【起業家列伝 #7】フィル・ナイトはなぜ、わずか50ドルからNikeを立ち上げることができたのか
AI時代が、壁を壊した。言語の壁も、技術の壁も、資金の壁も——かつて大企業だけが越えられた壁を、今は一人で越えられる。敷かれたレールを降り、アイデアひとつを胸に、自分だけの道を切り拓く者たちがいる。世はまさに、創造の新時代。
【起業家列伝】は、時代を切り拓いた起業家たちが、どのようにアイデアを思いつき、どのように行動し、どのように最初の収益を生み出したかを追うシリーズです。成功した後の話ではなく、始まりの話を書いていきます。
フィル・ナイトは、大学院の論文で立てた一つの問いをきっかけに神戸へ渡り、わずか50ドルの代理店契約からNikeの原型を作った起業家です。
頭の中の仮説を、実際に現地まで足を運んで確かめたことが全ての始まりでした。考えているだけでは何も始まらないという、行動の起こし方の参考になります。
この記事では、50ドルの契約から自社生産に踏み出すまでの判断と、その過程で日本から受けた支援を見ていきます。
オレゴン大学で陸上選手として活躍していたフィル・ナイトは、スタンフォード大学経営大学院に進んだ。
そこで書いたビジネスプランの論文に、後の人生を決める一文があった。「日本の運動靴は、日本のカメラがドイツのカメラにしたことを、ドイツの運動靴に対しても成し遂げられるか」という問いだ。当時、日本製カメラが高品質かつ低価格でドイツ製を追い抜いていた現象を、運動靴の世界でも再現できるのではないか——そう考えた。
卒業後、ナイトは実際に神戸へ向かった。
訪れたのは、オニツカタイガー(現アシックス)だった。
品質と価格に魅力を感じたナイトは、代理店契約を申し出た。創業者の鬼塚喜八郎は、リュックひとつで全国を売り歩いた自分の若き日と、目の前の青年の心意気を重ね合わせた。「この若者に、思い切って販売店をやらせてみよう」——そう決断した鬼塚は、わずか50ドルでアメリカでの独占輸入販売権をナイトに与えた。
1964年、ナイトはオレゴン大学の陸上コーチだったビル・バウワーマンとともに、「ブルーリボンスポーツ(BRS)」社を設立した。日本からオニツカタイガーのランニングシューズを輸入し、アメリカで販売を始めた。
BRSは単なる輸入代理店にとどまらなかった。
バウワーマンのアイデアが製品開発にも影響を与え、1968年には「タイガー コルテッツ」というモデルが誕生した。これがBRSの看板商品の一つになった。
しかし、オニツカとの関係には次第に摩擦が生じていく。輸送や発注のトラブルが続き、不満を募らせたBRSは、ついに自社でシューズを生産する決断をする。日本の総合商社、日商岩井(現・双日)の支援を受けながら、1971年にオニツカとの提携を終了した。
1971年6月18日、後にNikeの象徴となる「スウッシュ」を冠した最初のシューズが発売された。
このロゴをデザインしたのは、ナイトがポートランド州立大学で出会ったグラフィックデザイン専攻の学生、キャロライン・デビッドソンだった。製図の課題をしていたところをナイトに捕まり、ロゴ制作を依頼された。デビッドソンが請求したデザイン料は、わずか35ドルだった。
社名は、ギリシャ神話の勝利の女神「ニーケー」にちなみ「Nike」と名付けられた。スウッシュの形は、翼を広げたニーケーの姿をモチーフにしている。
最初の生産拠点は、メキシコの工場だった。
しかし、より高品質なシューズを作るため、日商岩井の仲介で、福岡県の日本ゴム(現・アサヒシューズ)の工場と契約を結ぶ。1972年から、ここでトレーニングシューズの生産が始まった。
皮肉なことに、これはかつての提携相手であるオニツカタイガーの競合工場だった。日本という国は、Nikeにとって「学びの場」であると同時に、「再出発の場」にもなったのだ。
順風満帆ではなかった。
オニツカとの提携終了後も、バウワーマンが名付けた「コルテッツ」という名称をオニツカが使い続けたため、裁判にまで発展した。1974年に決着し、Nikeが「コルテッツ」の使用権を勝ち取った。
その後も、不渡りを理由にメインバンクから取引停止を告げられる危機があった。この時もまた、日商岩井のポートランド支店の経理担当者が、独断で支払いを肩代わりし、倒産を免れたという。
50ドルで始まった代理店契約から、何度も日本の支援を受けながら、Nikeは自社ブランドとして立ち上がっていった。
技術開発にも積極的だった。1978年には、ソールに空気を仕込んだ「エア」システムを搭載した「テイルウインド」を発売。1980年代には「エアジョーダン」シリーズが世界的な人気を獲得し、Nikeは単なるスポーツ用品メーカーを超えた文化的な存在になっていく。
50ドルの契約から始まり、何度も危機に直面しながら、Nikeは世界最大級のスポーツブランドに成長した。
日本の技術と品質に目をつけた着眼点。そして、提携が壊れても自ら生産する道を選んだ決断力。これらが組み合わさった時、一つの小さな代理店業が、世界を席巻するブランドへと変わっていった。
アイデアは、異文化の中に眠っていることがある。それを見つけ出し、自分の手で形にする勇気が、何もないところから何かを生み出す力になる。
【最後まで読んでくださった方へ】
実は私自身も今、銀行員として働きながら、中高生に社会の構造を伝え、ビジネスプランを一緒に考えながら「自分が目指す道」を一緒に探し、その道の少し先を歩んでいる大人と直接話せる「会える伝記」という場所を作ろうとしています。なぜそんなことをしているのか、ここに書きました。ご覧いただけると嬉しいです。
