302.【小説】潮騒の港 -ひかりの海-2
第一話 神戸港(後編) ─ 港の風を歩く ─
春先の潮風に吹かれた身体は、思っていたより冷えていた。
本当はこのまま飲みに行きたかったが、せっかくの帰郷だ。母が手料理を用意していると聞いている。
ならば、と港を離れ、少し山の手に足を向けた。
観光客の賑わいから距離を取るには、ここがちょうど良い。父に昔、連れてきてもらった珈琲店が、このあたりにあるはずだった。
──あった。古いレンガの壁に、手書きの看板。店の佇まいも変わっていない。
扉を押すと、少し重い空気と珈琲の香りが迎えてくれた。
カウンターの隅に腰を下ろし、メニューを眺める。
身体を温めたかったのもあるが、ふと目についた「アイリッシュ珈琲」を頼んだ。
ほどなくして供されたグラスの中で、琥珀色の液体とクリームが揺れていた。
一口含む。甘さと熱がじんわりと喉を下る。
──気づけば、船の上の風景を思い出していた。
行き交う観光客、異邦人、幸せそうなカップルと家族。
シャッターを切る手は動かなかった。
まだ撮れない。ファインダー越しに見えてしまうものが多すぎた。
それでも、一羽、凛として波間に浮かぶカモメの姿には、自然と手が伸びていた。
──せめて、一枚だけ。
人工の完璧さと、自然のゆらぎ。
その間で、いまの自分が何を切り取ろうとしているのか、まだ掴めずにいた。
低い汽笛の音が遠くから響いた。
グラスの中の琥珀色を見つめていた目が、ふと窓の外に向く。
「もうすぐ降り出すでしょうね」
カウンターの向こうから、マスターが穏やかに声をかけた。
そうかもしれない。空はすでに鈍い灰色に染まりかけていた。
「雨に濡れる前に、戻られるのが良いですよ」
促されるようにグラスを空け、席を立った。
家に戻る頃には、ぽつり、ぽつりと冷たい粒が肩に落ち始めていた。
「おかえり。もう降ってきたわね」
玄関先で迎えた母が、タオルを差し出す。
もう食卓には湯気の立つ料理が並んでいた。母は台所に立ちながら、父の様子をぽつぽつと話す。
病状は少し落ち着いている、と。
ふと、母が言いかけた。
「……美佳ちゃん、来年は中学生になるのよね。何か、お祝いでも──」
「……ああ、そうだね。でも、今はまだ……また、改めて話すよ」
慶彦は静かに言葉を遮った。
食事のあと、明日の予定を母に伝えた。
「明日、東京に戻るよ。少し落ち着いたし、また顔を出すよ。」
母はうなずいた。
21時、夜の街に出た頃には、雨は本格的に降り始めていた。
港まで足を延ばそうかとも思ったが──今はそれより、この雨音に包まれていたかった。
傘越しに響く雨の音が、潮騒に溶けていく。
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