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205.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第一話『月曜日、風のない朝 -ラストピース-』

『カタリナ坂で会いましょう - B面』

あらすじ:

坂の上には、光があると言われていた。けれど、坂の下には、朝も夜もなく──

時間はただ、名もなき日々をやり過ごすために流れている。

元プロ野球選手、風俗嬢、スナックのママ、無名のライター。

坂を登れなかった彼らは、名を呼ばれぬまま、この街で静かにすれ違っている。

だが、彼らの人生にも、確かに灯りはあった。そして春が近づくころ、一陣の風が坂をめぐる。

これは、“選ばれなかった者たち”の8日間の記録。

静かな坂のふもとから、あなたの心へと届く風が、きっとある。


第1話『月曜日、風のない朝 -ラストピース-』

川島陽菜(はるな)は、久しぶりに夢を見た。

内容は覚えていない。

けれど、目が覚めた瞬間、胸のあたりに湿った布のような重さがのしかかっていた。

寝汗でも、寒さでもない。
何か、言葉にできない感触。

午前4時過ぎ。

カーテンの隙間から見える空は、乳白色の夜明け前。
まだ夜の色が混ざっている。

新聞配達のバイクが遠くの角を曲がる音が聞こえた。

それを聞くと、もう眠れない。

そっと立ち上がって、小さなベランダの窓を開ける。

風はなかった。

団地と団地の隙間を通るはずの風が、今朝はどこにもいない。

街が呼吸していない朝だった。

階段下に、黒くて細い猫が一匹。
目だけが光っている。

あの猫は、私のことをただの風景としか思っていない。
それで、いいと思う。

テーブルの上に置いていた電子タバコを手に取る。

ひと口吸って、煙を吐き出す。
煙は薄く、色を持たない。

けれどそれは、乳白の空と同じように、何かを覆い隠す役割を果たしていた。


今日は昼のバイトがある。
ファミレスの裏方。

開店前の時間帯に皿を洗い、掃除をして、誰にも名前を呼ばれずに帰る。

そこには色も音もない。

油と洗剤の臭い、機械の回る音、それだけが世界の輪郭になる。

夜は、別の顔になる。
スマホのバイブが短く鳴った。

指先で画面をなぞり、必要な情報だけを目に入れる。

名前は知らない。
選べない。
選ばれない。

車の助手席。
微かにラジオが流れている。

クラシックだったか、ジャズだったか。陽菜には区別がつかない。

男は無言でシートベルトを外し、玄関の前でこちらを振り返った。

「ありがとう」

その一言が、今日のすべての会話だった。

帰り道、坂の方を見上げた。
街灯が一本、まだ灯っていた。

あの坂の向こうにある街は、私には遠すぎる。

登ろうとも、近づこうとも思わない。けれど、今朝は少しだけ違っていた。

遠くで何かが動き出す気配がした。

煙の向こうに、それは確かに“いた”。

けれど、まだ形はなく、風のように名前も持たなかった。

玄関を開けると、娘が寝ぼけ眼でリビングに座っていた。

テーブルの上には、小さな折り紙の青い鳥

『ママへ これ、しあわせの青い鳥だよ。まいにちつかれてるママへ』

文字はところどころひらがなで、字も少し曲がっていた。

でも、それはこの部屋の中で唯一、私をちゃんと“見て”いる文字だった。

「ママ、今日もバイト?」

「うん、バイト。なるべく早く帰るね」

私は折り紙をそっと胸ポケットにしまった。その紙の鳥が、今日という日を支えてくれる気がした。

風はなかった。でも、遠くでそれが生まれかけている──そんな気がした。

薄いグレーの空の下、今日も名前を持たない一日が始まる。


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