257.【小説】ぐるり、左 ― 遠回りのあとで ―②
第2章:目黒 - はじめて鍵をかけた夜 -
目黒の坂は、帰り道にだけ、重たくなる。
住み始めたばかりの頃は、それすら新鮮だった。
駅から急な坂を下りて、目黒川を越えた先のマンション。間取りは1K。日当たりはまあまあ、コンロは一口。
けれどあの部屋は、紛れもなく「私の場所」だった。
大学を出て、就職して、少しだけ都会の人間になった気がしていた。
週末には、中目黒まで散歩した。
目黒川沿いの店をひとつずつ覗いて、いつか雑誌に載っていたような部屋にしようと、雑貨を買い足した。
リネンのカーテン、木のトレイ、白い食器──そんな小さなものに、自分の「暮らし」を見つけた気がしていた。
夕方の部屋には、カーテン越しにオレンジの光が落ちていた。
その中で、ひとりで紅茶をいれる音だけが聞こえていた。
でもある晩、夜遅く帰ってきた私は、無意識に鍵を二つかけていた。
ひとつはいつものシリンダー錠、もうひとつは、ドアチェーンだった。
その音に気づいたとき、私は少しだけ立ち止まった。
靴を脱ぎながら、なぜそんなふうに閉ざしたのかを考えていた。
ドアチェーンの「カチリ」という音が、やけに響いていた。
何を守っていたのか。
何から閉ざしていたのか。
わからない。
ただそのとき、部屋の中の静けさに、妙な孤独があった。
テレビもつけなかった。
カップの縁をなぞる指先だけが、音をたてていた。
目黒川の桜は、春になると信じられないほど華やかだった。
昼は花びらが川面に散って、ゆっくりと流れていく。
夜になると、ライトアップされた桜が、両岸から川面に向かって枝を伸ばしていた。
桜と光が重なって、水面まで淡く光って見えるあの景色は──今でも思い出すたびに、少し息が止まるほどだ。
川面に映った花の影が、波でゆれていた。
ほんの一瞬だけ、世界が止まっていたような気がした。
ベンチに座って、コンビニのコーヒーを飲んでいた。誰かと一緒でもなく、特別な出来事があったわけでもない。
ただ、あの時間だけは忘れられない。
自分を守るために鍵をかけていたのか、誰かが来るのを期待していたのか。
その答えを、いまの私はまだ持っていない。
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