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170.【小説】男と女∶2-待ち合わせのない約束-

『待ち合わせのない約束』

―交差するまえの静寂―


男は待っていた。

この街を離れる朝、なぜか足は自然と駅へ向いた。

最後にこの場所を見ておきたかった──そう思ったのは表向きで、 本当は、彼女の姿を探している自分がいることにも気づいていた。

土曜の午前、春休み。

駅構内はどこかぼんやりと静かで、数人の家族連れがホームへ向かうのが見えた。 スーツ姿の人影はない。

改札横の掲示板には、手書きの案内と行き先表示が貼られている。その隣に、緑の公衆電話が二台。かすかに揺れる受話器の線が、昔の習慣を思い出させた。

番号は覚えていた。

何度か、かけようと思ったこともある。けれど、そうしなかった。自分のなかの答えが、既に出ていることを知っていたからだ。

木製のベンチに腰を下ろすと、背中に冷たさが伝わった。

腕時計を見たが、針の位置は曖昧なままでいい気がした。時間よりも、ここに来たという事実だけが意味を持っていた。

今日はもう、誰かを待つ日ではなかった。

ただ、自分の中にある気持ちに、最後の区切りをつけるために。

──「これで終わらせよう」

男は、かすかに呟いだ。


女は待っていた。

この駅に来るのは、何年ぶりだっただろう。

彼と別れてからは避けていた場所──けれど今日は、なぜかその静けさが必要だった。

彼が今日、街を離れることは知っていた。

誰かから聞いたわけではない。ただ、なんとなく、彼の仕草や言葉の端々から察していた。

駅に向かう坂道。

風に乗って沈丁花の香りがした。春の空気は柔らかく、けれど胸の奥には重さが残っていた。

構内に入ると、掲示板が目に入った。

色褪せた路線図、その隣に伝言スペースのような小さな黒板。そこには誰かの走り書きが残っていた。意味はなかったが、足が止まりそうになった。

“彼に会いたいわけじゃない”

そう思いながらも、どこかで姿を探している。たとえ見かけたとしても、声をかけるつもりはない──そのはずだった。

けれど、もし“何か”が起きたら。

そのかすかな予感が、今日ここに足を運ばせた。


──「もう一度だけ、彼の顔を見てみたかった。」

女は想いを確かめ、言葉にした。


彼と彼女は、それぞれの理由で、同じ駅を目指していた。

だがその時間は、ほんのわずかにずれていた。


―すれ違いの先にあるもの―

電車がホームを通り抜ける音だけが、空気を震わせた。

彼は顔を上げず、その風をただ受け止めていた。

いつの間にか、ベンチの隣に座っていた子ども連れの親子も、どこかへ行ってしまっていた。

何も起きなかった。

それで良かった。

いや、少しだけ、胸の奥が静かに疼いたのは事実だ。だがそれでも、言葉にしてしまえば、全部が台無しになる気がした。

ベンチから立ち上がると、鞄の肩紐が少しだけきしんだ。

最後に改札を一度だけ振り返る。けれど、そこには誰の姿もなかった。

歩き出す。

階段を昇り、発車時刻の近いホームへ向かう。

背中に朝の陽射しが差し込み、少しだけ目を細めた。

──「……やっぱり、来なかったんだな」

男は、確信めいた乾いた声で呟いだ。


構内へ入った女は、ゆっくりと歩いた。

すれ違う人は少なく、音だけがやけに大きく響く。

電車が走り去ったあとで、空気がすっと軽くなった気がした。

改札を抜け、構内に広がるホームへ。

ベンチが見えたとき、そこには誰もいなかった。

駅に流れる風が、何かを追い越していったような気がした。

彼は来ていなかった──そう思いながらも、 なぜかそのベンチには、誰かが座っていたような痕跡が残っていた。

木の質感、足元に落ちる影。

わかっていた。

彼はもう、この街にはいない。

でも、来たのだ。きっと。

それを知ってしまったことで、涙が出るわけでも、後悔があふれるわけでもない。

ただ、“自分の心の一部がやっと追いついた”気がした。

──「……一足、遅かったのね」

ため息の様な、小さな声だった。


男は、列車に乗っていた。

窓の外には、いつもの街並み。もうすぐ、それも遠ざかる。

何も変わらないはずの景色が、今日は少しだけ違って見えた。

たぶん、自分が変わろうとしているからだろう。

鞄の内ポケットに、一枚の未使用の乗車券が残っていた。

数年前、ふたりで一度だけ計画した小旅行──結局、その日彼女は現れなかった。 それでも、彼はその切符をずっと持っていた。

今日、この駅を離れる直前に、ようやくそれをゴミ箱に滑り込ませた。

女は、構内をあとにした。

ベンチには寄らなかった。ただ、視界の端に焼きつけて、踵を返した。

“これでよかった” それを言葉に出さずに思えるようになるまで、随分とかかった気がした。

春の陽射しが少しだけ強くなっている。歩く足取りが軽くなったわけではない。けれど、戻る場所は確かにある。

二人は、すれ違った。
わずかな時間、わずかな距離。

でも、それは“想いが交差する”には十分だったのかもしれない。

彼は上り、彼女は下り。

電車は交差せず、それぞれの方向へと静かに走り出していた。


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