212.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第三話『水曜日、過去からの手紙 -坂の記憶-』
第三話『水曜日、過去からの手紙 -坂の記憶-』
香月美奈は、朝になるのが少し怖かった。朝になると、昨日が続いていることを思い知らされるからだ。
夜の間は、時間が止まってくれている気がするからだ。
団地の一室。
目を覚ますと、昨日とまったく同じ天井がそこにある。
天井の染みも、シャワーの温度も、コーヒーの味も。何も変わらない。
パソコンを開いて原稿の下書きを見る。「坂の記憶——変わりゆく街並みと暮らし」という依頼タイトル。
“変わったのは街じゃない。私のほうだ。”
その一文だけが書かれて、指が止まる。かつて自分が書いたはずの言葉が、今日は自分の胸に突き刺さっていた。
午後、美奈は外に出た。
少しだけ暖かい風が吹いていた。
久しぶりに、坂の途中まで歩こうと思った。坂の上に住んでいたのは、もう十年以上前になる。
昔通っていたカフェがある。
今は名前が変わり、内装も違う。
けれど、窓際の席はあの頃と同じ場所にあった。あの頃の私は、あの席でコーヒーを冷ましながら、恋の終わりを書いていた。
そこに、自分の面影がうっすら残っている気がして、目を逸らした。
すれ違った猫が、こちらを一瞥する。
ノワール。
あの猫、まだ生きていたのか。
帰り道、坂の上は見上げずに引き返した。風が、少し冷たくなっていた。
部屋に戻り、段ボールの奥から取材ノートを取り出す。
五年前、坂上の商店街を取材したときのものだった。
ノートの余白には、こんな走り書きが残されていた。
「香水瓶」
「古びた店内」
「話し方が少しだけ関西弁」
名前は思い出せないが、どこか印象に残る女性だった。
“この街は、誰のもの?”
ノートの端に、そう書かれていた。
質問ではなく、自分自身への問いだったのだと今になって気づく。
帰ろうと思えば、帰れた。
兄の家、かつての実家。でもそこは、もう“私の居場所”じゃなかった。
駅前で、見覚えのある顔に気づいたことがあった。名前は……たしか、長谷部。
ひとつかふたつ下の、無口な後輩。
美奈は、ソファに沈み込んで、膝の上でノートを閉じた。
坂の記憶は確かにある。けれど、今の自分は、そこにはもう存在していない。
書けなかった理由が、ようやくわかった気がした。
坂の記憶は、自分の“失われた輪郭”を照らし出す。
「……また、書けるといいな」
その言葉は、美奈に向けた過去からの手紙のようだった。
あの頃、私は書くことで、自分の輪郭をなぞっていたのかもしれない。
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