179.【小説】Golden Slumber Ⅱ-Die Stille des Goldes-
第2章 退廃の序曲
ウィーンの空気には、いつからか薄い埃と甘い香が混じるようになっていた。
季節は初夏のはずだが、空の色には憂鬱な翳りがあり、街の石畳の反射もどこか湿って見えた。
──退屈ね。息してないのよ、アナタの世界。
あの夜から、私は何かを見失ったのだ。それは一瞬の歪みであり、やがて年月へと姿を変えた。
私は彼女に再び会うことなく、社会の構造に戻った。
アレクシアと婚約し、後に結婚したのも、その延長だった。
けれど私は、名もなき絵の中に、声のない香の中に、何度も彼女を見た。
私たちには子がなかった。
アレクシアは、それについて一度も触れようとしなかった。
彼女は今もなお、華やかな社交界の最後の花として舞台に立ち続けている。
その姿は、かつてのままに美しく、冷ややかで、そして何より変わっていなかった。
だが、その家は、徐々に傾いていた。
社交界の名簿から、いくつかの名前が静かに消えていた。
その理由を誰も語らず、誰も問わなかった。
あの家も、あの家も──ウィーンの地図の中から、いつの間にか沈んでいく。
だが、アレクシアは何も変わらなかった。
香も笑みも、あの頃のままだった。
まるで戦争という言葉だけが、彼女の耳に届かなかったかのように。
それは気高さではなかった。硬直した優雅さだった。
死に近い美のかたち。
彼女の一族の旧屋敷は、今では他人の手に渡っている。
だが名誉の維持のため、私の家から密かに支援が続けられている。
構造とは、いつも内部から崩れ始める。
──そして、ある日ふいに、ミレナは現れた。
私はその夜、絵を見に行くことになっていた。
そして──彼女は、そこにいた。
「教授──ウィーンの名家同士の結婚は、さぞ幸せでしょう?」
その声が、絵の具よりも、香よりも、私を揺らした。
振り返るまでもなく、それがミレナの声だとわかった。
あの夜から、10年が過ぎていた。
私はかろうじて微笑を返しながら、問いを返した。
「君の方は、どうなんだ?」
ミレナは、視線を絵から外さずに言った。
「知っているでしょう?──教授は、私を探していた」
その声には、確信と、それ以上語らせない静けさがあった。
「一度だけ、誰かの姓を名乗った時期があったの」
ミレナは、絵の前でわずかに肩をすくめるように笑った。
「でも──それも長くは続かなかったわ」
壁には数点の絵が並んでいた。
神経質な線で描かれた肖像画。
露骨に剥き出された肢体。
クリムトの金、シーレの骨──今、街はその欲望と崩壊を讃えていた。
彼らの描くのは、終わりを前提にした快楽。燃え尽きることを宿命とした、刹那の構図だ。時代を映す鏡のように、鮮やかで、確かに人を惹きつける絵だった。
だが、私にはそこに“美”を見出すことができなかった。
あれを肯定するには、私の中の構造が──まだ崩れきっていなかった。
だが、ミレナの絵は──まるで別物だった。
それは、白い茎だけが描かれた静物画だった。花はなく、筆跡も途中で消えている。器の影が、傾いた午後の光に溶けていた。
まるで、描こうとして──やめたような絵だった。
「……描けなかったのか。いや……描かなかったのか」
私は、知らず口にしていた。
ミレナは視線を外さず、ほほえむでもなく、答えた。
「描かないことで、見えるものもあるでしょう?」
それは、格式と時代に磨かれた、華やかで頑強な鎧──
レオポルトという名の鎧を、静かに、だが確実に裂くものだった。
西側のカーテンの隙間から差し込む光が、額縁のガラスに斜めの影を落としていた。
ガス灯がまだ灯る前の、街がいちばん静かになる時刻だった。
「またね、教授」
ミレナはそう言って、小さく笑った。
「ミレナ……」
その名を呼んだとき、彼女の背中はもう、光に溶けかけていた。
私はしばらくその場を動けず、描かれなかった“花”の余韻を見つめていた。
扉がわずかに軋んだ気がした。
現実だったか、幻だったか──ただ香だけが、確かにそこにあった。
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