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227.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第五話『金曜日、クラリネットはまだ吹かない-』

第五話『金曜日、クラリネットはまだ吹かない』

坂の途中にある古いビル。その二階で、小さなスナックが夜を灯している。そこが、唯の“帰る場所”だった。

杉本唯は、その店の娘だった。

母は元アイドルだった。芸名は“高峰樹里”。今も看板にはその名が残っているが、日常では本名の「杉本玲奈」を使っていた。

唯は高校生。
両親は彼女が幼い頃に別れた。母は女手一つで唯を育て、そのためにこの店を始めた。

唯はそれを、ずっと見てきた。


ビルの三階には、週末だけ開くピアノバーがある。

ある金曜日、唯は階段で青年とすれ違った。

青年の名前は、リョウ。
少し伸びた前髪と、少し浅黒い顔。
どこか無造作な雰囲気だが、とても丁寧な手をしていた。

彼の後ろからは、まだ店の奥に残るジャズの余韻が漏れていた。

唯は、不思議とその音が耳に残っていた。

「あの……今、ピアノ、弾いてた?」

「うん、少しだけね。

もしかして……この前、坂のイベントに来てた子だよね?」

唯は一瞬戸惑ったが、すぐに小さく頷いた。

「うん……そう。
あの日のピアノ、すごく、良かったから」

リョウは少し驚いた顔をした後、微笑んだ。

「ありがとう。
そういや……ごめん、名前、言ってなかったよね。俺は、杉本、杉本リョウ」

唯は一瞬、眉を寄せた。

「……私と、同じ名前」

「へえ、不思議な縁だね」

そのとき、階下から微かに音楽が聴こえてきた。派手なアイドルソングだった。唯はため息をついた。

「母の店なの。元アイドルで……いまも、店の名前に芸名つけてる」

「もしかして、“高峰樹里”の?」

唯は肩をすくめる。

「そう。本人は誇らしげだけど、私は……ちょっと、複雑なんだ」

「本名は、杉本玲奈っていうの。でも、店では“高峰樹里”を名乗ってる」

リョウは笑った。

「でも、君が音楽好きなのは、きっとお母さんの影響もあるよ」

唯は黙って、また階段を見下ろした。そこには、ネオンが滲む古びたドアがあった。

リョウは、しばらく何かを思い出すように黙っていたが、ふと口を開いた。

「そういや、君、クラリネット……吹いてないの?」

唯は、少しの無言の後、口を開いた。

「……まだ、吹いてない」

「まだ……吹いてない、か」

唯は、そっと目を伏せたまま頷いた。

最後に吹いたのは、発表会のあとだった。拍手はあったけれど、自分の音が誰かに届いた気はしなかった……

「無理にじゃなくていい。でも、音楽が好きなら、少しずつでいいと思う」

「……うん、考えておく」

少し風が揺れた気がした。


夜。

店の片隅で、唯は小さなBluetoothスピーカーを繋ぎ、そっと音楽を流していた。

それは、リョウが坂で弾いていたピアノの録音だった。階段の隅で、スマホを握りしめながら録っていた音。

洗い物をしていた母・玲奈が、ふと振り返って言った。

「いい曲ね、それ」

唯は、グラスの中の氷を見つめながら答えた。

「……上のバーで弾いてた人。たぶん、ピアニストじゃないけど」

「ふぅん、雰囲気あるじゃない。……で? その子とは?」

唯は母の目を見ずに、ぽつりと呟いた。

「……何も。
 ……私、また、クラリネット吹いてみようかなって、少しだけ思った」

母は、少し黙ってから微笑んだ。

「じゃあ、部屋の奥にしまったケース、出しておく?」

その声には、嬉しさも、急かさない優しさも、全部入っていた。

唯は目を伏せたまま、ほんの少しだけ、頷いた。

ピアノの音は、もう一度、坂を登っていくように響いていた。


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