277.【小説】誰のせいでもない 10-ある刑事の記録-何故、佐久間修は死んだのか。
【第9章:国会議員 一ノ瀬彩】
──「今の政治には、理想に殉じた者の記憶すら、居場所がないのかもしれません」
どこかの討論番組の切り抜きだった。司会者に問われ、間を置いて答えた一ノ瀬彩のその言葉は、静かにネット上で拡散されていた。表情に感情はない。ただ、声だけがほんのわずかに、過去の何かを引きずっていた。
葛木は、動画の再生ボタンを止めた。
彼女の名前──「一ノ瀬彩」は、佐久間の妻の口から一度だけ出てきていた。最初の面会の際、佐久間が支援していた若手政治家の名として。
だが、その後の調査で深く掘ることはなかった。
もうひとつの決定打となったのは、佐久間の書斎から出てきた一枚の紙だった。何年も前の福祉政策草案。
そこに、細かく書き込まれた注釈と、「一ノ瀬」の名前。赤字で囲われた部分にだけ、鉛筆でうっすらと“残せる希望”と書かれていた。
その名を辿り、葛木は後援会事務所の一室にいた。
空気は冷えていた。応接室というより、元々は倉庫か何かだったのかもしれない。スチール棚には資料が雑多に積まれている。整頓されてはいるが、どこか仮設的で、政治家の“本拠”としては素朴すぎる印象すらあった。
ノックの音もなく、ドアが静かに開いた。
「葛木さん、ですね」
声だけが先に届いた。振り返ると、淡いグレーのジャケットを羽織った女性が立っていた。年齢は四十代半ばだろうか。化粧も控えめで、どこか行政官にも似た雰囲気を纏っていた。
「お時間、いただいて感謝します」
葛木が立ち上がって頭を下げると、彼女は一瞬だけ目を細めた。
「……あの人のことで、ですか」
言葉に“佐久間”の名はなかった。
それでも、十分すぎるほどの確信がこもっていた。
「ええ。これは、非公式な聞き取りになります」
葛木は、内ポケットから一枚のコピーを取り出した。佐久間の書斎で見つけた、政策提言草案の写しだった。赤字で囲まれた注釈のコピーも含めて、丁寧にクリアファイルに収められている。
「これは──」
一ノ瀬の目が、一瞬揺れた。だがすぐに表情を戻し、無言でそれを受け取った。
「私の資料です。もう、十年以上前のものですけど……。まさか、彼がこれを残していたとは」
語尾だけが、ほんの少し濁った。
「彼は、よく“通らなくても正しい提案を残す意味”を説いていました。」
葛木が静かに口を開くと、一ノ瀬は微かに笑った。
「ええ。彼の口癖でした。『理解されない未来でも、誰かが拾えるように』……そんなこと、何度も。」
言いながらも、その表情には懐かしさと、わずかな居心地の悪さが混ざっていた。
「でも、現実は正しさじゃ動かない。今の私は、通せるものを選ぶようになった。……そうしないと、誰も守れないんです」
一ノ瀬の言葉には、自責の色も、正当化の響きもなかった。ただ、事実を置くような調子だった。
「佐久間さんが、政治に希望を持っていた最後の時期。私がいたんだと思います」
そう言って、彼女は書類に視線を落とした。
「でも、私は彼の最後の言葉を知らない。彼が沈黙したまま死を選んだ理由──それが、私にあるのかもしれないと、ずっと思っていました。」
葛木は言葉を挟まなかった。その沈黙を、一ノ瀬は真正面から受け止めるように続けた。
「私は、あの人に理想を託された。でも、私はその理想を“仕分け”てしまった。使えるものと、使えないものに。」
そして、ふと窓の外を見た。
「今でも彼のことを思い出すたび、自分の中の何かが問いかけてきます。『あなたは、まだ彼の言葉に立っているか?』って。」
その問いに対する答えは、彼女の中でも、まだ出ていないようだった。
【報道断片/ネット記事抜粋】
■『理念と現実のあいだ』第7回(社会政策メディア『Civitas』)
【特集】佐久間修氏が遺した“理想”──支援された政治家が語る「信念と距離感」
若手政治家として佐久間修氏から支援を受けた一ノ瀬彩議員(無所属・再選2期目)は、かつて彼から「政策立案に必要な哲学と倫理の原則」を学んだと語る。
「私たちは、時に“正しさ”を現実に翻訳する過程で、初期の信念を見失う。それでも、佐久間さんの言葉は今も資料の中に生きている。」
一ノ瀬議員は昨年、与野党の間で物議を醸した福祉関連法案の修正を主導し、一部保守層からは“現実路線への転向”とも受け止められた。
「……彼が望んだ世界には届かない。でも、彼が投げた石は、いまも水面を揺らし続けている」と葛木は思った。
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