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316.【小説】潮騒の港 -ひかりの海-13

第九話:港の約束──LIVIERA、再び

神戸から東京へ戻って、まだ三日も経っていなかった。

勝鬨の部屋は、旅立つ前と同じように整っていた。

薄く埃をかぶった机。
使われていないコーヒーメーカー。
そして、沈黙に似た静けさ。

荷をほどきながら、あの日々が“本当にあったものだったのか”と疑いたくなるほど、ここは音がない。

東京は便利で速く、正確で、何ひとつ不足はない。

でも、港町で見た、風に揺れる洗濯物のような“生活の音”が、ここにはどこにもなかった。


昼すぎ、スタジオに入った。

クライアントは某大手百貨店とジュエリーブランドの合同案件。

モデルは完璧なメイクで、照明は緻密に計算されている。

背景も服も光も、何一つとして“偶然”に頼らない

撮影は順調だった。

予定通りに終わり、担当者も満足していた。

でも、シャッターを切る指に、どこか温度がなかった。

「撮る」という行為は同じなのに、あの港での一枚とはまるで別のもののように思えた。


帰宅後、PCに向かい、旅の写真の整理を始めた。

フォルダは日付と場所で整理されていて、ひとつひとつに港の匂いがあった。

フェリーの影、干されたタオル、波打ち際で笑う誰かの横顔。

そのときだった。

未読メールが一件、届いていた。

件名:「九鬼さんにお願いしたいことがあって」

差出人は、LIVIERA。

九州コレクションで何度か言葉を交わした、アパレル企業の若き女性オーナーからだった。

LIVIERA:若い女性の人気を基に、直近、著しく成長している企業。都内百貨店やセレクトショップでの展開多数。

“風と街に似合う服”をコンセプトに、各土地での地域企画も積極的に展開。

香月沙耶:新興ブランドながらも、一代で軌道に乗せたカリスマ型オーナー兼クリエイティブディレクター。

《こんにちは、LIVIERAの香月です。九州コレクションの写真、拝見しました。正直、あれほど“風が写っている”写真を見たのは初めてでした。》

《実は、新たに立ち上げるキャンペーンのビジュアルを依頼できないかと考えていまして——できれば、九鬼さんとお会いして、お話出来きませんか?》

品川インターシティ。

メールの署名には、その住所が添えられていた。

スマートフォンに通知が入った。

娘の美佳からのLINEだった。

「写真、見たよ。ありがとう」

それだけだった。

でも、それだけで、今日という一日が“真っ白ではなかった”気がした。

慶彦はディスプレイを閉じ、立ち上がった。

東京の夜は、窓の外に深く、黙って広がっていた。


1週間後の午後、品川のインターシティ。ガラス張りのビルの谷間に、LIVIERAのオフィスがある。

香月沙耶との再会は、思ったよりもあっさりしたものだった。

「おかえりなさい、ところで神戸はどうでした?」

慶彦は笑って頷いただけだった。

会議室には、ブランドの新作ラインがいくつか展示されている。

"九州コレクション"の時のこと、覚えてますか?」

香月がふと声を落とす。

「九鬼さん、あなた、門司港に行くって言ってたでしょう?“港の表情を、写真に残したい”って。私、あれがずっと印象に残ってて」

彼女はモニターをつけて、湘南エリアの風景写真を数枚見せる。

「実は、湘南で小規模のショーをやる構想が出ていて。海辺に合う服がテーマなんです。できれば“写真”と“空気感”を併せて伝えたい。そう思ったとき、あなたの港の写真の話が頭に浮かんだの」

慶彦は、軽く目を見開いた。

「実は…」

鞄から封筒を取り出し、中から数枚のプリントを彼女の前に並べた。

「これが、門司港で撮った写真です」

香月はひとつ、深く息をついた。

「やっぱり、あなたが撮ると、風が見える。…これ、次の提案に使わせてもらっていい?」

「もちろん」

そこからは早かった。

彼女の言葉に後押しされるように、慶彦の中に“次の場所”が浮かび始めていた。


その日の打ち合わせは、予想よりも長く続いた。

香月は、湘南エリアでの限定コレクションと展示会を企画していた。

候補地は、葉山、鎌倉、そして横浜。いずれも海を背景に“日常に寄り添うLIVIERA”をテーマにした小規模イベントになる予定だった。

「実は、創業十年の節目もあって。来年には東京コレクションの話も進んでいて、今のうちに“原点を見直す場”が欲しかったんです」

「服も、写真も、“誰のために残すか”が問われる時代だから──」もう一度原点に立ち返りたいの」

香月は言う。

「大きなステージじゃなくてもいい。海に似合う服を、海のそばで見せたい。…九鬼さん、あなたの写真が、その空気を引き出してくれると思ってるの」

言葉の隙間に、慶彦はかすかな共鳴を感じた。

商業でも私的でもない、誰かの生活にそっと触れるような視線。自分が港町で見つけたものと、重なっていた。

「じゃあ、僕は葉山、鎌倉、横浜の三ヶ所を回って、ロケハンと撮影をしてみます。香月さんが考える“風の通る服”に合う風景を探す。その中から、場所を絞っていけばいい」

香月は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、お願いね。お盆の頃、ちょうどいい季節だと思うから」

打ち合わせの終わり、彼女はふとつぶやいた。

「不思議ね。前に話した“港の写真”のこと、こんなふうに繋がるなんて。人の記憶って、ちゃんと残るのね」

その言葉が、久しぶりに、まっすぐ慶彦の胸に届いた気がした。

「香月さん、港の事、覚えていてくれて、本当にありがとうございます。私も、今の光を、今のまま残せるうちに、急ぎ撮影してきますね。」

「ありがとう、九鬼さん。この話、きっと“誰かの生活”にとっても意味のあるものになりますよ」

帰る頃、空は少し夏の終わりの色をしていた。そしてその空の向こうには、あの海がまだ続いている気がした。


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