186.【小説】金胎記 其二-おおこがね様を巡る三代記-(神代編)
【第2章:神の嫁】
――昭和二十年 晩秋、神深村・神代家の庭先
山の陰に陽が落ちるのが早くなった。
父を葬ってから、まだ三日も経っていないが、仏壇の線香の匂いも薄れ、家は静かだった。
信吉は縁側に腰を下ろし、膝の上で両手を組んでいた。
ふいに、足音が敷石を叩く音がした。
「失礼するよ、神代さん」
声の主は、紋付の羽織を着た男だった。
矢萩栄一郎。
村随一の地主であり、米穀商の当主でもある。
娘・弥生の父だった。
「お悔やみ申し上げます。……立派なご葬儀でしたな。
あの村人の数、今では珍しい」
信吉は頭を下げたが、何も返さなかった。
「この先のことを、そろそろ考えねばなりませんな」
矢萩は、まるで天気の話をするかのように言った。
「薬師堂も、神代の名も、あなたで最後になる。だが、それは惜しい。
……村はまだ、あの社を必要としております」
彼はひと呼吸置き、さらに言葉を重ねる。
「娘の弥生が、今年で二十七になります。先の戦争で婚期が延びましてな。嫁に出すには、最後の年頃でしょうな」
「……はい」
「薬師の家と地主の家が結ばれれば、村の信も、地も、立つ。
それに、弥生は器量も良い。
……どうか、前向きにお考えいただきたい」
語尾はやわらかい。
だが、その口調は、断る余地を与えぬ“申し入れ”だった。
信吉は、うなずいた。
断る理由もなかった。むしろ、受ける以外に、今の自分には何もなかった。
——その日の夕方、通りがかった村の婆が、ぽつりとつぶやいた。
「矢萩のとこの嬢さんは……目ぇが鋭いさかいな。昔っから、よう男泣かせたもんや」
信吉は、聞こえぬふりをした。
弥生は一人で現れた。
誰の付き添いも連れず、白い単衣に金のかんざしを差し、まるで嫁入りのような佇まいで門をくぐった。
信吉が玄関を出ると、弥生はもう縁側に立っていた。
光の加減か、彼女の顔にはどこか薄化粧が浮いて見えた。
目元にはわずかな紅が残り、唇には艶のある紅が差されていた。
「神代さん、はじめまして」
その声はよく通った。
だが、どこか舞台のセリフのようだった。
「このたびは……お父様のこと、お悔やみ申し上げます」
深く頭を下げたあと、弥生はキッと顔を上げ、まっすぐ信吉を見つめた。
その視線に、曇りはなかった。
だが、透明すぎて、どこか怖かった。
「わたくし……こちらに嫁がせていただくこと、心より光栄に存じます」
言葉は丁寧だったが、早口で、どこか“決まっていた”ような口調だった。
「……矢萩の家の娘であることに、私は甘えたくありません。
でも、神代の家というのは、昔から……神さまの血を継いでいるって、村では有名ですもの。
きっと、私は、この家にふさわしい女になりますわ」
信吉は何も言わなかった。
彼女の言葉の熱に、ある種の“火”のようなものを感じた。
それは感情の火ではない。
もっと別の、燃やすための言葉だった。
彼女は、最初から、何かを演じている。
そう思ったとき、庭の柿の木から、熟れた実がひとつ、ぽとりと落ちた。
音は小さかったが、その鈍い感触が、やけに耳に残った。
土に潰れた果肉が、じわりとにじんでいた。
——神代家と矢萩家の結婚式は、静かに、慎ましく執り行われた。
参列したのは、両家の親族と、村の有力者が数名。
式の途中、弥生は一度も視線を逸らさず、まるで演者のように所作をこなした。
その瞳にあるのは緊張ではなく、何か“確信”のようなものだった。
信吉は、終始無言だった。
だが、あの日、父が最期に口にした「掘るな」という言葉は、心の中でくり返されていた。
——最初のうち、村人の目は、どこか探るようだった。
「矢萩の嬢さんは、昔から……ちょっと、気が強すぎてな」
「矢萩の跡取りの話も何度も流れとる。……気性に難があるちゅう噂でな」
それでも、日が経つにつれ、空気は少しずつ変わっていった。
弥生が毎朝、庭を掃き、子どもに字を教え、婆さまに薬を届ける姿が、村を歩いた。
「ほんまは、ええ娘やったんやな……」
「矢萩の娘やで。理想が高いんはしゃあないわ……それに、頑張っとる」
かつての噂は、次第に“都合のいい過去”として、村の中で上書きされていった。
昔をよく知る者だけが、その“変化の速さ”に違和感を覚えていた。
結婚後、村には少しずつ変化が起き始める。
弥生は、家の中を手際よく整え、農家の子たちに字を教えるようになった。
村人たちは最初こそ警戒していたが、徐々に弥生の声に耳を傾けるようになっていった。
「この村を、昔のように豊かにしたいのです」
「でも、お金ではありません。
信じる心が、わたしたちを照らすはずです」
それは誰かの受け売りでも、教典の言葉でもなかった。
弥生が村の集会所で語ると、老いた農夫たちは静かにうなずき、婦人たちは弁当を差し入れるようになった。
信吉は、そんな彼女の姿を遠くから見ていた。
そして、心のどこかでこう思っていた。
——ああ、あの人は本気なのだ。
村を変えようとしている——真っ直ぐに。
ある日、弥生が言った。
「信吉さん、薬師堂を……少しだけ、開いてもよろしいですか?」
「どうして」とは聞かなかった。
信吉はただ、首を横に振らなかった。それは、初めて“信仰を許した”瞬間だった。
数日後、薬師堂には白い布が張られた。
弥生の指示で、柱は清められ、灯明台が据えられた。
そして、堂の奥に、白布をかぶせられた“おおこがね様”が据えられた。
それはまだ“神”ではなかった。
だが、弥生が“祀りたい”と願った瞬間から、村はそれを“見上げる”ようになった。
父は言った。
掘るな、と。
——だが、覆うことすら、破戒なのか。それとも……これが、守るということなのか。
《神深村、復興へ一歩 地元の旧薬師堂を若夫婦が再興》 《“おおこがね様”信仰、戦後の希望となるか》
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