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306.【小説】潮騒の港 -ひかりの海-5

第三話(後編)鹿児島·錦江湾── 夜の街、そして桜島へ ──


夜の街へ、ふらりと出た。

天文館の通りには、遠くからでも笑い声と焼酎の匂いが漂っていた。

観光客と地元の人が入り混じる通りを歩きながら、一軒の暖簾をくぐった。

カウンター席に座ると、品の良い小鉢とともに、透き通る銀色の小魚が出てきた。

キビナゴ

鹿児島の海の恵みだという。酢味噌につけて口に含む。

──小さな命を、いま自分は受け取っている。

豊かな海に生きるもの。それを、こうして食卓にのせ、あたりまえのように手を合わせる人々の暮らし。

東京でこうした感覚を持つことは、ほとんどなかった。

ふと、旅の輪郭が少し濃くなった気がした。


食後、静かなバーを探した。

カウンター越しに出されたグラスは薩摩切子だった。灯りを受けて、底のカットが静かに煌めいていた。

──土地の美意識にふれた気がした。

隣に座った数人の客との会話が自然と始まった。

「あんた、東京から?」

「ええ。ちょっと、写真を撮りに。」

「それなら桜島、行きゃらんと。あそこは別格さねぇ。鹿児島の誇りよ。」

陽気な声に、こちらも笑みがこぼれた。

「わしら、桜島とともに生きてきた。噴火も、灰も、もう慣れちょっでぇ。」

桜島。

昼間、磯庭園から見たその姿が脳裏に浮かんだ。

人が、自然とともに生きていく。その“強さ”に、急に惹かれていた。

「明日、行ってみようと思います。」

言いながら、自分の声に確かな意志が混じっていることに気づいた。


翌朝。

フェリーに乗った。

海の向こうに、桜島が近づいてくる。甲板に立ち、潮風を受けながらファインダーを覗いた。

自然の雄大さ。
火山の圧倒的な存在感。

そのすべてが、目の前に迫っていた。

観光パンフレットの文字情報は、この空気の匂いや重さの前では無力だった。

いま、目の前にあるこの"生きている風景"を、ただ、そのまま写し取りたいと思った。


桜島に着き、いくつかの場所を歩いた。

溶岩展望所からの景色は圧巻だった。

埋没鳥居の石の質感には、長い時間の重さが静かに刻まれていた。

シャッターを切る。

ここでも、構図や光の計算は頭から消えていた。

──ただ、撮りたい。

その衝動だけが、自分を動かしていた。


帰りの便を待つ間、空港の売店で一枚のポストカードを手に取った。

桜島の写真。
噴煙が空に淡く流れていた。

静かな席に戻り、ボールペンを走らせた。

母さんへ。

今、鹿児島に来ています。
桜島がとてもきれいです。
少しだけ、自分のルーツに触れた気がしました。
また、連絡します。
               慶彦

もう一枚、美佳宛にも簡単な言葉を添えた。

美佳ヘ
──いまはただ、この風景の気配を少しだけ伝えたかった。
             パパより

ポストに手紙を落としたとき、旅がひとつ、小さな輪を結んだ気がした。


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