207.【小説】男と女∶11 坂の途中 ― 言えなかったこと
『坂の途中 ― 言えなかったこと』
午前の診療を終え、昼下がりの坂を歩いていた。
まだ少し風は冷たいが、日差しには確かに春の気配があった。街路樹の蕾は膨らみはじめ、季節が静かに進んでいるのを感じる。
妻と娘が並んで歩く後ろ姿を見ながら、僕はそっとジャケットの襟を直す。
父の代から続く歯科医院。
跡を継いだとき、反対する者はいなかった。むしろ当然のことと見なされた。
「城之内の名に恥じないように」
そう言われ続けた背中には、自然と力が入る。
彼女──今の妻と出会ったのは、そんな頃だった。両親を早くに亡くし、一人で生きてきたと語ったその人に、僕は惹かれた。
「守ってあげたい」というより、「並んで歩ける気がした」──今なら、そう思える。
結婚してすぐ、母や妹との軋轢が生まれた。
家柄、言葉遣い、所作、ふるまい……。僕にとってはどうでもいいことでも、妻にとっては“刺さる”日常だった。
わかっていた。
けれど僕は、何も言えなかった。
家の名を汚したくない、面倒を増やしたくない──そんな気持ちが、言葉を封じた。
その代償は、大きかった。妻は、離婚届を書いた。結局は出さなかったけれど。
彼女が娘を連れていない、あの数日間が、僕のなかでは“家が傾いた時間”として深く残っている。
冷え食卓と、静まり返った部屋の記憶が、今もふと、胸に刺さる事がある。
少しずつ、僕は変わろうとした。
朝の食器を洗ったり、娘の髪を結んでみたり。不器用な手つきに笑われることもあったけれど、
「あなたがいると、少し安心する」
そう妻がぽつりとこぼした言葉が、今でも支えになっている。
カフェの前で、娘が立ち止まる。
「この絵、きれい。鳥さんと、お花だよ。」
ラナンキュラスと、カワセミ。
「入ってみる?」と、妻がこちらを振り返った。
この坂で、こんな風に声をかけられたのは、いつぶりだろう。
店内は、午後の光とパンの香りに満ちていた。奥でパンを焼いていた夫婦が、こちらに気づいて軽く会釈をしてくれる。
娘がたまごサンドイッチにかぶりつき、妻はシナモンを少し振ったココアを口にする。
僕は、ブレンドをひとくち啜って、ふと外の坂道に目をやった。
何かを劇的に変えたわけじゃない。
それでも、今日こうして三人で坂を歩いていることが、過去の選択への、小さな答えになる気がした。
「……今日みたいな午後、悪くないわね。」
妻がそう言って、少しだけ笑った。
僕は静かに頷いた。そして、言葉の代わりに、その手にそっと触れた。
スピーカーから、さっきの曲の続きを思わせる旋律が流れてくる。
「♪‘Cause we're living in a world of fools, breaking us down…」
──けれど今、この小さな午後だけは、壊れずに残っている気がした。いつかまた傾くことがあっても、この時間を思い出せる様に。
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