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211.【小説】Bar 3rd Friday ∣Chapter 3:Old Fashioned

Chapter 3:Old Fashioned

Old Fashioned

『オールド・ファッションド』

バーボンの苦味と、角砂糖のわずかな甘さ。それを潰して、オレンジの皮で香りづけする。

名前の通り、古いやり方でつくられる酒。

でも──古いやり方だからこそ、染み込むのが早い夜もある。

その夜、最初に店へ来たのは離婚男だった。

いつもは水割りを頼む彼が、カウンターに腰を下ろすなり言った。

「今日は、強いのがいいです」

「了解」

俺は頷き、バーボンと角砂糖を用意した。

ステアで仕上げ、オールド・ファッションドを差し出す。

「……いい色ですね」

彼は少しだけ微笑んだが、目の奥は沈んでいた。

ほどなくして、IT男がやってきた。

「……なんか、重ための空気だな」

「そう見えるか?」

「お前がそういう顔してる時は、大体なんかある」

「察しがいいな」

「職業柄、勘は大事でね」

「じゃあ、少しだけ」

離婚男──沢渡は、ゆっくりと口を開いた。

「たまには、自分の話をしてもいい頃かと思ってね」


結婚して6年。 最初の2年は、それなりに穏やかだったと思う。

けれど、子どもができなかった。

検査を受けた結果、自分に原因があるとわかった。 医学的には可能性がゼロではない。 でも、限りなく低い。

その日、妻は何も言わなかった。 けれど、それ以降、会話には棘が混じるようになった。

「私ばっかり、我慢してる」
「どうせ分かってくれない」

言い返せなかった。 悪いのは自分だと思っていたから。

夫婦の会話は減っていった。 そして、寝室が分かれた。 触れ合うことも、なくなった。


そんな頃だった。
取引先の女性と、業務後に偶然二人きりになることがあった。

彼女とは、普段は営業の顔合わせ程度の関係だった。 その日は、取引先の急な調整で、昼過ぎに会うことになった。

時計を見ると、13時半を回っていた。

「……遅くなってすみません。 お昼、もう食べられました?」

そう訊くと、彼女は少し笑った。

「いえ、まだです。 沢渡さん、この辺、コンビニくらいしかなくて」

「良かったら、軽く何か食べませんか? 遅くなったお詫びも兼ねて」

「じゃあ……近くに、カフェがひとつあります」

彼女の提案で、駅前のカフェに入った。

話した内容は、仕事でも家庭でもなかった。 けれど、彼女が何も訊かずに一緒にいてくれた時間が、妙に心に残った。

その夜、彼女に誘われるまま、もう一軒飲みに行った。

タクシーを待っていた時、彼女がぽつりと言った。

「誠さん、このまま帰りたくないな」

──ほんの一度だけだった。 すべてが、重なっていた。 けれど、それでも──

はっきりと、一線は越えた。


それから、妻との距離はさらに広がった。

ある夜、彼が何気なく肩に触れようとしたとき、 妻はすっと身を引いた。

そしてある日、仕事から帰ると、部屋の明かりが消えていた。

妻の私物が、すべて消えていた。

冷蔵庫に、ひとつのメモが残っていた。

「あなたは、悪気がないのだと思う。

でも、あなたの沈黙が、一番きつかった。」


「……それきりだよ」

沢渡は、グラスを見つめたまま言った。

「書類も郵送。あっけないもんだ」

「相手の女性とは?」

IT男が訊いた。

「それきり。 最初から、何かを求めていたわけじゃなかった」

「でも、あの夜だけは── 自分が“誰でもない自分”でいられた気がしたんだ」

沈黙。

「そんな夜も、あるよ」 マスターが静かに言う。

「もう一杯、いくかい?」

「……今夜はこれで、充分です」

IT男がスマホをポケットから出しながら言った。

「じゃあ、来月の第3金曜は、また俺の番か」

「次は、少し気楽な話にしてくれ」

沢渡が、静かに笑った。

東京タワーが、春の空にぼんやりとにじんでいた。

Old Fashioned

苦くて、古いやり方の酒。
けれど、それを潰す手の温度だけは、なぜか──まだ、記憶に残っている。


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