見出し画像

183.【小説】カタリナ坂で会いましょう-A面|第三話「ルビー・チューズデー」

第三話「ルビー・チューズデー」


五月の風が吹いていた。
曇り空を透かして届く光は、少し冷たかった。昨日の雨がまだ乾ききらず、カタリナ坂の石畳はしっとりと濡れている。

坂の中腹にある小さな店。扉の脇には、真鍮のプレートで「LUNA」とだけ刻まれていた。

都心から少し外れたこの街で、アンティーク香水瓶を専門に扱うセレクトショップ。取り扱う品も、内装も──すべてが、成瀬カナの目と手で選び抜かれたものだった。

元は広告代理店でキャリアを積み、次に転職したのは大手化粧品メーカーのマーケティング部門。数字にも、戦略にも強く、自分の価値には自信があった。

それでも、香水そのものよりも──気づけば「香りを留める瓶」のほうに、心が惹かれるようになっていた。

「LUNA」は彼女が立ち上げた新しいフィールドだった。ビジネスとして安定するように体制を整え、店番は信頼できるスタッフに任せる日が多い。

けれど今日は、なぜか自分で店に立ちたくなった。その理由は、うまく言葉にならなかったけれど。


午後の光が、斜めに店内へ差し込む。棚の奥に並ぶ香水瓶の中で、ひとつだけがふと光を返した。

マルーンでは重すぎて、バーミリオンには艶がありすぎる。ワインレッドは少し翳りが強い。

──そう、これはルビー。

澄んでいて、やわらかく、記憶の底に浮かぶような赤。その瓶にはラベルもブランド名もついていない。

数年前、年配の女性が「これは私の思い出なんです」と言って、そっと託していったものだった。

売ることも、手放すこともできないまま──棚の奥に、そっと残っている。

「……香水瓶って、正直なんですよ。」

ふと漏れた言葉に、自分でも少し驚く。

触れた記憶が、全部残ってしまう。ガラスは、そっと、それを閉じ込める。


扉のベルが鳴った。

入ってきたのは、二十代前半くらいの若い女性。

濡れた裾を気にしながら、ガラス棚の前に立つ。ふと手に取った一本を、光にかざした。

「……きれいですね」

彼女はぽつりと言った。

「アンティークって、どこかとても、懐かしい感じがして。」

「とても綺麗でしょう。香りは消える。でも、瓶はずっと残るのよ。」

カナは微笑んだ。

「誰かの記憶が、まだ揺れているかもしれないわね。」

若い女性は少し首を傾げたあと、微笑み返してきた。

その笑顔が、自分のかつてに重なった気がした。

あんなふうに、ただ「美しい」と言って、屈託も無く笑っていた時期が、確かにあった。

その後、彼女は何も買わずに「また来ます」と言って出ていった。

数分後、カナはスタッフに一言だけ声をかけて、扉を押した。

「少し出るわ。夕方には戻るから。」

トレイに並ぶ新入荷の瓶をちらりと見て、軽く頷いた。

喫茶シャノワールの前を通りかかったとき、若い男が扉を開けた。

その隙間から、くぐもったギターの音がこぼれる。

──Goodbye Ruby Tuesday…

誰が選曲したのかはわからない。でも、その旋律が耳に入ったとき、足が自然に止まった。

「……ルビー・チューズデーやわ。懐かしいな。」

カナは小さく呟き、また歩き出す。
もう、あの頃には戻れない。

それでも、自分で選んだ道は、確かにここへ続いていた。けれど、前へと進むことはできる。

香りが風に流れるように、記憶は背中からついてくるだけ。

カタリナ坂の屋根の上に、五月の光が少しずつ差し込み始めていた。

──次は、きっと、違う色の話。


いいなと思ったら応援しよう!

Spica∣言葉を編む ありがとうございます。 お気持ちが、大変励みになります。その、お気持ちに応えれる様な記事を引き続き作っていきたいと思います。 本当に、ありがとうございます。