憲法によって制限することにある。その具体的な現れが日本国憲法第99条である。同条は、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員に対し、憲法を尊重し擁護する義務を課している。
これは単なるスローガンではない。行政権の長である内閣総理大臣は、憲法によって最も強く縛られるべき立場にある。憲法99条は、権力者が自らの都合でルールを書き換えたり、無視したりすることを防ぐための「鎖」としての機能を果たしている。したがって、この「鎖」の存在意義を認めない、すなわち立憲主義の考えをとらないとする人物が、その「鎖」の設計図である憲法の改正を主導することは、首相という権力の立場において不適切であり、法的にも極めて危険な行為である。
「縛られる側」によるルール変更のパラドックス
高市首相は憲法を「どのような国を作り上げたいか、理想の姿を物語るもの」と再定義し、「国民に堂々と問おうではないか」と訴えかけている。一介の政治家が個人の信条として「理想の国家像」や「改憲」を語ることは、言論の自由や民主政治の範囲内として許容される。しかし、問題はその立場にある。
立憲主義を軽視、あるいは採用しない姿勢を示す権力者が、自らを縛るためのルールである憲法の変更を主導することは、スポーツの試合において、プレイヤーが自らに有利なようにルールの変更を強要しているようなものである。現段階で高市氏の発言が直接的な憲法違反に問われるわけではないが、首相という圧倒的な権力を持つ立場から「国民に問う」という形で強い政治的圧力をかけることは、憲法99条が意図する「権力の抑制」という精神を実質的に空洞化させる試みと言わざるを得ない。
余談だが、同様に一議員としての考えを首相としての立場をわきまえず発言したものとしては、台湾有事発言がそれに当たる。ここに高市氏個人の持つ姿勢の共通点が浮かび上がる。
「スモールステップ」で改憲のハードルを下げる
これは改憲そのものではないが、すでに前兆は現れている。
先の「非核三原則の5類型の撤廃」によって、殺傷能力のある武器の輸出拡大を国会だけで決定した。
次に試されるのが「皇室典範の改正」である。皇室典範は憲法ではないため、国民投票を必要とせず、国会の多数で改正できる。 しかし政治的には“憲法級の重さ”を持つテーマであり、国民にとっては、これまで長く守られてきた“聖域に手を付ける"という経験になる。
この経験そのものが、次の制度変更(=改憲)への心理的ハードルを確実に下げる。
そして、本丸である9条改憲は反発が強く、単独での突破は困難であることを自民党も理解している。 そこで現在、自民党は「緊急事態条項の創設」「自衛隊の根拠規定の明記」「教育の充実」「合区解消」という“改憲4項目”を掲げている。
これらの項目、特に教育の充実や合区解消などは、本来であれば現行の法律レベルで十分に対応可能な課題である。他も同様に憲法の書き換えが必要な事項ではなく、すでに活用されている制度であり、むしろ憲法に入れることで制度が硬直化するリスクがある。
では、なぜあえて憲法改正の俎上に載せるのか。そこには、改憲のハードルを意図的に下げるための「スモールステップ」戦略が見え隠れする。
「更新」というレトリックが隠す99条違反の本質
高市首相は「憲法は定期的な更新が図られるべきだ」と語る。この「更新(アップデート)」という現代的でソフトな響きを持つ言葉は、国民が抱く改憲への心理的抵抗を著しく低下させる効果を持つ。既存の条文を削除したり、根本から書き換えたりするのではなく、「新たな条文を追加するだけ」という見せ方をすることで、国民生活に直接的な影響が少ない部分からアプローチし、国民を「憲法を変える」という行為そのものに慣れさせようとしている。
憲法96条が改憲に対して厳格な手続き(各議院の総議員の三分の二以上の賛成と、国民投票での過半数の賛成)を定めているのは、時の権力者による安易なルール変更を防ぐためである。
立憲主義を否定する権力者が、このスモールステップによって改憲を「日常的な更新作業」へと矮小化することは、96条の厳格性を根底から揺るがすだけでなく、99条の「権力を縛る」という精神を死文化させる危険性を孕んでいる。
「国民の負託」の拡大解釈と熟議民主主義の危機
さらに懸念されるのは、改憲を推進する根拠として「国民の負託」という言葉が安易に用いられている点である。
高市首相(自民党総裁)は3日、東京都内で開かれた憲法改正派の集会に寄せたビデオメッセージで、「政治家が国民の負託に応えるために行うべきは、決断のための議論だ」と強調し、早期の改憲に意欲を示した。
※「国民の負託」とは、国民が政治家や公務員に対して信任や期待を託すことを意味し、その信任に応える責任を伴う概念
高市首相は「政治家が国民の負託に応えるために行うべきは、決断のための議論だ」と強調する。確かに、選挙において与党が多数の議席を獲得したことは事実である。しかし、それは経済対策や社会保障など、多岐にわたる政策パッケージ全体に対する有権者の選択の結果であり、決して「憲法改正への白紙委任」を意味するものではない。
数の力による「決着」がもたらすもの
衆院憲法審査会与党筆頭幹事の新藤義孝氏は、改憲4項目について「この国の未完成部分を完成させるのが4項目だ。具体的に決着させるため、議論する」と述べている。ここには、「議論」という言葉を用いながらも、最終的には議席数の多さというパワーバランスを利用して「決着」をつけるという、自民党の党是実現に向けた強硬な姿勢が表れている。
本来、憲法改正のような国家のあり方を根本から問うテーマにおいては、多様な意見を交わせ、時間をかけて合意形成を図る「熟議民主主義」が不可欠である。しかし、現在の政権与党の姿勢は、「国民の負託」を都合よく拡大解釈し、熟議を軽視したまま数の力で押し切ろうとする「権利の濫用」に陥る危険性が極めて高い。これは、憲法99条が求める「憲法の尊重擁護」から最も遠い行為と言わざるを得ない。
しかし、ここで問題となるのは、仮に「熟議」を行ったとしても、最終的な決定は国会内のパワーバランス、すなわち“数の力”によって左右されてしまうという現実である。 現在の憲法審査会では、議題設定から審議の進め方まで与党が主導し、結論ありきの「決着」を目指す姿勢が露骨になっている。
本来、憲法96条の3分の2要件は、多数派の暴走を防ぐための“防波堤”として設計された。しかし、熟議が形式化し、数の力がそのまま改憲発議へと直結する現在の状況は、この防波堤がすでに決壊しつつあることを示している。 これは、憲法99条が求める「憲法の尊重擁護」から最も遠い行為であり、立憲主義の根幹を揺るがす危険な兆候である。
さらに深刻なのは、こうした制度上の問題が、突発的に生じたわけではないという点である。5類型撤廃に象徴されるように、日本の国会では長年にわたり「数の力で押し切る」政治文化が積み重ねられてきた。こうした前例の蓄積が、「憲法の歯止めは容易に乗り越えられる」という誤った学習効果を生み、ついには立憲主義を軽視する首相が就任し、憲法の精神に反する政策を強行できてしまう土壌をつくったのではないか。 その結果、憲法が本来果たすべき抑制と均衡の機能が、いままさに失われつつある。
さいごに:主権者としての防波堤を築くために
高市首相の改憲に向けた一連の発言と行動は、憲法99条や96条の条文そのものに直接違反しているわけではない。だからこそ、その問題は見えにくく、厄介である。
「理想の国」「定期的な更新」「国民の負託」——。こうした耳障りの良いレトリックの裏側で、権力を縛るはずの憲法が、権力者自身の都合の良いように作り変えられようとしている。立憲主義の考えをとらないと明言する首相が、憲法改正を主導すること自体が、憲法99条の精神と根本的に矛盾するのである。
私たちが今問われているのは、この「静かなる危機」に気づくことができるかどうかである。政治家が語る「理想の物語」に無批判に同調するのではなく、憲法によって権力を監視し、縛り続けるという主権者としての冷徹な視点を持つこと。政治家任せにするのではなく、政治家を監視する。それこそが、立憲主義の崩壊を防ぐ最大の防波堤となるはずである。
🔗関連記事
