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【起業家列伝 #46】小倉昌男はなぜ、社内全員の反対を押し切って宅急便を始められたのか

AI時代が、壁を壊した。言語の壁も、技術の壁も、資金の壁も——かつて大企業だけが越えられた壁を、今は一人で越えられる。敷かれたレールを降り、アイデアひとつを胸に、自分だけの道を切り拓く者たちがいる。世はまさに、創造の新時代。


【起業家列伝】は、時代を切り拓いた起業家たちが、どのようにアイデアを思いつき、どのように行動し、どのように最初の収益を生み出したかを追うシリーズです。成功した後の話ではなく、始まりの話を書いていきます。


小倉昌男は、ゼロから会社を興した人物ではありません。父の興した運送会社を継ぎ、しかしその会社が経営危機に陥る中、役員全員の反対を押し切って、まったく新しい事業に社運を賭けました。今では当たり前になった「宅急便」は、そんな背水の陣から生まれています。


小倉昌男は、1924年、東京・代々木に生まれました。父の康臣は、手押し車での青果行商から身を起こし、1919年、トラック4台で大和運輸(現・ヤマト運輸)を創業した、叩き上げの実業家でした。

昌男は、幼くして実母を、そして再婚した継母も相次いで亡くし、厳格な父のもとで、どこか寂しさを抱えた少年時代を過ごします。東京帝国大学経済学部を卒業後、1948年、24歳で父の会社に入社しました。

入社の翌年には肺結核を患い、4年もの入院生活を送ることになります。それでも昌男は、1961年に取締役、1965年に専務と、着実に会社を担う立場へと歩みを進めていきました。


1971年、病床にあった父から、昌男は社長の座を引き継ぎます。しかし、その頃の大和運輸は、決して順調とは言えない状態でした。1960年に参入した長距離輸送では、すでに同業他社に大きく後れを取っており、さらに1973年の第一次オイルショックによって、荷物の取扱量は激減していきます。

社長就任早々、昌男が向き合わなければならなかったのは、この危機的な経営状況からの脱却でした。


そんな折、昌男はアメリカのUPS(ユナイテッド・パーセル・サービス)という運送会社が、個人向けの小口荷物配送で急成長している事実を、自ら調べ上げます。

「このままでは、うちは駄目になる。小口荷物に進出しよう」

取締役会で昌男がこう提案すると、他の役員は全員、猛反対しました。小さなトラックで路地裏まで一つひとつ荷物を配達するのは、手間ばかりかかって利益は少ない、というのが大方の見方でした。

当時の大和運輸は、百貨店など安定した大口顧客から、まとまった量の荷物を受注する事業モデルで成り立っていました。その方が効率が良いと、誰もが信じて疑いませんでした。


しかし昌男の見立ては、違っていました。

小口配達となれば、荷主は不特定多数の一般家庭になります。一方の大口顧客は、大量発注をかさに、値切り交渉を仕掛けてくる相手でもありました。それに比べて、規定料金を提示された家庭の主婦は、値切ることをしません。一つひとつの荷物は小さくても、実入りで見れば3倍から4倍の収入になる。昌男は、そう見抜いていたのです。

事業として成り立つはずがないと、社内外の誰もが口を揃える中、昌男はこの無謀とも言える挑戦に踏み切ります。


1976年1月20日、東京23区と関東6県の営業所84店舗で、新サービス「宅急便」がひっそりと産声を上げました。

旧運輸省は、路線免許の交付に消極的でした。社内の役員もほぼ全員が反対したままでした。それでも昌男は、ひるみませんでした。

サービス開始から数日後、1月23日に集計された取扱個数は、わずか11個でした。

華々しいスタートとは、程遠い船出でした。それでも昌男の胸には、一つの確信がありました。宅急便は、絶対に儲かる。その確信だけを頼りに、彼は既存の常識をひっくり返していったのです。

「サービスが先、利益は後」

これが、小倉昌男が事業の原点に据えた言葉でした。


わずか11個から始まった宅急便でしたが、その後の伸びは、誰の予想も超えるものでした。それまで個人が荷物を送る手段は、郵便局に持ち込む郵便小包しかありませんでした。電話一本で集荷に来てくれて、翌日には届く。この利便性への潜在的な需要は、想像以上に大きかったのです。取扱個数は初年度で170万個、3年後には2226万個にまで膨れ上がりました。


しかし、成長の道のりは平坦ではありませんでした。当初、宅急便のサービス地域は、道路運送法上の制約によって関東地方に限られ、赤字が続いていました。全国展開のためには、地域ごとの路線免許が必要でしたが、既存業者を保護する立場にあった旧運輸省は、なかなか免許を出そうとしませんでした。

ここで小倉は、思い切った行動に出ます。行政訴訟も辞さない姿勢で、運輸省を相手取り、規制緩和を求めて正面から闘いを挑んだのです。民間企業の経営者が、あえて国を相手に裁判まで起こす。この姿勢は業界内外で大きな話題を呼び、弱い立場の消費者の側に立つ企業、という宅急便のイメージを、かえって強めることにもなりました。粘り強い交渉と法廷での闘いの末、小倉は各地の路線免許を一つずつ勝ち取り、宅急便のサービス地域を、全国へと広げていきます。この一連の闘いは、後の日本における規制改革の先駆けとしても、しばしば語られることになります。


もう一つ、小倉が徹底してこだわったのが、現場で荷物を届ける人たちの存在でした。

小倉は、荷物を運ぶ運転手を、単なるドライバーとしてではなく、お客様と直接向き合うプロフェッショナル「セールスドライバー」と名付けました。地域の一軒一軒を回り、顔の見える関係を築いていく彼らこそが、宅急便という事業の、最大のブランドになるはずだと、小倉は確信していたのです。荷物を届けるたびに交わされる「ありがとう」の一言が、単なる配達作業を、想いを届ける仕事へと変えていきました。


事業はその後も広がりを見せます。1984年にはゴルフ宅急便、1987年にはクール宅急便と、暮らしの中の新たな不便を見つけては、次々とサービスに落とし込んでいきました。取扱個数は、1993年に5億個、2004年には10億個を突破します。

わずか11個の荷物から始まった挑戦は、需要の大きさ、規制と闘う覚悟、そして現場の人の力を信頼として再定義したことの掛け合わせによって、日本人の暮らしに欠かせないインフラへと育っていったのです。

父の会社を継ぎ、危機的な状況に直面しながらも、社内全員の反対を押し切って踏み出した、たった11個の荷物から始まる物語。宅急便という当たり前の仕組みは、そんな小さな一歩から始まっていました。

【最後まで読んでくださった方へ】
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。起業家たちの物語は、まだまだ続きます。ほかの起業家たちの挑戦も、ぜひ覗いてみてください。

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