191.【小説】Golden Slumber Ⅳ-Die Stille des Goldes-
第4章 沈黙の果てに
あの夜以降、彼女とは会っていない。
一通の手紙だけが届いた。
「ありがとう」──それだけが、ミレナの筆跡で記された白い便箋に残されていた。
差出人の名も、差出地も曖昧で、封の匂いすら、あの残り香を想起させなかった。
私は返事を書かなかった。いや、書けなかったのかもしれない。
そのまま季節は流れ、街の色は確かに変わっていった。
ミレナの消息が途絶えたことに、私はどこかで“そうなる予感”を抱いていた。
だが、それでも私は彼女を探した。
手紙を送りはしなかったが、従者を通じてかつてのアトリエを訪ねさせ、屋敷の使用人たちに消息を尋ねさせた。
「もう、あの方は……」
言葉は皆、そこで止まった。
住まいは既に無人。
まるで、彼女がこの世にいた痕跡すら、誰かが計算して消していったようだった。
誰が手を下したのかも、誰が命じたのかも、語られなかった。
その“語られなさ”が、逆に真実を炙り出していた。
父の書斎で、その一端が崩れた。
「最近、トラウベン伯爵家も潰れたそうだな」
父は新聞から目を離さずに呟いた。
「ジプシーの愛人に子を産ませた。政府の勲章も剥奪されたそうだ。……馬鹿な話だ」
私は振り返った。
「父上、あなたは──」
「名を守るためだ、レオポルト。
お前も、その名の意味を知っていよう。匿えば、同罪だ。今のこの時代、同情は罪になる」
言葉に抑揚はなかった。ただの事務処理のような声音だった。
私は口を閉じた。震える手を見られぬよう、書斎を出た。
アレクシアとは、正面から話すしかなかった。
夜の広間、蝋燭の灯りがやけに白く感じられたあの夜。
私は、彼女の前に立った。
「ミレナが、消えた」
アレクシアは微かに息を飲んだ。
「その名を、あなたの口から聞くのは久しぶりね」
「君は、知っていたのか」
しばし沈黙のあと、彼女は静かに語った。
「慰み者である限り、私は黙っていられた。プライドも、形式も、保てた。けれど──」
アレクシアは目を逸らさずに言った。
「子ができたのなら、話は別よ。家が奪われる。名が、途絶える。私は、選ばれた側に生まれたの。落ちるつもりなんて、ないの」
私は声を潜めて言った。
「構造を守るために、命を殺したのか……」
「この時代よ、レオポルト。誰かと関わることで、“家”が終わるの。ジプシーやロマと関わった者は、同罪。石を投げられ、噂になり、排除される。そうなる前に、処理されただけ」
私は叫んだ。
「君たちはそれを“誇り”と呼ぶのか!」
アレクシアは何も返さなかった。
ただ、涙を流さずに私を見ていた。
その目には、恐れがあった。
全てを失うことへの恐れ、そして、自分が“何も守れなかった”という敗北の色が。
その数日後、私のもとに一通の封筒が届いた。
送り主の名はなかった。
中には、一枚の素描が入っていた。
器と、白い茎。
枯れかけた花の傍らに──描きかけの横顔があった。
薄墨の線が残した輪郭は、ミレナの頬の陰影だった。
朽ちかけた果実と、咲ききれなかった花と、そしてあの人の面影。
それは、彼女が一人きりで、誰にも伝えぬまま描いた、“生まれるはずだった命”の肖像だった。
それは──
きっと、私たちの間に芽生えていた、“まだ名を持たない存在”だった。
最後の夜、私は父とアレクシアの前に立った。
「もう、すべて終わったんだ」
沈黙が落ちたあと、父が言った。
「お前は、愛に酔い、すべてを失った敗北者だ」
アレクシアも目を伏せずに続けた。
「私たちは家を守った。あなたは、壊した」
私は静かに言った。
「違う。私は、敗北したのではない。私は──あなたたちの世界から、降りたんだ」
私は家を捨てた。
地位も、領地も、名誉も。形式も、誇りも、全部。
父は何も言わなかった。
アレクシアも、最後まで私に背を向けていた。
だが、その背中に、私は確かに“揺らぎ”を見た気がした。
「誰が殺したのか?」
その問いは、もはや意味をなさなかった。
ミレナは、“誰か”に殺されたのではない。
“何か”に消されたのだ。
それは、時代だった。
それは、構造だった。
それは、私たちが誇りと信じていた、美しいものたちの総体だった。
私はそれを、傍らで見ていた。何もしなかった。何も、できなかった。
それでも──
私は今も、その絵を手元に残している。
ミレナが最後に描いた、“生まれなかった命”のかたちを。
それが贖いになるとは思わない。
だが、あの絵は、私にとっての沈黙であり、証明だった。
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