見出し画像

259.【小説】ぐるり、左 ― 遠回りのあとで ―④

第4章:新宿 - 傘を忘れた日 -

新宿の駅を歩くとき、私はよく足元を見ていた。

天井のない空の下を歩いているつもりでも、実際には地下にいることが多い。

乗り換え、出口、地下街。

どこを歩いても同じような白い光と案内板があって、地上がどこにあるのかわからなくなる。

足音とアナウンスだけが響く、蛍光灯の迷路。まっすぐ歩いているのに、少しずつ何かから逸れていくような感覚があった。


新宿で彼と初めて会ったのは、映画館だった。

新宿三丁目の、細い通りにあるミニシアター。

その日は、『バグダッド・カフェ』のリバイバル上映だった。何も起きないようで、少しずつすべてが変わっていく映画。

今でも、あの静けさと色彩を思い出すと、胸の奥がざわつく。

スクリーンが暗転し、拍手もなく終わった。目が暗さに慣れた頃、ドアが開いて現実の色が差し込んだ。

そして、映画が終わって外に出たとき、雨が降っていたことを、覚えている。

「傘、持ってる?」 と彼が聞いて、私は首を振った。 彼も持っていなかった。

ふたりで濡れながら、駅まで歩いた。 駅の改札が見えたとき、彼は一瞬だけ手を伸ばして、私の腕を引いた。
でも何も言わずに、すぐに離した。

濡れたシャツの感触だけが、肌に残った。言葉より先に消えていく仕草に、気づかないふりをした。

その距離感が、今でもときどき思い出される。


彼と出会ったのは、いまの職場に転職して間もない頃だった。

前職では味わえなかった自由さや裁量があって、仕事に手応えを感じ始めていた。忙しかったけれど、充実していた。

そんなときに出会った人だった。

彼は穏やかで、話をよく聞いてくれた。 背伸びをしなくてもいいと思わせてくれる人だった。

でもその分、何かに火がつくこともなかった。 安心と引き換えに、何かを手放しているような気がしていた。

心が波立たないということは、優しさか、麻痺か。

私はまだ、それを決めきれていない。


新宿御苑には、よくひとりで行った。

春は花が咲いていて、秋は落ち葉が一面に敷かれていた。 ビルに囲まれたあの庭園は、私が呼吸を取り戻す場所だった。

ビルの合間に見える空を見上げながら、 「私は、このままでいいのかな」 と、何度も思った。

地下街を歩きながら、私はいまも思っている。

今日、私は彼に会う予定だった。 紹介する、という言葉を聞いたとき、心のどこかが少し軋んだ。

だから、外回りに乗ったのかもしれない。

地上に出れば、いつもの街だ。
でもその下では、私はまだ迷っている。


いいなと思ったら応援しよう!

Spica∣言葉を編む ありがとうございます。 お気持ちが、大変励みになります。その、お気持ちに応えれる様な記事を引き続き作っていきたいと思います。 本当に、ありがとうございます。