174.【小説】火を継ぐモノ:第5章「火を抱く夜」
第5章「火を抱く夜」
地下の工房には、いつもより多くの蝋燭が灯っていた。
それでもその場の空気は重く、紙をめくる音すら張り詰めていた。
「兵の持ち場は交代制だ。午前三時、南棟の見回りが手薄になる」
「合図はこれだ。入口に赤い布を巻いた蝋燭を吊るす」
「東回廊の鍵は、例の看守が受け取っている。金貨十枚、渡している。」
地図を囲み、若者たちは短く、熱を帯びた声で言葉を交わしていた。
その中で、エリシャは一人、手を組んで立っていた。
何度も言葉を発しかけては、唇を閉じる。焦りではなく、慎重さだった。
「……先生が、拒んだら?」
仲間の一人がつぶやいた瞬間、空気が凍る。
「ルカ先生の師匠、ベネディクトって人も……逃げなかったって聞いた」
「先生はあの裁きを見てた。たぶん、今度も逃げない気がする」
「……俺は、先生を助けたい。
逃げて、生きてほしい。
本音を言えば、あの人の言葉を、もっと聞きたいんだ」
エリシャが静かに言った。
「でも──それは俺の願いだ。
もし先生が、逃げなかったら……
その時は、あの人の“言葉”が本当に火になるってことだ」
「その火がどれほどの重みか、
俺は……見届ける覚悟がある」
その言葉に、誰も反論しなかった。
鉄錠の鳴る音に、ルカは目を閉じたまま気づいていた。
扉の向こうから、あの懐かしい声が静かに響いた。
「……ルカ。まだ、夢の中か?」
低く、滑らかな声音。
ファウストだった。
今は異端審問官の頂点に立つ男。
「昔と変わらないな。
蝋燭一本で夜を越えるところも」
「まったく、あの頃と同じ部屋にいるようだよ。覚えてるか?
師が最後に座っていた椅子の傍で、君は泣いていた」
ルカは答えない。
「私は残った。君は逃げた。
そして君の火は今、若者を動かした」
「いいじゃないか、これで赦される。第2の声を渡せば、それでいい。
もう“正しさ”を問われる時代じゃない。君は、勝者になれるんだ」
「それとも……まだ、彼の言葉を覚えているのか?」
ルカのまぶたが、かすかに動いた。
ファウストは手を扉の縁に置き、少しだけ声を低くする。
「取り立ててもいい。
書記官の職は空いている。
妻帯も許される。
……君には、あの女がいたな」
「名前を出すな」
ルカの声は、驚くほど穏やかだったが、鋭さを帯びていた。
ファウストはわずかに肩をすくめた。
「考えてくれ。それだけでいい。
私は君の敵じゃない」
扉が閉まるとき、ルカはようやく目を開けた。
蝋燭の火が、かすかに揺れていた。
次に扉を開けたのは、女だった。
長い髪を布で覆い、目だけを見せていた。細く、だがよく光る瞳。
「……ルカ」
セレナだった。
あの逃亡の夜から、彼女は姿を消していた。誰にも行き先を告げず、ひっそりと遠くで生きていたと聞いた。
「何故、来た」
「あなたが、火にかけられると聞いて。……止めたかった」
ルカは視線を落とした。
床の石が冷たい。
「生きて。逃げて。
今なら、できる。
あのときと同じように」
「逃げて、私と暮らして。
もう、火の中に行かないで」
セレナの手が、ルカの手を取る。
温かい。
確かに、そこに“生”がある。
「……街は、変わらないかもしれない。でも、あなたがいれば、私の世界は変わる」
「お願い、ルカ……今度こそ、共に生きて」
ルカは、ただ蝋燭の火を見つめていた。
何も言わなかった。
否定も、肯定も、まだ言葉にすることができなかった。
セレナの目から、一筋の涙がこぼれた。
「私は、南門の先で待っている。
今夜、もし──もしも、来られるなら」
彼女は、静かに扉を閉めた。
ルカは、独り蝋燭の前に残った。
その火は、風もないのに、ほんの少しだけ揺れていた。
夜が更けてゆく。
ルカは、火の揺れと、自分の呼吸の音しか聞こえない石室で、まだ答えを出せずにいた。
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