278.【小説】誰のせいでもない 11-ある刑事の記録-何故、佐久間修は死んだのか。
【第10章:再訪·佐久間の妻】
夕暮れ時の港区の高層マンションは、どこか静かだった。遠くに東京湾の光がちらつき、ガラス越しに風の音だけが聞こえていた。
葛木は、あの日と同じ扉の前に立っていた。
インターホンを押すと、すぐに応答があった。名前を名乗ると、迷いのない声で「どうぞ」と返ってきた。
室内はほとんど変わっていなかった。整然としていて、必要以上に何も置かれていない。ただ、前回と違うのは、テーブルの上に封筒が二通、無造作に置かれていたことだった。
「お時間、取っていただいてありがとうございます」
葛木が言うと、彼女──佐久間の妻(佳織)は「いえ」とだけ答え、ソファに促した。
「報告があって、伺いました。ご主人が遺された資料、支援していた団体、関係していた方々──ある程度の話を伺いました」
彼女は目を伏せたまま、黙っていた。葛木は、これまでの聞き取りを要約するように語った。
一ノ瀬彩という政治家に託していた理想。南波詩織という画家との齟齬。子ども施設への支援と、そこでの葛藤。生前に残した政策草稿や覚書。
すべてを淡々と述べると、彼女はようやく口を開いた。
「……あの人が、そんなふうに話していたなんて、正直知らないことばかりでした」
語尾に、わずかな疲労と、諦念のようなものがにじんでいた。
「遺品は、もう処分しました。残したいものは一部、施設に寄付する予定です。支援団体も……あの人の死で、資金の流れは止まりました。事業も、恐らく年内には解散です」
「奥様は、それでいいと……?」
葛木の問いに、彼女は小さく頷いた。
「いいとか悪いとかではなく、もう“そういうことなんです”。私は彼の理想を引き継ぐ人間ではありません」
静かな断言だった。
沈黙が落ちた。
葛木は、最後に封筒に目をやった。
「それは……?」
彼女は一度、わずかに言葉を探すように間を置いた。
「遺品の整理中、金庫の中から出てきました。彼が亡くなる前、“誰かが来るかもしれない。そのときは、これを渡してほしい”とだけ言っていたんです」
封筒には宛名もなかった。
「中は見ていません。でも……あなたが来たとき、渡すべきなのは、たぶん、あなたなのだろうと」
葛木は、ゆっくりとそれを受け取った。重さはなかったが、その存在には、確かに何かが込められている気がした。
「……これで、すべてでしょうか」
彼女の問いに、葛木は少しだけ間を置いてから答えた。
「いえ、まだすべてではありません。ですが──たぶん、私が確かめられるのは、ここまでです」
立ち上がり、深く頭を下げて、玄関の扉を開けた。風の匂いが、少しだけ秋に近づいているように思えた。
帰り道、葛木は歩きながら封筒を開くことはなかった。ただ、ポケットの中でその重みだけを感じていた。
彼の死は、誰かの手によるものではない。ただ静かに、音もなく、世界から彼が抜け落ちたのだ。
誰も気づかず、誰も止めなかった。
それは、殺意のない“構造”による死だった。誰の顔にもならない暴力。誰の責任にもならない見過ごし。
彼を見ていた人間は多かった。だが、その目はみな、自分の映る鏡として彼を見ていただけだ。
理想の人。支援者。父のような存在。教えをくれた人。応援してくれた人──
けれど誰も、彼の“内側”を見ようとはしなかった。
それに気づいたとき、彼はもう、声を発することすらやめていたのだろう。
葛木は、夜の街を見上げた。高層ビルの灯が、ゆらめいていた。
「……誰も、彼を殺してはいない。でも、誰も、助けなかった」
それが、葛木の出した答えだった。
【週刊潮流・社会特集】
■【追悼特集】理想を貫いた男──佐久間修が遺したもの
官僚時代から民間支援、そして政治との関わりまで、多岐にわたる活動で知られた佐久間修氏。近年は一線から退きながらも、社会福祉や次世代支援に精力的に関わっていた。
「あの人は、“静かな革命家”だった」と語るのは、かつて彼と共に政策立案に関わった人物の一人だ。
佐久間氏の死因は公表されていないが、多くの関係者が彼の突然の死に深い悲しみを表明している。その活動は、いまも多くの現場に息づいている──。
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