177.【小説】男と女∶3-柔らかすぎるパンの午後-
『柔らかすぎるパンの午後 』
土曜の昼下り、引っ越し作業の合間を縫うように、男は小さなカフェの扉を押した。
ここでは、街の喧騒は、少しだけ遠くに感じた。
ラウンド型のカウンターには、落ち着いた照明が柔らかく差し込んでいる。
男はカーディガンの袖をまくり、カフェラテをひと口すすった。
ミルクの温かさが喉を通るたび、身体の奥に沈んでいた疲れが少しずつほどけていく気がした。
そのとき、カラン、とドアベルが鳴った。
「ママ、やってる?」
入ってきたのは、明るい声の女だった。
エプロン姿の女性店主と軽口を交わす様子から、どうやら顔馴染みらしい。
「ママ!お腹ぺこぺこ。今日、何か食べられる?」
「遅い時間だけど、ちょうどいいのがあるわよ。今日の朝、いいパンが届いたの。まだ柔らかくて、明日の仕込みに取っておくつもりだったんだけど。
……午前中に出した分がすぐ売れちゃってね。少しだけ残ってるの。よかったらサンドイッチにしてみる?」
「もちろん!柔らかすぎるパン、いいじゃない。かじったら潰れるくらいが好きよ。」
笑いながら頷くママに、女はカウンター席へとついた。
男は、ラテを啜りながら、そのやり取りを静かに見ていた。
やがて、芳ばしい香りと共に、皿の上のサンドイッチが運ばれてくる。
「すみません、それ、僕にもお願いできますか?」
ママは少し驚いたように微笑んで、うなずいた。
「うん、あと一人前だけ残ってる。間に合ってよかったわね」
「本当に。なんだか運が良かったみたいです」
そう答える男に、女がちらりと笑いかけた。
「オススメよ、まさにパンが主役って感じ。」
男が軽く頭を下げた。
静かだったカフェに、小さな交差が生まれる。
店内には、ニーナ・シモンの《Little Girl Blue》が流れている。
レコード特有のかすれが、柔らかい午後に心地よく響いていた。
サンドイッチは、噛むたび、じんわりと甘く、香ばしさが広がった。
男は、久々に食べ物で心がほどけていくのを感じていた。
「……いい街だな、ここ」
男は、誰にともなく、ぽつりと呟いた。
そして立ち上がり、椅子を静かに戻した。
ラテの残り香に包まれながら、扉を開ける。春の午後の光が、坂道にやわらかく差し込んでいた。
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