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世界遺産 西本願寺 国宝建築 深掘りしてみた



NHKの『国宝へようこそ 第7集 西本願寺』を視聴しての,感想とクリップ、興味が湧いて脇道にそれて色々調べたものの、ラフ書き noteです。


現地で撮影してきた写真


① 毎朝6時の晨朝勤行に集う人々

画面は朝5時20分の西本願寺。
朝焼けに映える 並び建つ巨大な国宝の木造建築。阿弥陀堂 と 御影堂。次の画面では、砂利の音を響かせ僧侶が敷地東南の鐘楼に向かう。
5時30分 鐘を撞き、それを合図にふたりの警備員さんが敷地東側,国道1号線に面した煌びやかな門、御影堂門の戸を開ける。
すると、一礼して,続々と門をくぐる,意外にラフなスタイルの近隣にお住まいの門徒たち。
次の場面、1人の僧侶がおそらく阿弥陀堂と御影堂の間と思われる渡り廊下を,音を立てて走ってきて、鐘楼のものよりは小さめの鐘を撞き、朝のお勤め、晨朝勤行が始まることを知らせる。直前に走るのも、そういうお作法なんだそう。
そして、鐘のエンディングっぽい叩く音に合わせ阿弥陀堂で始まる門徒の「南無〜」の唱和。
その広さ、なんと734畳敷の阿弥陀堂。その畳のところどころで,正座し経本を手にする門徒。毎朝の習慣になっているようです。
阿弥陀堂のお参りの後、全員で歩いて渡り廊下を隣の御影堂まで静かに移動します。その後は法話。これが西本願寺で毎朝行われている晨朝勤行 です。
実は,厳粛な空気を壊さなければ旅行者でも誰でも,お堂の中で参加できます。終わる頃には日が上り,外は明るくなっています。


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②西本願寺とは 概略

鎌倉時代に親鸞が開いた浄土真宗の総本山。織田信長と大阪本願寺でいろいろあったあと、天正18年、秀吉の京都の再復興事業にあわせ、本圀寺があった土地の一部を受けとりました。そしてこの六条堀川に移転。なんと江戸時代初期には全国に約1000もの末寺があった(そこ、そういえば大阪本願寺と石山合戦の時に学んだ)。御影堂と阿弥陀堂が建てられましたが、慶長地震で倒壊したり、失火で焼失してしまいました。
境内マップ


親鸞さまの教えとは

詳しくは西本願寺サイトを見ていただくとして、阿弥陀仏に信じ、念仏を唱えることですべての人を救うというものです。これも大阪本願寺と石山合戦のところで学びましたが、とにかく,飢饉に疫病、戦の巻き添えや子どもの早逝など、明日生きるのも不安な時代。浄土真宗は、広く民間に浸透していたようです。

③世界文化遺産で国宝建築

そして江戸時代初期の失火で焼失した後、再建されたのが 今この場所にある 御影堂 と 阿弥陀堂 です。先に阿弥陀堂、そして寛永13年1636年にようやく御影堂が完成しました。この事業を担ったのが、親鸞から数えて13代目の宗主で、若くして西本願寺を率いた良如上人。石山合戦の顕如は11代です。今ここにある建物には、良如上人の思想が込められていると思います。良如上人は,各地の末寺や門徒に手紙を書いて寄進を募ったそう。お金だけではなく,労働力も提供したと思われます。巨大な柱の並ぶ、日本最大級の木造建築,国宝建築,世界遺産です。

④通常非公開の書院と飛雲閣

その御影堂の奥にあるのが,通常非公開の、白書院,黒書院、その中庭にある日本最古の現存能舞台、北能舞台,南能舞台。そして池の向こうの楼閣 飛雲閣です。御影堂阿弥陀堂の再建に先立ち、まず書院が建設されたそうです。
内部の写真がたくさんありますのでこちらもどうぞ。

⑤白書院の中は

国宝建築。江戸初期、火災の翌年に完成。縦長に3つの部屋がある。1番奥が一の間といい、宗主が座る場所は,違い棚のある床間を背に一段高くなっている。天井は格式の高い格天井。そして、黄金の障壁画。まさに桃山文化の結晶とも言えます。
一の間の襖絵は、中国の故事で「皇帝が庶民の話に耳を傾ける話」,と伝えられています。各地から来た末寺や門徒の話を聞く宗主の自戒を込めてか?
二の間と三の間の襖絵は、松,梅,孔雀と,鮮やかで穏やかな絵柄。二の間、三の間は各地の門徒や末寺の僧侶が座る部屋。欄間もとても美しい。金箔が貼られ、椿の木と尾長鶏がモチーフ。鳥にはうっすらと緑の彩色が残る。白書院は、西本願寺が,心配して全国各地からやって来た門徒や僧侶をもてなす場だったようです。

⑥対面所 鴻の間

広さ200畳あまり、ここにも黄金の障壁画。御影堂阿弥陀堂の完成までは,ここに門徒が集って勤行をしていたらしい。今も親鸞の命日などには,多くの門徒がここに集うそう。
ここも格天井。ひとますごとに、美しい絵が描かれている。
奥が一段高くなっていて,その境目には鴻の透かし彫りの欄間。めでたいことの印でもある。
奥の一段高いところのさらに奥の床の間。ここの障壁画にも、また、人々の上に立つ者への自戒をこめた中国の故事。人々の心が離れていった傲慢な皇帝と、丁寧に賢者たちの話を聞く王子の物語。
上段の向かって右側はさらに高い「上々段」、障子戸が背景になる。もしかすると、ここに仏像を安置していたのではないか?と思われているらしい。
門徒が座る下段。松の老木が部屋いっぱいに踊り、ところどころに鶴のいる黄金の障壁画。狩野派の絵師、渡辺了慶の作品。

⑦枯山水庭園 虎渓の庭

どうやら聚楽第から移した石の可能性もあるらしい。真相は如何に?
京都では大変珍しい蘇轍も植えてある。異国趣味がウケていたらしい。

⑧北能舞台 日本最古

重要文化財 日本最古と伝わる能舞台。法要の合間に能を演じて,教えを広める助けとしたり、様々な賓客を能というエンターテイメントでおもてなしをしたらしい。どこかからか移築された桃山時代の能舞台らしい。
ここで能を見たのは賓客や貴人だけでなく、各地の門徒にも見せて,それを地方に持ち帰らせるという、文化の伝播 の一面も担っていたらしい。

⑨黒書院 

国宝。宗主家のプライベート空間として建築。いまも、僧たちの中でも限られた人物しか中に入ることができないらしい。中は至って簡素。床の間も障壁画はなく,それでも違棚には透かし彫り。静謐な空間。数寄屋造。江戸時代初期に京都で流行していたらしい。
障壁画は、墨画。狩野探幽。雪灯りで読書をする人物,竹林と家屋など,非常に落ち着いた絵柄。狩野探幽は、良如とともに、秘蔵の美術品工芸品を眺めながら,書院の構想を語り合ったらしい。
ごくごく親しい人物だけが入れるサロンとしても機能していたらしい。


⑩国宝 飛雲閣

池のほとりに三層の楼閣。建築当初は、小舟でしかここに辿り着くことができなかった。なんとも,エンタメな空間だったらしい。鞆の浦みたいに建物の下に船着場がある。
飛雲閣は,かつては聚楽第移築説もありましたが、どうやら近年の調査では江戸時代寛永年間の建築ということらしいです。
どうやら外交空間、交流サロンとして機能していたらしい。

一層目 舟入の間が玄関となる。その先に障子に囲まれた招賢殿という大きな部屋。ごく限られた有力僧侶、公家(歴代宗主は公家の娘を妻としている)、武家などを招いて宴を催したらしい。とても大事な外交空間なんですね。障子越しに池から水の反射でキラキラした光も見えたことでしょう。

二層目 歌仙の間。三十六歌仙が黄金の障壁画に描かれている。歌会をここで催したのか?
一層目で飲食した後,二層目でワイワイ遊んだのか?絵は1990年代の修復で鮮やか。屋外の戸にも,歌仙の絵。

三層目 摘星楼 夜の京の景色を楽しむ空間。星にも手が届くほど,の意味か?

⑪狩野派の障壁画とその意味

おさらい
白書院 狩野派渡辺了慶 宗主へは戒めや自戒、門徒や末寺の僧侶へは,遠路きたことを労うような癒しのような絵柄。
黒書院 狩野探幽 墨画 プライベート空間 落ち着き,静謐、読書,竹林などの絵柄


⑫保たれてきた美しさ

阿弥陀堂は2010年代に修復
飛雲閣の三十六歌仙も,復元修復

⑬ご本尊さまや寺宝など

今回は建物にスポットをあてて書きましたが,ご本尊さまあっての西本願寺。
親鸞聖人影像 鏡御影 国宝  墨画 鎌倉期

三十六人家集(37帖)国宝 平安期 本願寺本

教行信証(6冊) 重要文化財

一文字茶碗 石山合戦和睦の際に,織田信長より贈られたと伝わる



⑭書いてまとめた感想

朝6時に現地に行って勤行に参加したり、大坂本願寺と石山合戦で別記事を書いていたり,「豊臣兄弟!」の「本圀寺の変」の回でいま西本願寺が建つこの場所に本圀寺があったことを知ったり、親鸞さまが開祖だったり、ある程度予備知識はあっても、改めてこうして書くことで自分の学びを深めることができました。
楽しい知の旅の時間を、ありがとうございました。



⑮読みたい本と関連サイト

後日追記予定



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