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200.【小説】カタリナ坂で会いましょう-A面|第八話「ビューティフル・サンデー」

第八話『ビューティフル・サンデー』

春の風がカーテンをふわりと揺らすたび、部屋の空気が少しだけ透明になる気がする。洗いたてのシャツが、ベランダの竿でぱたぱたと旗のように鳴っていた。カタリナ坂に住んで、もうすぐ一年になる。

城野アオイはマグカップを両手で包みながら、窓の外を見ていた。あの朝、引っ越しの段ボールを積み上げた部屋にいた自分の姿が、まだほんの少し信じられない。

坂の下から、小さな台車の音が聞こえてくる。ガス屋か、それとも、誰かの新しい生活の始まりだろうか。

ノワールが窓辺に跳び乗り、軽く尻尾を揺らす。

「もうすぐ春ね」 アオイがそう言うと、猫は返事の代わりにあくびを一つした。


日曜の朝。
坂道はいつもよりずっと静かだ。通勤の足音がなく、カフェのオープンも少し遅い。

だからこそ、街の音がよく聴こえる。風が通り、花の匂いがかすかに混じる。パン屋の裏口では、食パンの釜から、モウモウと湯気が立っていた。

アオイはマグカップを流しに置くと、シャツの袖をまくり、ドアを開けた。

今朝ははなぜか歩きたい気分だった。階段を下りながら、坂の色が冬よりもやわらかく見えるのに気づいた。コンクリートのグレーに、陽の色が混じっている。

何も変わっていないようでいて、ちゃんと季節はめぐっているのだ。

Chat Noirの前では、マスターが窓際のグラスを磨いていた。

店内の奥では、新聞を読む常連らしき男性と、パンを齧る小さな男の子。

「おはようございます。」

「おはよう。今朝はコロンビアですよ。」

香りだけもらって、アオイは軽く会釈しながら通り過ぎた。

テラス席には、どこか見覚えのある男性が誰かと向かい合って座っていた。

タオルハンカチを返しに来た、あのときの彼だろうか。向かいに座る女性は後ろ姿だけ。でも、楽しそうな笑い声が、朝の光に混じって響いていた。

その先の角、LUNAの店先には、カナさんの姿。

ショーウィンドウを整えながら、「おはよう」と柔らかく声をかけてくれた。その声が、春の陽ざしのようにあたたかかった。

さらに進むと、大丸質店のシャッターがゆっくりと開いていく音が聞こえた。長谷部さんが静かに準備をしている。その背には、誠実な時間が張りついているようだった。

花屋Soleilの店先では、白いカゴに黄色のミモザが詰められている。その先、KITANO GARDENへと続く坂道を、カズキさんが花のアーチを抱えて登っていた。

東條ナオの姿も見える。並んで言葉は交わしていないけれど、その並びがどこか心地よかった。

春の空気は、どこか柔らかい。あの日、ノワールと出会った朝も、こんな柔らかく、優しい匂いがした気がする。


坂を下りきって、アオイはくるりと踵を返した。

もう一度、坂の上へ戻っていく。帰り道、ふたたびChat Noirの前を通った。掲示板には新しいポスターが貼られている。

『港南大学モダンジャズ研究会 新歓LIVE at Chat Noir』

ガラス越しに見えたのは、ピアノを丁寧に磨く青年。彼の背中が、街に流れる音の記憶をつないでいく気がした。

坂の上から見下ろすと、トラックが一台ゆっくりと坂を登ってくるのが見えた。春の日曜の朝には少し大きすぎるその車体に、ノワールがしばらくのあいだ視線を向けていた。

「誰か、新しく来るのかな。」

アオイはそう呟いて、欄干に手を添えた。

ダンボールを抱えた30代の女性と、少しだけ母の後ろを歩く女の子。坂の下でノワールと目が合い、立ち止まって微笑んだその姿に、アオイはふと胸の奥がきゅっとなるのを感じた。

それは、ちょうど一年前の自分と、かつての母との記憶が重なるような、どこか懐かしい風景だった。

坂の上に、風が吹いた。

花屋Soleilのショーケースには、ラナンキュラスとミモザ。和菓子の千草屋からは、ほんのり桜の香りが漂ってくる。カナさんの店では、今日も香水瓶が静かに光を返していた。

アオイは、ふうっと小さく息を吐いた。

「この坂には、終わりがない。でも、始まりは、いつだって風と一緒にやってくる──」

春の光の中、誰かの新しい一歩が坂を登っていく。

ノワールはそれを見届けるように、街灯の根元で丸くなった。

アオイはもう一度だけ、坂の下を見つめた。

「今日からあなたの物語が、ここで静かに始まるのね。──ようこそ、カタリナ坂へ。」

そして、あの母娘も──きっとこれから、この坂のどこかで、素敵な自分の居場所を見つけていくのだろう。


あとがき 

-A面の終わりとB面の始まり-

A面を読み終えた今、あなたはきっと、カタリナ坂という街の空気を、少しだけ知ってくれているはずです。

光の差す方へ登っていった物語が終わったとき、ふと、足元の影に気づく人がいるかもしれません。

『カタリナ坂で会いましょう - B面』は、坂のふもとで暮らす人々の物語。

登ることをやめた人も、登れなかった人も──彼らにもまた、“語られる価値のある日常”があると、私は信じています。

登場人物たちの小さな変化、名前を呼ばれる瞬間、そして誰かとのすれ違い。

それらが静かに連なり、街というひとつの「呼吸」になっていく様を、どうか見届けてください。

そしてきっと、あなたの心のどこかにも、過去と未来をつなぐ風が、静かに吹くはずです。

次に続く、『カタリナ坂で会いましょう - B面』にて、また、お会いましょう


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