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215.【小説】Bar 3rd Friday ∣Chapter 4:Rusty Nail

Chapter 4:Rusty Nail

Rusty Nail

『ラスティ・ネイル』

ドランブイとスコッチを合わせた酒、ラスティ・ネイル。 ハチミツとハーブの甘み、麦の渋み。 熟れて、枯れて、それでも香る余韻。

この一杯を好む人間は、決まって「名前の由来なんて気にしない」と言う。

 ──大事なのは、夜を越えることだと知っているから。

第3金曜日の夜。
店内はまだ静かで、開店から1時間ほどが経っていた。

俺はいつものように、氷を仕込み、棚の奥からドランブイを取り出す。 スコッチと合わせて、ゆっくりとステア。

自分のために作る酒は、いつだってこの一杯だった。

カウンターに腰を下ろし、自分で注いだグラスを傾ける。 東京タワーが、夜の向こうにかすかに滲んでいた。

この店を始めて、もう何年が経っただろう。


──あの夜も、金曜日だった。
ちょうど、月の3週目。たまたま、そうだった。

当時、俺は帝国ホテルのバーで働いていた。40代の終わり。まだ一線に立っていた。

背が伸び始めた息子と、気を回してくれる妻とのささやかな日常。 特別ではないが、きちんと大切にできていた時間だった。

電話が鳴ったのは、夕方。
病院からだった。事故。信号無視の車。

妻と息子は──戻ってこなかった。


事故からの数ヶ月、俺はただ、生きていたというだけだった。 ホテルのバーには復帰せず、職場を辞した。

半年ほどが過ぎた頃、昔のバー時代の先輩から連絡が来た。

「今夜、一杯つきあえよ。悪い酒は出さない」

神谷町の路地裏。10席にも満たない小さなバー。

琥珀色のカクテル──Rusty Nail。

「飲んだこと、あったか?」

「いえ、たぶん初めてです」

──これは、時間の味だ。

喪失のあと、初めて「何かをまた手にした」気がした。


数日後、浜松町の裏通りにある古いテナントを見に行った。 駅から少し外れた、小さなビルの2階。

ガラス張りの窓から、東京タワーの上半分が静かに浮かんでいた。

その夜はなぜか、胸の奥にしみ込むような光に見えた。

その空間に立った瞬間、思った。
──ここなら、夜を受け止められるかもしれない。

開業届を出す日、屋号を訊かれて、しばらく考えて、静かに答えた。

「Bar 3rd Friday」

あの日から、毎月、同じ日に墓地へ通った。第3金曜日。 妻と息子が眠る、小さな納骨堂に、決まってその日だけは足を運んだ。

誰にも言わなかった。 けれど、その時間がなければ、今の自分はどこにもいなかった。

だから、あの記憶を“誰かの帰る夜”に変えたかった。

この店の名は、俺にとっては記憶の灯だ。 そしていつか、誰かにとっても、そうなればいいと思ってる。


Rusty Nail。
古くて、錆びついた釘。
けれど、それが残した傷跡に、光が差す夜もある。

グラスの底に残った琥珀色の液体を、ゆっくりと口に運ぶ。

Rusty Nail──今日も変わらない味だった。

時計を見ると、そろそろ、いつもの3人の顔ぶれが現れる頃だった。

氷のストックを確認し、手ぬぐいでカウンターをもう一度磨く。

東京タワーが、夜風に揺れる光の粒を落とす。 誰かの夜が、また静かに始まる。


ドアのベルが鳴った。 最初に現れたのは、軽い足取りのIT男。

「こんばんは」
と笑うその声に、俺は静かに頷いた。

「今日は俺の番ですよ。少しだけ、ややこしい話かもしれません」

「そうか。……じゃあ、整えておこう」

いつものように、カウンターの奥で氷を掬う。 ゆっくりと、それをグラスに落とす音だけが、店に、最初のリズムを運んでくる。


ここは、夜を静かに受け止める場所。

名前なんて、きっとどうでもいい。
でも、誰かにとって、それが“帰ってこられる理由”になるなら──

それで、十分だった。


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