229.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第六話『土曜日、グローブを置いたまま-』
第六話『土曜、グローブを置いたまま』
坂のふもとにある「喫茶あんど」は、看板の“ど”の文字がすでに薄れている。
店内もくすんでいて、床のタイルにはコーヒーの染みがこびりついたままだ。昼時でも客はまばら。ここには「安藤修」がいる。ただ、それだけだった。
カウンターの奥。ラジオからスポーツニュースが流れると、安藤は無言でボリュームを絞る。
野球の話は耳に入れない。昔のことは、もう終わった。
「修ちゃん、あれやで。ヤクルトのドラフト2位やってな、最初の年に新人賞も取って──ピッチャーでガンガン投げてたんや」
常連のAが、隣に座った客に話す。
「え? マスターが? そんなふうに見えへんわ」
「見えへんからええんよ。な? 修ちゃん」
安藤は煙草をくわえ、火もつけず、灰皿を見つめるだけだった。
「それだけやれたんなら、今も教えたりせんの? もったいないやん」
Bが言う。
火をつけた安藤は、静かに煙を吐き、灰皿に押しつけた。
Aが小声で言う。
「ああ見えてな、球団と色々あったらしいわ。表向きはケガやけど、内情は──まあ、な」
安藤は聞こえているのかいないのか、静かに口を開く。
「……ま、昔の話や。もうその話は終わり。俺が言っても、きっと誰も聞かへんしな。」
「それより、珈琲、おかわりどうですか?」
──確かにケガもあった。だが本当は、自分から崩した。
キャンプ中の酒、チームメイトとのトラブル、球団の規律違反。
暴力団との密会の写真が週刊誌に流れたとき、すべてが終わった。
球団は「怪我による引退」で通してくれたが、それがむしろ痛かった。
“野球が好きだった”という事実さえ、自分には許されない。
午後、空き地へ向かう途中、壁当てをする少年の姿があった。
中学生くらい。下手ではあるが、真っ直ぐに投げていた。
安藤は立ち止まる。だが声はかけない。
野球を裏切った自分が、誰かに関わる資格はない。
数日後、少年が忘れたグローブを手に取った。
まだ硬い革の匂いが残るその道具に、安藤は少しだけ指を滑らせた。
夜、店を閉めてから、安藤は棚の奥に手を伸ばした。
箱に入ったままのスパイク──自分が新人賞を獲った年に、記念で作ったモデル。
自分のサインが入っている。
「……この頃の俺は、中身がスカスカやった」
そう呟いて、スパイクを箱に戻す。
翌朝、空き地で待っていた少年に、グローブを差し出した。
誰かの夢に、久しぶりに触れてみたくなっただけだ。許されるとは思っていなかった。
「投げてみろ」
少年は戸惑いながらもうなずき、一球を投げた。
ボールは軽く曲がりながらも、安藤のミットへ届いた。
「……悪くない」
それだけ言って、彼は背を向けた。
少年の声が、背中に届いた。
「おじさん、ありがとう」
安藤は返事をせず、静かに歩き出した。
空は曇っていたが、風が少しだけ澄んでいた。
坂の上のほうから、微かに音が流れてきた。
クラリネットの音──誰が吹いているのかは、わからなかった。
ただ、遠くから届いたその音が、まだ終わっていない何かを、静かに告げている気がした。
それは坂のどこかで、誰かが静かに息を吹き返した証のように聴こえた。
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