384.【小説】金胎記 −矢萩三代記−〈声なき神を抱いて〉其伍(矢萩編)
【第4章 真央という異端】
昭和三十年、夏の終わり。
神深村の矢萩邸にて、矢萩栄一郎は静かに息を引き取った。
真央はその時、八つになっていた。
“神の子”として信徒たちから崇められ、村の誰よりも清潔な衣を着せられ、誰よりも「汚してはならない」存在として育てられていた。
だが、彼自身には、それがどれほど異様なことか、まだわかってはいなかった。
邸内は喪に沈んだ──はずだった。
だが、矢萩の死とともに、教団はかえって動きを加速させた。
彼の残した文書。
それは信徒の間で「矢萩聖典」と呼ばれ始めていた。
·法人格の取得に向けた具体的手続き
·財産の宗教財としての整理案
·支部拠点の整備
·信徒会報の編集方針と頒布経路
まで詳細に記されていた。
それはもはや一宗教の創始者の遺稿ではなく、一種の経営計画書だった。
この書類をもとに、信徒たちは矢萩の意思を“実行”しはじめた。
それを率いる象徴として、弥生と真央の存在は必要不可欠だった。
だが──弥生は、静かに壊れ始めていた。
矢萩の死後、彼女は時折、部屋の隅で誰かと話しているように独り言を呟いた。
時には、真央に向かって「あなたは神ではない」と言い、翌日には「あなたは神の子なのよ」と涙を流した。
信徒たちは、それすら「神の試練」と受け止めた。
真央の内にも、何かが芽吹き始めていた。
言葉にできない違和感。
なぜ、自分は“神の子”と呼ばれるのか。なぜ母は泣くのか。なぜ誰も「父」と呼べる存在を明かさないのか。
そしてある夜、真央は夢の中で、矢萩の声を聞いた。
──「おまえは、わしの夢だ」
それが何を意味するのかはわからなかった。ただ、目覚めた時、妙に静かな怒りが、胸の奥に残っていた。
一方で、信吉は、日ごとに沈黙を深めていた。
弥生との距離は埋まることなく、真央との間にも奇妙な壁が生まれていた。
彼は知っていた。
真央が自分の子ではないことを──
だが、その「知っている」ということすら、彼は誰にも告げなかった。
告げてしまえば、家族も、教団も、すべてが崩れてしまうような気がしたのだ。
教団は拡大していた。
講話会、支部巡礼、信徒会報……
そのすべてが、矢萩の青写真の通りに動いていた。
けれど、静かに軋みはじめていた。
弥生は祈りの最中に言葉を見失い、真央は神前に立つたび、俯くようになった。
信吉の眼差しには、焦りよりも、諦念が宿りはじめていた。
──誰もが、気づいていた。
この歯車は、もはや矢萩の手を離れ、別のものに変貌しつつあることを。
そしてそれでも、誰一人、止めようとはしなかった。
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