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217.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第四話『木曜日、仮の名前で -街に紛れて-』

第四話『木曜日、仮の名前で -街に紛れて-』

李 明(リ・アキラ)は、今日も誰からも名前を呼ばれなかった。

午前中の清掃現場。
無線で流れる呼び出しも、名札も、彼の名前を必要としない。無言で指示を受け、無言で掃除を終える。

汗の臭いと漂白剤の匂いが混ざった休憩室で、彼は名前のない紙コップにコーヒーを注いだ。

誰も見ていない時間にだけ、名前のない自分が存在していた。目を閉じるたび、名前を呼ばれる夢をみる。それはいつも違う声だった。

午後、短い仮眠のあと、彼は軽自動車に乗り込んだ。

夜の仕事が始まる。
今夜も、何人かの女を迎えに行く。川島陽菜もそのひとりだった。

坂の下にある集合住宅。時間通りに現れた陽菜は、今日も静かだった。助手席のドアを開けると、小さく頭を下げて乗り込む。

車内に音楽が流れている。
FM局が選んだ静かなジャズ。会話はほとんどない。信号で止まったとき、陽菜が窓の外を見ながら言った。

「この前、娘が学校で『名前の由来を調べてきて』って言われたんです」

李はバックミラー越しに彼女を見たが、陽菜は視線を上げなかった。

「なんて言ったらいいのかなって。私の名前も、娘の名前も……誰かが適当に決めたような気がして」

沈黙が少し流れてから、陽菜がぽつりとこぼした。

「名前って、大事だと思う?」

李は少し驚いて、ハンドルを握ったまま横を見た。陽菜は前を向いたままだった。

「誰にも呼ばれないと、なんか、自分が消えてく気がして」

彼は何も答えなかった。

本当は、誰かに答えてほしかった。けれど、それを望めるほど、私たちは親しくなかった。

ただ、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

夜。最後の送迎を終え、彼は車内でひとり、缶コーヒーを飲んでいた。

自分の本当の名前は、もう誰も知らない。最初に日本の学校でつけられた通名。その後、書類の都合で変えた名前。そして今、仕事上で使っている仮名。

どの名前も、どれも「本当」じゃない気がする。

どれを名乗って死ぬのか、わからない。

でも、それでも。

名前がなくても、誰にも呼ばれなくても。

街は今日も変わらずに光っていた。

自分には関係のない光。でも、その無関係さが、逆に少しだけ救いだった。

坂の上も、坂の下も。

彼はエンジンをかけ、次の待機場所へと静かに車を走らせた。


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