210.【小説】カタリナ坂で会いましょう-B面|第二話『火曜日、誰かの暮らし -見下ろす窓辺-』
第二話『火曜日、誰かの暮らし -見下ろす窓辺-』
柴田陽子は、朝6時きっかりに目を覚ます。目覚まし時計は必要ない。
東向きの窓から差し込む薄曇りの光と、どこかの家から微かに聞こえる味噌汁をかき混ぜる音。
それが彼女の目覚ましだった。
「今日も、変わり映えしないわね」
窓の外を見ながら、陽子はひとり愚痴る。
団地のベランダに干された洗濯物。
ゴミ出しに出てきた若い母親。
川島陽菜の娘らしき少女がランドセルを揺らして坂下を通り過ぎていく。
手にしていたセブンスターに火をつける。煙をゆっくり吐き出しながら、自らのアパートを見下ろす。
『柴田ハイツ』——正確には『メゾン・ド・シバタ』と名付けたかったが、さすがに見た目と名前が釣り合わないと、諦めた経緯がある。
ハイツ、で十分だ。
「夢を見てもしんどいだけよ……」
煙の向こうに、ふとあの男の顔が浮かぶ。
東條ナオ。
KITANO GARDENのバーテンダー。
表の坂の上で夢を見ようとしている子。
何度か言葉を交わしたことがある。今でも時折、裏に降りてきて缶コーヒーを買う。
そのたびに、陽子はお節介にもこう言うのだ。
「夢なんか追って、疲れただけじゃないの。現実見なさいよ。寝て起きて、食べて働く。それで充分」
もちろん、彼がそれを真に受けた様子はない。
陽子もそれを望んでなどいない。ただ、言いたくなるのだ。
かつて、自分も夢を見ていたから。
あの頃は、恵比寿のマンションに住んでいた。都内に複数店舗を構える美容室を経営する夫と暮らし、ブランドのバッグに囲まれ、毎週末は外食とホームパーティー。
それが日常だった。
きらびやかで、虚ろな日々。笑っていたはずなのに、心の中ではずっと黙っていた気がする。
そして、夫の浮気とともに、その夢も終わった。
離婚の際、手切れ金代わりに与えられたのが、この『柴田ハイツ』だった。
ローンはなかった。築浅の中古物件。名義変更と引き換えに、彼とはきっぱり縁を切った。
午前中、郵便受けを覗きに降りると、陽菜の娘がちょうど帰ってきたところだった。
「おかえり、今日は早かったのね」
「……こんにちは」
「ふふ、今日もちゃんと挨拶できてえらいわね」
ぺこりと頭を下げて通り過ぎるその後ろ姿を、陽子はしばらく見送る。
あの子の靴下は、少しよれていた。
「……洗濯、間に合わなかったのかしらね」
声には出さないが、そんなことが気になる年になった。
午後、ひとりでインスタント味噌汁をすすりながら、陽子はまた窓の外を見る。
坂の上には光がある。
誰かが言っていた。
でも、光の下には影がある。
自分はずっとその影にいる。
「誰かの暮らしなんて、覗いたってしかたないのよ。」
そう呟いても、彼女は明日もまた、同じ窓から、同じ街を見下ろす。
それでも──誰かの暮らしが、心をふと温めることだってある。
見下ろしていたはずの風景が、いつの間にか、自分にとって唯一“繋がれる”窓になっていた。
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