見出し画像

304.【小説】潮騒の港 -ひかりの海-3

第二話 羽田空港 ─ 流れゆくもの、そこに留まるもの ─

春の光がまだ柔らかい。

勝どきの高層階。窓の先に、隅田川がゆるやかに流れていた。その向こうには、静かな東京湾。そして、さらに遠く──霞んだ空の縁に、羽田の滑走路がかすかに覗いていた。

コーヒーメーカーのスイッチを押す。

待つ間、ふと、神戸の港で撮れなかった写真のことを思い出す。

──撮りたかったのか、撮れなかったのか。

温かなロイヤル・コペンハーゲンの白いマグを片手に窓際に立つ。

少し、旅の空気が恋しかった。

「今日は、空港に行ってみるか。」

声に出してみたら、案外すんなり身体が動いた。


モノレールに乗り込むと、車窓から流れる風景に自然と目が向いた。

幾層にも連なる、都市の層。
ビル群。運河。コンテナヤード。船。

そして、飛行機が遠く滑走路の端に姿を見せる。

人工の極致ともいえる風景の中を、自分はいま走っている。だが、それだけでは、何かが足りなかった。

胸の奥に、小さく鈍い違和感が残っていた。


羽田空港のターミナルは、変わらぬ賑わいだった。

出発の掲示板が次々に更新され、アナウンスが途切れなく流れる。

行き交う人々の表情の中に、期待、不安、別れの影が混じっている。

旅は、始まりと終わりの重なりだ。

展望デッキに出ると、空の青さが少し薄まっていた。外は、少し強めの春の風が吹いている。

一機の飛行機が離陸に向かって滑走していく。

ファインダーを構えた。

──撮れない。何を見つめ、何を写すべきかが、まだ見えてこない。

あの時と同じだ。

何を撮ろうとしているのか、まだ掴めていない。

美佳の姿が、不意に浮かんだ。
ランドセルを背負った後ろ姿。
もう来年には中学生になる。

そっと、ファインダーを下ろした。


カフェのカウンター席に座ると、やや疲れが出た。

コーヒーを頼み、ぼんやりとカップの湯気を見つめる。

隣の席に、眼鏡をかけた、小柄な年配女性が座った。
そして、明るい口調で話しかけてきた。

「今日はどちらへ?」

「いや、旅立つわけじゃなくて。ただ、写真を撮りに。」

「旅も写真も、いいものよね。私はよく"港"を訪ねるの。港には、面白い顔がたくさんあるわ。」

"港"。

その言葉が、胸の奥にふと引っかかった。


会計を済ませ、歩き出す途中、ふと案内板に目が止まった。

鹿児島行きの便が、ちょうど掲示されたところだった。

「桜島」──その文字が目に入った。

火山。湾。自然と街と人とが溶けあう場所。

うん、悪くないかもしれない。
小さく息を吐いた。

──次は、港町を巡ってみるか。


モノレールの車窓から、再び都市の層が流れていく。

ビル、運河、船、そして遠ざかる滑走路。

歩き出さなければ、何も写せない──その言葉を、胸の奥にそっとしまい、目を閉じた。


いいなと思ったら応援しよう!

Spica∣言葉を編む ありがとうございます。 お気持ちが、大変励みになります。その、お気持ちに応えれる様な記事を引き続き作っていきたいと思います。 本当に、ありがとうございます。