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国家主導で改憲するのは本末転倒—憲法は国家権力の力任せな決定を制限し、国民を国家の暴走から守る最強の盾

憲法とは誰を縛るものなのか──立憲主義から考える「私たちの盾」

ネット空間で見かける、ある一言からの気づき

「憲法は国民が守り従うルールではなく、権力者が守るものだ」

ある日、ネット上の投稿でこの言葉を目にしたとき、私の中にあったある種の違和感が氷解し、深い納得へと変わるのを感じた。

私たちは普段、日常的な法律と同じように「憲法もまた国民が守るべきルールである」と無意識のうちに捉えていないだろうか。しかし、憲法の本来の意義はそこにはない。憲法とは国民を縛る鎖ではなく、国家権力の暴走を防ぐための「ブレーキ」であり、私たちを守る「最強の盾」なのである。

憲法はなぜ「権力者を縛るもの」なのか

歴史を振り返れば、国家権力というものは、放置すれば必ず拡大し、時に暴走する性質を持っている。かつての全体主義国家や、現代における一部の強権的な政権を見ればそれは明らかである。

戦争、弾圧、言論統制、恣意的な逮捕。こうした国家の暴走によって常に犠牲を強いられてきたのは、いつの時代も市井を生きる一般市民であった。その痛ましい歴史への深い反省から生まれたのが、近代憲法の基本思想である「立憲主義」である。

すなわち、憲法とは国家権力を制限し、国民の自由と権利を守るための最高規範である。だからこそ憲法は、「国家はこれをしてはならない」「権力を行使するには厳格な手続きが必要である」といった、国家や権力に対して禁止や制限の形で記述されている。

この構造を理解すると、憲法が「国民を縛るもの」というより、「権力者に対して、これ以上踏み込んではならないという明確な線を引くもの」であると同時に「国民を権力の犠牲から守るもの」ということがよくわかる。

私たちは「憲法を監視する側」にいる

この視点は、民主主義の根底を支えるものである。

国民こそが憲法の主人であり、政府は国民から「憲法の範囲内でのみ権力を行使する許可」を得ている存在に過ぎない。したがって、国民が政府から「憲法を守れ」と命じられるのではなく、国民が政府に対して「憲法を守らせる」立場にある。

この関係性を見失うと、民主主義は容易に形骸化してしまう。憲法という盾が正しく機能しているか、権力者がその枠を越えようとしていないか。それを常に監視することこそが、主権者たる国民の役割である。

改憲をめぐる緊張と、憲法に組み込まれた「止める力」

現在、一部の政治家から「時は来た」として、憲法改正を推し進めようとする声が上がっている。しかし、憲法はそもそも「権力者が勝手に変えられないように」設計されている。

国会における衆参各院の3分の2以上の賛成、さらに国民投票での過半数の賛成という極めて高いハードル。これは単なる手続きの煩雑さではなく、権力の暴走を防ぐための意図的な仕組みである。

つまり、改憲を止める力は憲法そのものに組み込まれており、最終的にそのブレーキを踏むかどうかの判断は、私たち国民に委ねられている。改憲に対して慎重になるのは、単なる政治的な信条や好みの問題ではない。憲法の本来の役割である「権力の制限」という視点に立てば、ごく自然に生まれる警戒感である。

海外の改憲トレンドと日本の現在地

もちろん、憲法は絶対に不変のものではない。海外の民主主義国家でも、時代に合わせて憲法は見直されてきた。しかし、その多くは以下のような方向性を持っている。

  • 人権の拡大

  • 差別禁止の明文化

  • 社会保障の強化

  • 選挙制度の改善

これらはすべて、国民の権利を広げる方向での改正である。国家権力を強め、国民の権利を制限するような方向への改憲は、国際的にも極めて慎重に扱われる傾向にある。

この国際的な潮流を踏まえると、現在日本で議論されている改憲の方向性は、世界のスタンダードとは異なる側面を持っていると言わざるを得ない。

個人ではなく「構造」として続く動き

ここで深く考察すべきは、この改憲への動きが、特定の政治家個人の問題にとどまらないという点である。

例えば、スパイ防止法の導入、緊急事態条項の創設、憲法9条の見直しといった政策は、いずれも国家権力を強める方向に位置づけられる。これらは現在の高市首相が掲げる政策として注目されがちだが、実際には政党全体として長年議論され、準備されてきたテーマである。

仮に、国民の反発によって現在の首相が退陣したとしても、あるいは政党内でほとぼりを冷ますための首班交代が行われたとしても、政策の方向性そのものは継続される可能性が高い。個人の退陣によって流れが止まるわけではなく、むしろ政党の方針として推し進められていく「構造」が存在しているのである。

現在の首相は、その構造を推し進めるための、わかりやすい「表看板」としての役割を担っているに過ぎないのかもしれない。

憲法が縛ろうとしている「真の対象」

立憲主義の観点から見ると、ここに重要な示唆がある。憲法が縛ろうとしているのは、特定の政治家個人ではなく、「権力そのもの」である。

権力は個人を超えて継続し、組織としての意思決定によって動き続ける。だからこそ、憲法は個人ではなく「権力の構造」を制限するように設計されている。

この視点に立つと、憲法を守るという行為は、特定の政治家に対する賛否を示すことではない。権力の構造が暴走しないように、主権者として監視し続ける行為であることがより明確になる。

いま、私たちが考えるべきこと

憲法という盾が弱められようとしていると感じるとき、私たちは「監視する側」として立ち止まり、問い直す必要がある。

いま進められている政策は、本当に国民の生活を守る方向に向いているのだろうか。国民生活よりも軍事政策や権力の強化が優先されていないだろうか。そして、それらに対する説明や議論は、十分に尽くされているだろうか。

憲法は、国民の自由と権利を守るために存在する。国家権力を縛り、暴走を防ぐためのブレーキであり、私たちを守る盾である。その役割を忘れないことこそが、民主主義を守る第一歩である。

国民が守られるために存在する憲法を、権力側の都合で強引に覆そうとするのであれば、それは本末転倒である。
国家と国土を守るために、国民の犠牲を強いる思想は民主主義ではない。

権力者が憲法を力でねじ曲げようとする行為こそ、憲法が最も拒むものである。

また、「時は来た」と言うのであれば、それは「改憲の時が来た」のではなく、『憲法は国民を守るための盾であり、誰から守るのか、と言えば、国家権力の暴走から命を守る武器』ということを、国民が自覚する「時が来た」ということだろう。

非核三原則や憲法の一部がジャマなのは、政治家にとってであり、少なくとも私にとっては、政府が作ろうとしているシェルターよりも確実に私を守ってくれる最高のパワーである。

改憲反対!!

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