181.【小説】Golden Slumber Ⅲ-Die Stille des Goldes-
第3章 沈黙の灯
私のもとに、彼女からの手紙が届いたのは数日前のことだった。
白い封筒、見覚えのある筆跡──そして、あの名。
あの名を見た瞬間、私の中の“時間”が目を覚ましたようだった。
内容は簡潔で、場所と時間、ただそれだけが記されていた。
なぜ"今"なのか。
なぜ“私”なのか。
答えはなかったが、それでも私は迷わなかった。
会えることに、理由などいらなかった。
夜が静かに降りてきた。
街灯の灯りが石畳に長く伸び、ウィーンの影は柔らかく沈んでいく。
私は、彼女の小さなアトリエを訪ねた。
迎えに出る者もなく、扉は静かに開かれていた。
その部屋には、言葉のない空気が満ちていた。
画材の匂い、古い本の紙の匂い、そしてあの、果実のような残り香。
それは、確かに彼女の気配だった。
ミレナは振り返らなかった。
窓辺に立ち、夜の気配に身を委ねるようにしていた。
月明かりが彼女の肩の線を照らしている。
「来てくれて、ありがとう」
彼女の声は、まるで夢の残響のようだった。
私は応接の椅子に腰を下ろし、黙ったまま彼女を見つめていた。
何かを言えば、何かが壊れるような気がした。
沈黙が、最も正確な会話になることがある。
やがて、ミレナがこちらに向き直った。
その瞳には、かつて見たことのない静けさがあった。
情熱でも、悲しみでもない──赦しのようなもの。
「あなたは、あの夜──私の描かなかった花を、見ていたわ」
ミレナの声は、まるで絵の裏に書かれた言葉のように、静かだった。
「誰も触れなかった部分を……あなたは、あなただけは、見ようとした。
だから、呼んだの」
……私は言葉を失った。
「ミレナ……私は……」
ミレナは、そっと歩み寄った。
香りと沈黙だけが、その場を満たしていく。
私たちは互いの輪郭を確かめ合うように、指先で時間を辿った。
この夜が永遠でないことを、二人とも知っていた。
だが、その有限こそが、この夜を美しくしていた。
肌に触れたとき、不意に──あの夜、彼女と見た絵が脳裏をよぎった。
骨の輪郭、線の震え、そして不完全な美。
シーレのあの絵を、私はずっと拒絶していた。だが今、その脆さこそが、命だと思った。
ミレナは、深く口づけたあと、小さく笑った。
「構造の外にも、少しだけ光はあるのね」
それが、あの夜の彼女の最後の言葉だった。
あとは──ただ、静かな闇と、微かな風と、
交わされた温度だけが残っていた。
夜が明ける前に、私は部屋を出た。
彼女は何も言わず、ただ窓辺で背を向けていた。
外の空気は冷たかった。
だが、その冷たさには、確かにあの夜の残り香が宿っていた。
今でも、あの一夜は夢のように思える。
もしもう一度、同じ夜が与えられても──
私たちはきっと、同じ道を選ぶだろう。
美とは、選べないものを選んだときにだけ、姿を見せるのかもしれない。
たとえそれが、あらかじめ決められた終焉に向かう選択だとしても。
いいなと思ったら応援しよう!
ありがとうございます。
お気持ちが、大変励みになります。その、お気持ちに応えれる様な記事を引き続き作っていきたいと思います。
本当に、ありがとうございます。