187.【小説】男と女∶6- 止まった時計の前で
『 止まった時計の前で』
北野の坂道を少し上がった先に、その喫茶店はあった。
店内には時間が止まったような静けさがあった。カウンターの奥、壁にかけられた大きな古時計は、十年以上前から同じ時刻を指したまま、今も変わらず音を立てることはなかった。
姉はその時計を見上げて、ふっと微笑んだ。
──昔、父と母と、そして妹と四人で訪れたのは、たった一度きりだった。
まだ皆が一緒にいた頃。幸せだった時間。
店の片隅、静かな席に先に着いた姉は、深く座り込むようにして、メニューも開かず窓の外を見つめていた。
春の日差しが、ステンドグラス越しにゆっくりと差し込んでいる。
ドアベルが鳴り、軽快な足音が近づく。
「ごめん、遅れちゃった」
妹が現れ、姉の向かいの椅子に腰を下ろす。
「大丈夫。私も今来たところ」
そう言って姉が小さく笑うと、妹は店内を一瞥し、視線を時計に移した。
「まだ止まってるのね、この時計」
「ええ。昔と変わらない。あの頃のままね。」
二人の間に、短い静けさが落ちる。
やがて姉が、メニューも見ずに口を開いた。
「……ホットココア、お願いします。シナモンを少しだけ振ってもらえますか。」
妹が少しだけ驚いたように笑う。
「姉さん、それ、昔から変わらないのね」
「変われないのよ。意外と」
運ばれてきたカップを受け取りながら、姉はバッグの端についた小さなフェルトのチャームをそっと撫でた。
「娘がね、幼稚園で作ったの。可愛いでしょ」
「似合ってる。……愛梨ちゃん、元気にしてる?」
「とても元気よ。」
「もう、随分と大きくなったでしょう?」
「そう、とても元気で、困っているくらい」
「姉さん、時間は大丈夫なの?」
「今日は遠足でね、少し遅くまで愛莉を預かってもらえるから。」
そこから少しだけ、互いの近況を言葉少なに交わしたあと、姉がぽつりと呟いた。
「ねえ……私、離婚、考えてるの」
妹の手が一瞬止まる。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「うん。なんとなく。今日ここに呼ばれた時点で、そうかもって思った」
姉は笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。
「城之内家の嫁として、私はちゃんとやってきたと思ってる。家の中のこと、夫の体裁、子どもの教育。全部、私が守ってきたつもり。でも……」
「……でも?」
「誰も、私を『私』として見てないのよ。義母も、義妹も。夫ですら……何か起きても、間に立つでもなく、黙ってるだけ。私が擦り減っていくのを、見て見ぬふりをしてる。」
カップをそっと置く。
「愛莉だけよ。私を必要としてくれてるのは。だから……それだけで、ここまで頑張って来たの。でも、限界が近いのかもしれないの。」
妹はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「お母さん、姉さんも知ってる通り、とても芯の強い人だったの、覚えてるかな?」
姉は、ふっと目を伏せたまま、頷いた。
「私が中学生の頃、あの人がふと漏らしたの。『人生は、選び直せることの方が少ないのよ』って。自分のことを語ったわけじゃなかったけど……たぶん、自分の選択にずっと迷いがあったんだと思う」
「……お母さんらしいわね」
「私は、それでも選び直した。でも姉さんは、選び直さないで頑張ってる。……本当は、すごく尊いことだと思ってるよ。」
姉は、もう一度目を伏せる。
「羨ましかったのよ。妹の、あなたの自由が。離婚して、好きに生きて……
きっとあの時の私なら、怖くて選べなかったわ。」
「選べなかったんじゃなくて、選ばなかったのよ、姉さんは。愛莉ちゃんのこと、家のこと、自分で全部引き受けるって、覚悟したんだよ。私は、逃げたんだと思うわ。」
「逃げたなんて思ってない。」
「でも、自分では、たまにそう思うの。だから、今日ここに来たのかも知れない。」
姉が顔を上げた。
止まった古時計は、相変わらず静かに、時を留めたままだ。
「ねえ、シナモン、もう少しだけ振ってくれる?」
姉がもう一度そう言って、二人は小さく笑った。
その日は、時計も時間も動かないままだったけれど、二人の心の針だけが、少しだけ前に進んでいた。
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