233.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第七話『日曜日、坂のふもとで-』
第七話『日曜日、坂のふもとで』
朝の坂道は、まだ春になりきらない空気が残っていた。
佐竹は、老犬のマルを連れて、坂のふもとをゆっくり歩いていた。
散歩というより、巡回。刑事時代の癖が抜けない。
通りかかった自販機の横、しゃがみこんでいる男がいた。
李 明(り あきら)──名前を呼ばずとも、わかっている。
それが佐竹という男だった。
「……今日も冷えるな」
「ああ。まあ、ぼちぼちです」
それだけ。多くは語らない。だが、街の人間を気にかけている。
それが佐竹のやり方だった。
駅前の"グリルファミリア十番駅前店"。
川島陽菜(はるな)は開店前の準備をしていた。
制服はいつも通りの黒のエプロン、名札に“バイト”の表記。
けれど、昨日と違うことがひとつある。
「陽菜さん、ちょっとだけ、いい?」
店長が声をかけてきた。
陽菜は、何かミスでもあっただろうかと一瞬身構えた。
「今、うち、人手が足りてなくてね。
社員を一人、増やそうと思ってるんだけど──あなた、どう?」
思いがけない言葉だった。
「え……私で、いいんですか?」
「とても真面目に働いてるし、接客も丁寧だし。何より、お子さんのこと、ちゃんと考えてる。
前に『掛け持ちしてる』って聞いたけど……今はどうなの?」
陽菜は、ほんの一瞬、黙ってから言った。(……まだ何も変わっていない。でも、今日の私が決めたことだ。)
「……区切りを、つけます」
店長はそれ以上は聞かず、うなずいた。
「うちで待ってるよ。無理せず、ね」
娘、彩花(あやか)を見送る途中、陽菜は坂のふもとで佐竹と出会った。
マルは老いたが、人を見る目だけは鋭いままだ。
「こんにちは」
「よう。マル、噛まないから大丈夫だよ」
彩花が恐る恐る手を伸ばし、マルの首をなでる。
犬は目を細め、身じろぎもせずに受け入れた。
(この街にも、まだ繋げる手がある。誰かが繋ぎ直せば、それだけでいい。)
佐竹がぽつりと口を開いた。
「子どもは正直だ。犬はそれを、ちゃんと見てる」
陽菜は小さく笑った。
「じゃあ、うちは、きっと大丈夫ですね」
佐竹はそれに何も言わず、ただうなずいた。
夕方、陽菜は柴田ハイツに戻る。
小さな部屋。薄い壁。だけど、今日だけは違って見えた。
玄関のドアを閉めた瞬間、ほんの少しだけ、空気が変わった気がした。
「ママ、おかえり!」
彩花の声が弾む。
陽菜は頷き、いつもよりゆっくりと靴を脱いだ。
坂のふもとには、今日も風が吹いていた。
佐竹はマルの頭を撫でながら、空を見上げる。
──この街の春も、もうすぐだな。
彼は誰にともなく、そうつぶやいた。
長かった冬の向こうで、小さく芽吹く何かが、確かに聴こえ始めていた。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます。
お気持ちが、大変励みになります。その、お気持ちに応えれる様な記事を引き続き作っていきたいと思います。
本当に、ありがとうございます。