ふらりと神社へ行ってみた。#7 椿大神社。早春の三重県の旅~その2~ 松下幸之助翁が神様になっていた。
「ふらりと神社へ行ってみた」第7回は「椿大神社」です。なんちゃって初詣で多度大社を訪れた三重県への早春の旅の「その2」でもあります。椿大神社は三重県鈴鹿市にある神社で、主祭神は猿田彦大神です。社格は伊勢国一宮、延喜式神名帳の式内社で小社、近代社格制度の旧社格は県社、現在は別表神社です。猿田彦大神を祀る全国二千余社の総本宮です。このことが再確認されて、終戦直前には近代社格制度の国幣大社の昇格内示が出ていたそうですが、第2次世界大戦の終結で昇格することはありませんでした。
(撮影:2026年3月12日)社格については末尾を見てください。
椿大神社まで
なんちゃって初詣に出かける前に、伊勢神宮以外どこの神社に行くかを考えていて、一度も訪れたことがなかった「多度大社」に行くことを最初に決め,
多度大社からそれほど離れていない有名神社を探して椿大神社を選びました。以前、鈴鹿市の梅の名所「鈴鹿の森庭園」を訪れた際、ついでに訪れたことがありましたから、おおよその場所(鈴鹿市の西の外れ)は知っていました。とは言え、ナビなしで多度大社から向かうことはできませんから、多度大社の駐車場で先ずはナビに入力です。「つばきだいじんじゃ」と入力してもナビに表示されません。PCで調べたときは漢字仮名変換して漢字で検索しました。車のナビは読み仮名を入力する必要があるのです。「つばきおおじんじゃ」と入力しても、ナビは反応しません。仕方がありません。スマホのGoogleマップで検索してナビすることにしました。このとき初めてこの神社の読み方を知りました。「つばきおおかみやしろ」です。多度大社からは40~50分ほどのドライブです。
愛知県一宮市、和歌山県田辺市と和歌山県紀の川市の「大神社」、福岡県香春町の「鏡山大神社」は「だいじんじゃ」と読み、和歌山県那智勝浦町にある「熊野三所大神社」は「おおみやわしろ」と読むそうです。神社の名前や日本の神の名前は読み方が分からない物が多いです。
椿大神社
「椿大神社」の主祭神は「猿田彦大神」ですが、それ以外に相殿として「瓊々杵尊」、「栲幡千々姫命」、配祀として「天之鈿女命」、「木花咲耶姫命」を祀っていて、さらに前座に「行満大明神」を祀っています。相殿の瓊々杵尊(天照大御神の孫神)が天孫降臨する際に道案内をされた「みちびきの神」猿田彦大神を主祭神としているので、開運や事業成就、交通安全などの「みちびき」の神として信仰されています。栲幡千々姫命は瓊々杵尊の母神で、天之鈿女命は猿田彦大神の妻神、木花咲耶姫命は瓊々杵尊の妃神です。行満大明神は猿田彦大神の直系の子孫です。
参道


参拝者用駐車場からしばらく歩くと「伊勢一宮 椿大神社」と記した立派な標柱と一の鳥居が出迎えてくれます。その標柱の奥に末社「庚龍神社」(祭神:金龍龍神、白龍龍神、黒龍龍神)があります。背後にある樹齢400年の樅の木に龍神様が宿り、神域を守ったと伝えられています。


御祭神である猿田彦大神の「神使(神の使い)」が蛙であるとされているため、手水舎にある手水鉢の吐水口は蛙です。しかし、この蛙の吐水口は現在は使われて折らず、手水鉢にも竹の蓋がされていて、竹筒から流れてくる水で直接手を清めるようになっています。柄杓もありません。コロナ感染症の流行の時から変わったのでしょうか。


椿大神社は鈴鹿山系の豊かな自然に抱かれた「鎮守の森」の中にあり、本殿まで一直線に300mほどの参道の周りには樹齢数百年の杉や桧の巨木が立ち並んでいます。木漏れ日が差し込むだけの静謐で荘厳な空間が本殿まで続いています。玉砂利が敷き詰められた参道を歩く「ジャリジャリ」という音が聞こえるほど静かです。
参道の脇



一の鳥居を入ってすぐ参道から脇に少しそれたところに「椿延命地蔵」があります。修験道が盛んな場所であって、神仏が共に祀られていた神仏習合時代の名残を留める、慈悲深いお地蔵様です。地蔵の横にある石塔群(行満大明神などの歴代の神主や、神社に縁のある人々を供養する供養塔)が独特の雰囲気を醸し出しています。鬱蒼とした森の中でこの一画だけは日の当たる場所で明るいのですが、不気味さと共に厳かさを感じる空間です。


参道の中ほどにたたずむ前方後円墳「高山土公神陵」(周囲約300m、幅約50m、高さ約20m)は、猿田彦大神の御陵と伝えられていて、椿大神社の歴代山本神主家が古来より守り続けています。祠が作られていて、祭神を猿田彦大神、瓊瓊杵尊、栲幡千千姫命とする末社とされています。近くにある「地球玉の猿田彦大神」は苔むした石像で、日本が彫り込まれた球体(地球)の上に猿田彦大神の像が立っています。次のような説明書きがありました。「地球国土の神(国つ神)として守護する猿田彦大神は地上の平和と幸福を招く働きをされます。」


さらに本殿の方向に進むと左手に「御船磐座」(末社、祭神:猿田彦大神、瓊々杵尊、栲幡千々姫命)があります。祠はなく(鳥居の奥にあるのは賽銭箱など)、四方に立てた忌竹を紙垂を付けた縄(注連縄)で結んで結界(磐座)が作られています。天孫・瓊々杵尊の一行を猿田彦大神が先導し、伊勢の地へ導いた際、その船を繋ぎ止めた場所と伝えられていて、磐座の中央にある3つの石(天降石)は、中央奥が猿田彦大神、左が瓊々杵尊、右が栲幡千々姫命の神座(神様が座る場所)を表しているとされています。末社ですが、椿大神社発祥の地とされる極めて重要な場所です。張り詰めたような神聖な空気感が漂っています。
本殿へ


木漏れ日の参道を進むと神明造の拝殿が見えてきます。猿田彦大神を祀る全国二千余社の総本宮としての風格をさらに高めるべく、境内全体の整備が進められ、本殿が昭和43年(1968年)、拝殿が昭和46年(1971年)に再建されました。総檜の社殿です。拝殿の横手には「白玉椿」という品種の白い椿が植えられています。非常に格の高い椿とされ、千利休をはじめとする茶人たちに「茶花の女王」として最も愛された品種の一つで、純白の花びらと中心にある鮮やかな黄色の雄しべのコントラストが非常に美しい椿です。白い椿ごしの拝殿はなお一層厳かに感じます。


拝殿の後ろに本殿がありますが、正面からは見ることができません。左手にある授与所側から本殿を横から望むことができます。近くにはおみくじ掛けがあり、多数のおみくじが結ばれています。
遠回りして帰る



椿大神社の拝殿・本殿のすぐ東に別宮「椿岸神社」があります。椿大神社の主祭神である猿田彦大神の妻神、「天之鈿女命」を祭神として祀り、相殿神として太玉命と天之児屋根命を祀る神社です。天之鈿女命は天岩戸開きの神話で踊りを披露し、八百万の神々を大笑いさせ、天照大御神を誘い出したとされる女神で、芸能・舞楽・俳優の守護神として知られています。「天之鈿女命の本宮」として全国的な信仰を集めており、特に女性や芸能関係者の参拝が絶えない所です。本殿は総檜の神明造ですが、拝殿に相当する建屋や門、鳥居は鮮やかな朱塗りが施されていて、芸能の女神を祀るにふさわしい派手やかさです。

椿岸神社の社殿のすぐ脇に「かなえ滝」があります。開運や縁結びの強力なパワースポットとして有名で、この滝の写真をスマホの待ち受けにすると願いが叶うと言われています。この日も参拝者の多くがこの瀧で手を清めていました。

椿岸神社を過ぎてさらに東に向かうと、立派な鳥居のある「松下社」(祭神:松下幸之助命)があります。松下電器産業株式会社(現パナソニック)の創始者で、生前から「経営の神様」と呼ばれていた松下幸之助翁が神格化されて、祀られている社です。商売繁盛、経営改善、立身出世の御利益があるとして、全国の経営者が参拝に訪れるそうです。椿大神社の「昭和の大造営」の際に巨額の造営資金を寄付されて、「鈴松庵」と名付けられた茶室も寄進されたという縁で、没後10年の折りに御影石造りの祠を建て、御霊代が奉安されたということです。


さらに進むと「行満堂神霊殿」があります。椿大神社の境内にあり、神社の歴史を支えてきた先祖や神々を合祀・慰霊する重要なお堂です。行満大明神を主祭神として、椿大神社の別当寺(神社を管理した寺院)であった「神宮寺」にまつわる六柱の神々、神社の発展に尽力した歴代の役員や崇敬者の御霊が祀られているのですが、神道と仏教が融合していた神仏習合の名残を強く留めており、見た目はお寺で、内部に仏像が安置されています。
駐車場に向かう途中の「椿会館」で昼食です。とりめしが名物ですが、軽くきつねうどんで済ませます。椿会館の向かいにある「椿茶園」に立ち寄って、デザートの草餅を購入し、早速いただきます。甘さ控えめで蓬の味がしっかりする上品な草餅でした。昼食を済ませて、次は関宿まで30分ほどのドライブです。
関宿
三重県亀山市にある「関宿」は江戸時代の面影を色濃く残す、東海道五十三次の47番目の宿場町です。東海道に加え、伊勢別街道(京都方面から東海道と伊勢街道をつなぐ街道)や大和街道(伊賀上野を経由して奈良に向かう街道)が分岐する場所として、参勤交代や伊勢参りの人々で大変賑わった宿場で、東の追分から西の追分まで約1.8kmにわたり、今でも伝統的な町家が200軒以上連なっています。昭和59年(1984年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
新所の町並み


関宿の観光駐車場から歩いて最初に出会う宿場の町並みが「新所の町並み」です。関宿の西側に位置するエリアで、江戸時代には宿場の西の入り口である「西の追分」(東海道と大和街道の分岐点)から続く、多くの旅人を迎える役割を担った通りでした。関宿全体でが「生活をしながらの保存」を大切にしていて、新所地区でも江戸〜明治時代の町家が現役の住宅や店舗として使われています。新しい建物も周囲の歴史的な町並みに調和するよう、落ち着いた色彩や勾配屋根などのデザインが徹底されています。3月中旬とは言え、まだ肌寒い平日です、現在は住宅街の色彩が濃い新所地区には余り観光客もいません。



関宿の町屋は18世紀中頃から明治時代中頃までの建屋が半数以上で、2階の天井が低い中二階形式の造りです。防火のために2階部分を漆喰で塗り固めた塗籠が目を引きます。各家の虫籠窓(漆喰で塗り固めた二階の窓)は意匠が異なっているので、見ていて飽きません。


西の端が「西追分」で、休憩施設があり、自由に入ることができます。ガラス障子ですからそれほど古い建屋ではないと思いますが、町屋の内部の雰囲気を感じることができます。ガラス障子の富士山の柄入りガラスが懐かしく感じられます。1枚われていたのが残念でした。西の端ですから、一休みして中町方面へ戻ります。
中町の町並み



現在の新所の町並みは住宅として使われている古い町屋の家並みですが、関宿の真ん中に当たる中町に来ると、現在営業している店舗が増えます。平日の昼間でも観光客の姿がちらほら見えて、賑やかです。中町にある眺関亭の二階には屋根の部分に展望スペースが作られていて、屋根の高さからの家並みも一望できます。とは言え、営業している店舗の割合が増えるといっても、風情は新所の町並みと大差ありません。



関宿の中町には、「関のお地蔵さん」として古くから親しまれている真言宗御室派の寺院「地蔵院」(正式名称は九関山寶蔵寺)があります。天平13年(741年)、行基菩薩が諸国に流行した天然痘から人々を救うために安置したのが始まりと伝えられていて、一休和尚が関宿を訪れた際、開眼供養を頼まれて「釈迦は死に、地蔵は去ね(いね)ど、関の地蔵は立ちっぱなし」というユニークな歌を詠んだという伝説が残っています。本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定されています。地蔵院の築地塀(泥土を突き固めて作った塀)には、地蔵が納められていて、ユニークな景観です。


関宿を散策していると、3月にもかかわらず注連縄が飾ってある家を見かけます。この辺りから伊勢にかけては一年中注連縄を掛けておく風習があるようです。
旅の途中、みすぼらしい姿で宿を乞うた素戔嗚尊を、裕福な弟の巨旦は拒みましたが、貧しい兄の蘇民将来は手厚くもてなしました。これに感激した素戔嗚尊は、「蘇民将来の子孫である」という標識を掲げれば疫病から逃れられると約束しました。この伝承が、伊勢地方などで無病息災を願って年中注連縄を飾る風習になったということです。
本来は「蘇民将来子孫家門」の札を掲げるべきなのですが、将と門の二字を使う「将門」に略記されるようになり、「将門」が平将門を連想させることから、「笑う門には福来たる」の意味を重ねて「笑門」の表記に変わってきたそうです。


何気なく立ち寄った「アンティーク明治屋」がユニークでした。江戸時代の浮世絵や古伊万里などの皿、大正時代の電話ボックス、蓄音機など、多岐にわたるアンティークが並んでいます。文字面で見ると統一感がないようですし、店の端と端では確かに統一感がないのに、不思議なことに統一感を感じるアンティークショップです。オシャレなのに、独特なダンディズムでオシャレすぎない、皮肉っぽく真面目な話をして、よくしゃべるのに饒舌さを感じさせない、不思議で気さくな店主と楽しいひとときを過ごせました。
関宿は宿場時代の面影を強く残している町並みで、見るべき所は多いのですが、1.8㎞と長い町並みなので、飽きも来ます。1時間半ほど散策して、今夜の宿に向かうことにします。宿は二見です。次回は二見の宿から翌日の伊勢神宮初詣の話です。
社格について
日本の神社の序列は、時代ごとの行政や統治の仕組みに基づいて形作られてきました。平安時代の令制国ごとに定められた参拝順位、平安時代の法典に基づく公式リスト「延喜式神名帳」、明治政府による管理・統制のための格付け「近代社格制度」、神社本庁の人事管理上規定である「別表神社」、歴史的に形成された社格を表す社号など、多様な社格があります。社格についての詳細解説は第1回( https://note.com/ssionblog/n/nca0c104710f6 )の末尾を見てください。


